六話目「未来よりも、過去よりも、今を生きること」
悪魔は女性であった。
悪魔は見目麗しい姿をしていた。
妖艶でもあり、蠱惑的でもあり、全身が黄金比に形作られたようでもあり、美術品として神々が創造したと伝え歩いても問題ないほどであった。見る人が見れば、悩殺されるだろう。
見る人皆が、見惚れる。
そんな悪魔が、今は聖職者であるアルトラン神父の目の前で浮かんでいる。
ロベルト老父の寝息に浮かんでいる。
悪魔としては、敵であるはずの聖職者を前に、堂々たる夢を描いているのだ。
そんな彼女が、桃色の唇を艶めかしく動かす。
「噂でも聞いたか? 神父様よ。悪魔がここにいるとでも」
「えぇ、噂といっても知る人ぞ知る状態ですよ。村人全員が知っているわけではありません」
「そうか。なら、まだまだ憑き合っても問題ないということだな」
ケタケタと、笑っている。
上手に。本当にいたずらっ子の悪戯が成功した時の悪い笑い方である。
幼い姿に見えるものの、女神の信徒である神父を相手取るには、少し不遜であろう。
だが、アルトラン神父にそもそもの祓う意識はないので、彼女の笑い方が悪魔らしくないことに少しの好奇心が引っ張られるのだ。
「悪魔はどうして、ロベルトさんに憑いたのですか?」
「それは、悪魔の存在証明に疑問を持つことに等しく、お前らにとっての禅問答だぞ」
「……つまり、気分だと」
悪魔は、にっこりと「その通り」を浮かべる。
だが、そこで終わるとすれば悪魔の思い通りになってしまい、アルトラン神父の面目がどっちらこっちらと右往左往してしまう。
なにせ、アルトラン神父は契約をしている。
そして、この悪魔もロベルト老父と契約している。
二人とも代価を払わなければいけない以上、少しでも負担を減らさなければいけない。特に、アルトラン神父は悪魔祓いをすることになっているのだ。
だから、ベッドに腰掛けながらでも悪魔へ見つめる大海は、静かであり同時に荒れる前の力を秘めていた。
「それにしたって、やけに熱心ではないですか? 神に仕える信者である私だけに飽き足らず、墓守のお爺様とも契約している。そんなに、代価が欲しいのですか?」
純粋な疑問である。
アルトラン神父は、今までの人生で悪魔を見たことは何度かある。しかし、その中でも目の前の悪魔は、類を見ない契約しかしない。
特に、アルトラン神父へ悪魔祓いを正当な報酬にしているのもそう。ロベルト老父との契約内容を全て話さないよう、口封じしていることも、悪意の象徴とはお世辞にも言えないのだ。
「代価? そんなもの、適当に作ったに決まってる。熱心なのも、お前に自分自身を祓えなんて要求したのも、全部面白そうだからでしかない。
女神とやらの教えがあっただろ。あの、薄っぺらい紙に書かれた大仰な言葉の数々。なんの解決にもならない、ただ誰にでも当てはまるような――当てはめるような説教の塊。あの中に、悪魔は人を誑かし、騙し、唆す、諸悪の根源で契約というのは決してしてはいけない、一度してしまえば魂が枯れ果てるまで貪られる、と」
「お詳しいですね。もしかして、女神様の信者だったりしますか?」
アルトラン神父の冗談めかした言葉を、悪魔は「がはは」と大口を開けて笑う。
ぱっくりと開いた口には、吸血鬼のように尖った八重歯が覗く。真っ黒な口内には、様々な欲が蠢いているいうでもあった。
「神父でも冗談を言うのか」
「世の中、肩肘張っては無力だと痛感するばかりです。時には脱力するのも、処世術というやつです」
「それもそうだ。……この爺さんもそうだ」
突如、悪魔の真っ白な眼が真下に眠る老父を捉える。
その表情には、何が含まれているのかアルトラン神父には、読み取れなかったが。少なくとも、侮辱や軽蔑。それらの一切を込めているわけではない。
