七話目「悲しみは乗り越えて、また会ってはいけないと神は言わない。時に出会って、泣くのも前へ進む力となる」
いくつもの夜を越え。
いくつもの朝に祝福され。
いくつかの季節を見送り。
ロベルト老父の歩みは、時間は掛かるものの、着実に夢の実現へと向かっていた。
アルトラン神父が初めて訪問した時のふらついた、おぼつかない足取りは、今や家中を歩いていても不安要素は一切ないほどに、輝かしい軌跡を描いている。
外への散歩も、付き添いがあれば出掛けられるほどに。
墓場までの道のりも、進めるほどに。
何度もの訪問を繰り返したアルトラン神父も、悪魔との契約終了を予期していた。
そして、ある日のこと。
ロベルト老父宅で、休憩代わりの紅茶を味わっている途中のことである。
「神父様。ひとつ、頼み事があります」
順風満帆な風向きに、これ以上ないくらいの追い風が吹くとすれば、それは幸福への道標かそれとも不幸の調べかもしれない。
だが、アルトラン神父は敬虔なる信徒であり、信者であり、宣教師でもある。
とすれば、まず幸福か不幸かなんかそもそも関係ないのだ。
ロベルト老父の真剣な顔が、今までの苦労の集大成だと言っているのだから。
「はい。私で良ければ、なんなりと」
あえて、畏まった形式をとる。
右手で心臓に手を翳し、小さくお辞儀をする。まるで、王家に仕える執事のようでもある所作は、大変品がありつつも、どこかお調子者の空気も含んでいた。
「まだ何も言ってないが」
綻びを見せるロベルト老父。先程までの真剣さ――つまるとこ緊張感がほぐれることで、安心したのだろう。
より自然体でいられたのか、肩の力が抜けている。
「神父である私が、皆様の悩みと懺悔へ耳を傾け、献身的な奉仕をすることで神々への信仰になるのなら、喜んでこの身を捧げます。
――というのは、建前でして。ここまでお付き合いさせて頂いたのです、遠慮はしないでください」
「じゃあ、好き勝手言わせてもらおうかの」
目元の皺が、より一層深まるとロベルト老父は喉を鳴らす。
「儂の妻へ会いに行こうと思う」
一幕の終わりと契約の終了。
それらの宣言が奏でられる。
誠実な瞳に返すは、アルトラン神父の太陽のような笑みであった。
◆
墓場への道のりは決して険しいものではない。
むしろ、墓守としての仕事の方が忙しいくらいであった。
それを象徴するかのように、ロベルト老父の家の裏手から伸びる山までの道は、所々に枯れかけの雑草が並んでいるくらい。通る場所以外にだけ生えており、通路はしっかりと踏み均されている。
木々の隙間を通るように伸びた道を、ロベルト老父の隣を歩きながら――ゆっくり進みながら、アルトラン神父は何気なく話す。
「もう、冬がやって来ますね」
「あぁ、今年も大変になるだろうな」
ロベルト老父は、多少、息が上がっているものの、足取りは安定している。体力面はむしろ、墓までギリギリなのかもしれない。それ以外の、バランスが悪く、小石に躓くことはむしろない。
初めて、アルトラン神父が家へ来た時に支えなければいけなかった老人は、今やしっかりと自分の力で進んでいるのだ。
「ここも、もう少しで雪に埋まってしまうだろうな」
「また、無理はしないでくださいよ。次の悪魔は、恐ろしい者かもしれませんし」
木漏れ日の中を――薄暗い世界を進む二人であったが、歩みは自信と勇気をもっていた。
なんらかの動物が出てきても、跳ね飛ばしそうな。
なんらかの悪魔が出てきても、無視できそうなほど。
彼らは、笑っていた。
「悪魔、悪魔のう……なぁ、神父様よ。悪魔は、恐ろしいのか」
「はい。恐ろしいです。人の体を乗っ取り、殺しや暴力、それらを勧めてきます。そうでなくとも、人間の破滅を好んでいるのですから恐怖の対象なのです。
本当は」
含みのある言い方ではあったものの、説得力が皆無というわけではなかった。
ロベルト老父も、その思いを受け取ったのか。自分が向き合った存在と、自分自身の価値観とを擦り合わせる。
「確かに、悪魔は恐ろしいのう。こうやって、騙していたのだとすれば、末恐ろしい」
「はい。ですので、決して許してはいけませんよ」
