二話目「施されたものを素直に受け取り、次なる恵みとせよ」
寒空の下、行き交う人々との挨拶と気遣い心遣いをなんとはなしに捧げ合っていれば、アルトラン神父が目的の家に辿り着いたのは、日が昇ってから一時間以上経ってからであった。
冷やされた空気と凍えた地面が息を吹き返し、僅かに上機嫌になった頃。目的の家というのは、裏手がすぐ山であり、周りには枯れてゆく雑草ばかりであった。
いかにも、山間にあるだろう家屋の様相を呈していたものの、人気がないというわけではない。なにせ、煉瓦造りの煙突から年季の入った煙が空へと旅立っているのだ。
それを確認できれば、アルトラン神父も胸を撫で下ろす。
そのまま、勢いよく行ってしまおうと算段を立てたのだろう。彼は木目も見えなくなってしまった扉を叩く。
少し、叩いた手に朽ちた木片がつく。
カビの侵食がここまで進むと、扉を叩いたのかそれともカビを叩いたのか、どちらかは分からなくなるものの、アルトラン神父はそんなことに不快感など示さなかった。
むしろ、そろそろ立て替えた方がいいのではないだろうか、と大きなお世話まで考え始めているのだ。
そうこうしている内に、ドン、ドンッ、とまるで大きな熊が家中を闊歩しているのではないかと思うほどの音がした後、ドアノブが激しく下がる。
横に伸びた金属が、勢いよく下がっては、扉がまるで倒れてくるのではないかと心配になるほど、開かれる。
そこから、顔を見せたのは今にも死屍累々な顔をした老父である。
「……はぁはぁ、おお、誰かと思ったら神父様かい」
息も絶え絶え、顔色も紅潮。
瞳が、まるで興奮しているから血走っているようにも錯覚するような赤色に染まっている。アルトラン神父よりも低い背丈は、猫背によるものか曲がった背中に哀愁漂う。
さらには、顔の至る所にはシミや皺が多く、長年の苦労を積み重ねた様子である。
どう見ても普通ではなさそう。
誰かが見れば医者を呼んでくる。そんな村人が多いだろうに。
しかし、アルトラン神父は、動揺も見せずささっと老父の様子だけを見て、慈愛の笑顔で接する。
「おはようございます。ロベルトさん。調子はどうですか?」
「……すこぶる悪いね。どうにも、足が思い通りにいかないんだこれが。はぁ……見ての通り、息も上がってしまってね。どうだい、良ければ中に入ってくれると儂も助かるんだが」
「ではお言葉に甘えさせていただきます」
開けられた扉にあわせ、中の匂いがアルトラン神父の鼻を優しく撫でる。
(これは……紅茶でしょうか)
糖蜜のように甘い香り。紅茶に明るくないアルトラン神父であっても、匂いがなんなのかは大体の予想がつきます。
だからでしょうか。
少し、嬉しい気持ちになるのです。
そんな、アルトラン神父が玄関から堂々と入るわけもなく。彼は、左手を心臓の位置まで持ってくると小さく呟きます。
「我が足跡に祝福を」
小さく祈り、感謝を込めることで、ようやく彼は老父が開いた扉をくぐることができる。
それを物珍しい様子で見ていた、白髪の老父は震える唇を動かす。
「神父様はいつもそうやって祈っているが、それは女神様の教えかい?」
「はい。家というのは、皆が皆立派な物を持っているわけではありません。しかし、落ち着ける場所、平穏を保ってくれる所を家とするなら、それを無下にするのを女神様は許してくれません。
私がここまで来たのも、ここまで来られたのも、この家の主が私のの道中を守ってくれたからこそです。次にやって来られる人と、家の主人へ祝福が舞い降りてくれるよう祈るのも、訪問者の務めでありますから」
「そりゃ、ご苦労さまというか、なんというか」
「そういうロベルトさんだって、いつもお疲れ様です。玄関まで迎えに来られるほど、歩けるようになったのですね」
自然と、アルトラン神父はロベルト老父へ近づき、肘を差し出す。なにも、肘鉄をしたいからというわけではなく、ロベルト老父も察してか「ありがとう」と反射的に応えると、肘に掴まる。
途端、アルトラン神父の右側には、ちょっとの負荷が掛かる。
働き者の手は痩せこけ、細くなった腕でも必死にしがみつく。手持ちも何も無く、杖も持たず、ロベルト老父は歩いてきたのだ。