むしろ……。
悲しき愛があるようにも感じた。
「この爺さん、去年の寒波で足を使えなくしてな。滑って尻もちして、そのまま寝たきりさ。知ってたか?」
「話は聞きましたよ。お見舞いにも行きました。……生きた心地がしませんでしたが」
「そうだろうな。歩けないと医者に言われても尚、どうやったら歩けるか、どうすれば歩けるようになるか、ばかり聞いては鬱陶しくも追い払われた――いや、寝たきりだから無下に扱われたか。あの医者もヤブでしかないだけだ」
囁くように笑う。
しかし、呆れた様子の悪魔に僅かな怒りを見たのは、アルトラン神父の見間違いではないだろう。
欲に忠実である悪魔は感情の変化が特に分かりやすい。
「ですが、医者様の診察では絶対に歩けないと、言っていましたが」
「歩けない? どこが。足さえ治ればどうとでもなることを歩けないとするなら、お前は凍え死にかけた時、もう生きられないと言われたら死ぬのか?」
違うだろ。
そう嘲笑しているようでもあり、憤怒しているようでもあった。
なにより、アルトラン神父が死にかけたのは事実。しかし、助かって、今なおこうして元気に四方八方に出掛けている。
例え、医者に死ぬしかないと言われたとして、無駄にも足掻いただろう。
「この爺さんは、怪我さえ治れば歩けた。多少の運動や感覚を取り戻すのに時間は掛かるだろうが、それでも確かなことはもうできないと決めつけられなければ、諦めなければ、もっと早く歩けるようになっていた。
ただベッドから唇を噛み締めて墓場を見る老人に、少しばかりの誘惑をしてやっただけ。ちょこっと、歩き始めの手助けをしてやっただけ。後はこの爺さんが勝手に歩けるのは、悪魔の力だと勘違いしているだけ。悪魔は何もしていないし、ただ見ていただけ。それで悪魔の欲望が満たされるなんて、こんないい契約はない。そうは思わないか?」
「悪魔と契約することは、神々から認められていません」
お堅いね〜、と悪魔はケタケタと笑う。
まるで骨が転がっているような笑い方ではあったが、瞬きをした時にはアルトラン神父を試すように見定める瞳をおくっていた。
「それで、悪魔を祓うのか?」
「いいえ。今日は貴方へ会いに来ただけです。どうせ貴方のことだ。嘘なんてついていないのでしょう?」
「さぁね。それはこの爺さんが決めることだ」
アルトラン神父が目にしたのは、優しい笑みである。
見定めていたのは、あくまで神父の心情を確認したかっただけ。
どうせ、アルトラン神父は悪魔祓いをしない。
むしろ、このまま祓ってしまうと自分自身が契約不履行で恐ろしいことになるのは目に見えている。
だが、それでも彼はしない。
それがわかっているからこそ、悪魔は見定めたのだ。
改めて、アルトラン神父の気持ちを信じるために。
もしくは、信じないために。
「まぁ、この不肖悪魔。この爺さんが無事墓参りを済ませれば、離れてやるからそこだけは安心しろ。
少なくとも、目の前に現れない女神を信じるよりも健全だろ」
そう不敵な笑みを浮かべる悪魔。
だが、アルトラン神父もあまりの不敬極まりない発言に憤慨するか、気分を害するとか、そんなことは一切なく。全くむしろ、そんな素振りだって心の中で湧いてくることもなく。
「はい。では、度々様子を見に来ますから、必要なことがあればなんなりと仰ってくださいね」
と、穏やかかつ好青年で、数多の婦人をときめかせるような微笑みを向けるのだ。
これには、悪魔もバツが悪そうに頬をかくしかなく、ついにはいたたまれなくなり、そのまま黒いモヤと一緒にロベルト老父の中へと消えていった。
「たらし……」と捨て台詞を残して。