そうアルトラン神父は忠告するものの、その真意は言わずともロベルト老父に伝わった。
何度も頷き、深く理解した仕草をする。
そうやって、なんの問題もなく、ゆっくりと進んでいくと、一際広がった場所まで来る。
「ここです」
そこに花畑が広がっているわけでもない。
そこに、幻想的な風景があるわけでもない。
神秘的でもない。
そこだけ、綺麗に木々だけはくり抜かれていた。
そして、一面に広がった墓石の数々は、どれもこれもが丁寧に磨かれていた。
均一な間隔で置かれた石碑には、名前と年齢。そして、安寧を願う言葉が刻まれている。
時折、苔のある墓石もあるのと、石灰岩で造られた一般的な墓石とは違った、削り整えられた木板が埋まっている。
そして、一番奥まった所には、休憩できるように置かれた椅子が二組ある。
しかし、ロベルト老父はそこへ向かうわけでもなく、一直線に左端の――一番奥へと向かっていく。
ずんずんと進み、木々の揺らめきを背中に乗せ。
太陽の煌めきと、大地の芽吹きを連れて。
一目散に、一心不乱に、一生懸命に、向かっていく。
その背中を、アルトラン神父は立ち止まって眺めていた。
……いや、もう一人。
「お前は行かないのか?」
「お二人の邪魔をするのも忍びないでしょう? そういう貴方は、行かないのですか?」
「辛気臭いのは嫌いだ。それに、悪魔の契約は終了だ」
置いてかれるように現れた悪魔は、黒山羊の角をカリカリと掻く。アルトラン神父の隣で浮かんだ存在は、契約の終了をあっけなく告げた。感情もなく。感動もなく。
ただ、墓の前に座り込み、揺れる老父の肩を眺めてはいた。
「で、契約の代価はなんでしたか? 終了したのですから、秘密にする理由はないでしょう」
「お前が祓ってくれるなら、教えてやらないでもない」
「貴方が悪事を働くほどに信じられない行為ですよ」
「言ってくれる」
今度は、アルトラン神父がケタケタと笑う。
悪魔に一矢報いたと、そう思っていたのか。
それとも、自分の信じたことは決して嘘なんかではなく、報われたからか。
それか、ロベルト老父の願いが叶ったことへの喜びか。
ただ、太陽が照らした老父の姿は乗り越えた悲しみに出逢っているようでもあった。
「それで、祓ってあげるのならロベルトさんと結んだ契約の代価を教えてくれると言いましたね?」
「…………お前、気が向いたら祓ってやると言ったら、呪ってやるぞ」
「あら、お見通しですか」
残念そうに肩をすくめるアルトラン神父。
それに、憤慨したのか可愛い鼻を鳴らす悪魔。
かつて、人と不可思議が近かった時代。
不思議と隣人であった人々。
墓には幽霊と悪魔がいて。空には神と天使がいる。
森には獣と妖精がいた。
そんな悪魔と人が最も近く、時には唆され合う関係の者がいた歴史の中の話。
「さて、次の契約者は私ということになりますが。どうしましょうか。生憎、教会に悪魔をいれることはできませんし」
「お前はどうせ代価を払うつもりなんかないだろ。悪魔を祓わないのと一緒で」
「えぇ、ですから。また別の方へ憑きに行くのですか?」
「そのつもりだ。そうすれば、お前が勝手にやってくるだろ? 翻弄してやるから、楽しみにしていな」
アルトラン神父の前にやってきては、からかうように笑う悪魔。その表情に嘘偽りなどなく。
神父との関係を楽しんでいるようでもあった。
悪魔祓いをしない教会の人間。
決して、人を陥れない悪魔。
「はい。また会いに行きますよ」
二人の存在は、互いの信念で証明しあっているようでもあった。
〜Fin〜
読んでくださり、ありがとうございます。
なんとなくの思いつきで書き始め、当初は短編として終わるつもりが、いつの間にか大きな成長を遂げていました。
これも皆様のお陰でございます。
特に、以前「風景の描写が詳しいともっと楽しめるので、欲しいです」と感想を送ってくださった方のお陰になっているかは分かりませんが、キチンと描くことの大切さと大変さを感じる作品になりました。
まだ、成長中ではございますが楽しんでいただけたら幸いです。
良ければ、ポイントやブクマして頂けると嬉しいです。
そして、読んでいただき、ありがとうございました。