それが何も知らない者でも分かってしまうほど、ロベルト老父の足取りは非常に重く、頼りないものであった。
案内されているのか、案内しているのか、そのどちらかをまるでシーソーゲームのようにすることで、リビングに来ることができた。
といっても、玄関から入ってすぐ右手の大きな部屋だ。
扉もなく、吹きっ曝しではあるものの、床板も頑丈なもので、壁なんか石材で埋め尽くされ頑強にされている。
唯一、欠点をあげるならば、部屋が狭いことだろうか。部屋の中央に置かれたテーブルは四人ほど座れるだろうが、そこで食事を囲むとなれば手狭となる。かといって、一人で寝食するには広すぎる。だが、安いテーブルかと思えば、そうではなく、脚部は細くそれでいてゆるやかな曲線を描いている。
向かい合った椅子も、同様の作りをしているため、同じ職人から仕入れたのだろう。
そして、部屋の入口から一番離れたところにあるキッチンからは、先程まで使っていただろう痕跡がある。なにより、注がれたティーカップがそのまま置かれているのだ。
アルトラン神父が、流れるように火元を確認したのと、ついでに見えたものは彼に糖蜜の匂いを印象づけた存在だろう。
「さ、座ってくださいな」
促されるまま、奥の一席に腰掛けるアルトラン神父。少し小さくなった景色は、ロベルト老父と同じ高さでもあった。そんな老父も、しっかり椅子の肘置きを掴み、一歩一歩を確かめるようにして座る。
腰を打ち付ける音は、それだけ立っているだけでも辛かった証明でもあった。
「…………はて、なにか忘れてるような」
そこで一息、吐き出したロベルト老父は疑問を浮かび上がらせる。
あぁ、そうか。必死なのだ。
そう察したアルトラン神父は、不意にどこかを見上げる。天井の至る所へと視線を泳がせる。
「そういえば、いい匂いですね。なにか香木でも買われたのでしょうか?」
「……香木など買えるわけもな――あぁ、そうかそうか」
と、ロベルト老父が立ち上がろうとする。
しかし、思っていた通りの行動ができていれば、先程までの必死で、懸命な歩みにはならないだろう。
ロベルト老父は、しっかりと肘置きを掴み、体を立たせようとするも、なかなかどうして上手くいかず、ひたすら体が前後に動くだけとなってしまう。
そんな様子を見かねて、アルトラン神父が代わりに取ってきましょうか、と提案しようとした瞬間である。
「もう、おじいちゃん。無理しちゃだめよ。休む時は休まなきゃ」
と、先程ロベルト老父と一緒に入ってきたところから、女性がやってきた。
背丈は、それこそロベルト老父より少し高いくらい。アルトラン神父が立ってしまえば、肩ほどにもならないくらいだ。
緩やかで、ふわふわとした髪。豊潤な葡萄のような色が、お淑やかで上品な印象を与える。
ただ、目元はロベルト老父と似た印象で、二人とも垂れ目がちである。しかも、目の色まで一緒の赤み。少し、ロベルト老父の方が白濁気味ではあるものの、彼女は澄んだ赤色宝石のようでもある。
服装も穏やかなもので、村娘が着るようなあちこちに色が異なるツギハギ、真っ茶色のズボンは裾と膝小僧が遊び回ったのか黒く汚れている。
靴も、何年も履いただろう威厳溢れる様子で、頬を煤けさせている。
そんないかにもロベルト老父の孫娘に辺るだろう年齢の女性は、「しょうがないんだから」と表情で物語ながら、おじいちゃんと呼ばれた者の肩を優しく撫で、キッチンへと向かった。
「すまないね。エリー。いつも世話かけて」
「いいのよおじいちゃん。無理して倒れたら、私が悲しいもの」
歳にして、アルトラン神父より少し下だろうか。
恐らくそのくらいにも見えるエリー少女は、手馴れた動きでティーカップを持ってくる。
まっさきに、アルトラン神父へカップを置き、次にロベルト老父。そして、その中へゆっくりと赤褐色の液体を注いでいく。すれば、先程まで朧に香っていた糖蜜のような甘い匂いが、次第に実っていく。
心を落ち着けるというより、紅茶そのものを楽しむための匂い。そんな気がするアルトラン神父は、ゆっくりと会釈することで、そのティーカップを受け取った。
「はて、儂が最初に淹れたやつは……」
「あれは私が飲みますよ。お二人には、淹れたての方がゆっくり話しができるでしょう?」
「そこまで気を遣わなくても……」
ロベルト老父が、申し訳なさそうにアルトラン神父を横目に見る。
あぁ、なるほど。
アルトラン神父は、察する。
「ロベルトさん。女神様はこのような教えを残されています。『施されたものを素直に受け取り、次なる恵みとせよ』と。孫娘さんの優しさを受け取り、次は孫娘さんへお返しする。そうすることで、次第に他の人、他の人へと広がっていく。それを女神様は望んでもおられるのです」
ぽかんとしたロベルト老父に、間髪入れずアルトラン神父は告げていく。
女神からの教えとやらを。説くのだ。
「ここでの施しとは、孫娘さんからの優しさ。その紅茶のあたたかさにも負けない純粋な心遣いでしょう。それを素直に受け取り、感謝を伝える。そして、また別の機会にロベルトさんから優しさを送ってあげる。
そうすることを女神様は望んでおられるのです」
女神からの教え、と言われても当人が実感できなければ、なんの意味もない。この場合、ロベルト老父とエリーが理解できなければ、アルトラン神父がわざわざ女神を持ち出してきた意味が無い。
農夫に十字架を渡し、それがいと尊きものか、それがいと慈悲深きものかを説いたところで、農夫が信仰そのものより明日の風向きを気にしていては、せっかくの労力に見合った成果は得られない。
大事なのは、分かりやすい教えと、それを比喩できる環境であろう。そういった些細なことから、少しずつ少しずつ、育んでいけばそのうち、村は豊かとなる。
そう信じてやまないアルトラン神父の思い通りかどうかはともかく、ロベルト老父は納得し理解し、己で噛み砕くことができたようで。
「神父様の言う通りだな。ありがとうエリー。すまないな、悲しい思いをさせてしまって」
「いいえ。気にしていませんよ。おじいちゃんは私が小さい頃からよくしてくれましたもの。そのお返しとするなら、まだまだ足りないくらいなのよ」
「いいお孫さんですね」
にこやかに。
これ以上ないくらい、アルトラン神父の心はぽかぽかと晴れ渡る。家族愛もそうだが、ロベルト老父の様子である。
アルトラン神父が訪れたのは、目的の者に会うだけではなく、ロベルト老父の様子を伺いにも来ていたのだ。
なにせ、他の村人はこれから麦を買い付けにくる商人との合戦が始まる。よりいい値段、よりいい契約、今後の後ろ盾にもなってくれるかどうか。はたまた、旅商人だったら、どんな物と交換するか。そういった商いが頻繁に行われるために、なかなか家を空けられないこととなる。特に、これから本格的な冬を控えているのだ。
まだまだ、寒くなるのだから懐をあたたかくし、飢えぬよう食物を蓄えておかねば、春を喜べない。
そうなってくれば、ロベルト老父の様子を心配で見に行きたいが、作業の手を休めるわけにもいかない狭間に至るわけだ。
朝方の女性が正しくそうだろう。
とすれば、アルトラン神父が適任ともなるわけだ。
本人は女神の信者を増やすことができるかもしれないし、なによりブラン村へ来てから今まで、助けてもらったことの方が多い。その恩返しが少しでもできるのなら、喜んでする。
だから、ロベルト老父が元気そうで。
なにより、エリー少女の大人びた発言に照れながらも、自慢に思っていそうな表情をしているのを見られて、安心したのだ。
「そ、そういえば、神父様がここへ来られたということは、悪魔祓いの件ですかな?」
咳払いの後、頬の赤みを誤魔化すようにロベルト老父は問いかける。
真面目な声で。しゃがれていながらも、真剣な響きで。だから、アルトラン神父も茶化すようなことはなく、しっかりと向き合う。
「はい。ですが、安心してください。私は確かに神父ですけども、あまり悪魔祓いが上手な方ではなくて」
安心させる方面が間違っていそうではあった。
本来なら、悪魔は祓うべきだろうに、それが下手とあっては神父としてどうなのだと、審議に掛けられるだろう。しかし、ここでは間違っていないのだ。
そう、なにも、違っていない。
「ということは……」
「はい。私が思うにロベルトさんへ取り憑いた悪魔は、ただの善意で取り憑いているのでしょう。ただ、実際に本当かどうか確かめる必要もありますし、一度悪魔と話をさせて頂きたいのです」
二人の間に浮かび上がった糖蜜の煙が、僅かに笑ったような気がした。