一話目「誰であろうとも、慈愛で接すること」
世界の辺境も端っこ。
豊かさはほどほどに、貧しさも適度に。
春より夏の暑さが堪え、秋よりも冬の厳しさが空気を痛めつける。そんな冬景色の村の話。
ブラン村と呼ばれるその人口五十名程度の小さな村は、周りを草原に囲まれ、少し北へ向かっていけば険しい山脈が立ち塞がる。
南へ下れば、少し大きな街。時折その街からやってきた行商人が、北の山脈を越え、その先の街へ儲け話を携えていく。その道中にあるこの村は、行商人が山越えのための物資を少々補充したり、時にはここで商いを行ってある程度の私腹を増やして、温めてから寒冷の地へ歩を進める。
宿屋もあり、作物も程々にあるとすれば、ブラン村にはなんの問題もないと評されてもいいだろう。
そう、なんの問題も無いとするなら。
「……今日も、穏やかな一日となりますように」
ブラン村の中でも、小高い丘にある教会。
長年居を構えているのだろう、教会内の至るところにはくすんだ色だったり、建付けが悪くなった扉は開閉に合わせて小さな悲鳴をあげる。
並んだ礼拝用の椅子を数席、正面扉から進めば、この世界の神様が白く塗られて固められている。
人丈よりも僅かに高い女神像は、一人の青年を前にして穏やかな笑みを浮かべている。
いかにも、教会で説教をしそうな修道服に身を包んだ青年。祈りを捧げられている女神像も、献身的な姿に喜んでいそうにも見える。
太陽を髪まで浸透させ、大海の美しさを瞳に閉じ込めた青年は、真摯な想いに一旦の区切りをつける。
敬虔の信者でもある――アルトラン神父は、ゆっくりとした歩調で教会の正面から顔を覗かせる。
小高い丘にあるからこそ、正面には点在する家とそれを取り囲むように広がる黄金の景色――があったはずだったのに、今や乾いた黄土色が見えるのみ。
「……うぅ、外は寒いですね。上着を厚めにしておいて正解でした」
寒さも神がもたらした試練だとすれば、厚手の上着は人々からの愛情である。そして、それに感謝することを忘れず、噛み締めることこそ敬愛と呼べるものだろう。
アルトラン神父は、そう心の中で慈しむ。
自分を包んでくれている黒革の外套は、何を隠そうブラン村の人から寄付してもらったものなのだ
アルトラン神父が、この教会にやって来てすぐ、大寒波が背中を追いかけていたようで、手持ちも心持ちも心許ないアルトラン神父は、死さえも覚悟した。
この教会に暖炉はあるものの、くべるための薪もない。かといって、近場の林へ行ってみても大抵は湿った枝木しかない。持ってきた衣類は軒並み縮み上がってしまって、毛布にくるまっていても体温が奪われるだけ。
こうやって、死んでしまうのか。
神の教えを、誰にも伝えられず。敬虔な信徒にあるまじき、最期を迎えるのか。
悴む手で、なんとか天へといるであろう存在に祈る。
女神像を見ては、今にもこのお方が凍った空から降りてきて助けてくれるかもしれないと、そう信じて、存在証明を欲しがっていた。
しかし、そんな凍えたアルトラン神父へ乾いた薪と、自家製のミルクスープを持ってきてくれた者がいた。
アルトラン神父の窮地を救ったその者へ、今日は会いに行くため、わざわざこの皮膚の先が乾くような感覚になりながらでも、教会をあけるのだ。朝早くから。太陽が昇るよりも勇み足で出発する。
教会の正面玄関をかちゃり、と鍵を閉める。
「今日の女神様は、南国でバカンスです」
そう言い訳する。
言っておいて、敬虔な信者だとか信心深い神父にあるまじきだと、アルトラン神父は微笑む。
凍えた風が、なんだかあたたかい気がしたのだ。
「毒されましたかね。いやはや、いけませんね」
アルトラン神父は否定していない声音で言う。
いけないなんて思っていない。
むしろ、嬉しいとさえも思っている。
なぜだが。
それは、彼の向かう足先が示すことだろう。
女神もたまには、背中を押したくなるのだろうし。
◆
「おや、神父様。おはようございます」
「おはようございます、カルネさん。今日も朝からお忙しそうで」
目的地までの道すがら、アルトラン神父を呼び止めたのは、日がまだ首を傾げている頃とは思えない活発な声の女性である。
勇猛果敢にも抱えた麦束は、小さな子どもほどの大きさであり、大の男でも持つ度に疲労感を蓄積しそうではあるが。彼女は、涼し気な顔で抱く。肩に担ぐ。
細い見た目にはそぐわない、なんとも頼もしい女性だろうか。
「そりゃ、農家に休み無しさ。嬉しい限りだよ、これも神父様が女神様へ祈ってくれているからかもね。今年の豊作は」
泥で汚れた頬は、これ以上なく綻び、そして高揚していた。まだ、小鳥の囀りが皆を起こす前にも関わらず、深紅の石がキラキラ輝くように瞳を瞬かせているのだ。
長く伸ばした純金の糸も、しっかりとくくることで、お淑やかな印象を与えてくる。作業するための服を着ていなければ、どこかの令嬢と間違われても遜色ないほど、彼女は麗しき乙女でもあった。
だが、この女性は、アルトラン神父の目的の人物ではない。すれ違う度、挨拶を交わし世間話をするそんな間柄なのだ。
「私がしているのは、皆さんの健康と少しばかり麦酒が美味しくなるように願っているだけですよ。皆さんが、女神様を敬い、感謝しているからこそ、豊作を運んできてくれたのでしょう」
「そうかい? なら、今年の麦酒を楽しみにしててな、神父様。パンにするだけじゃもったいないくらいだからさ」
「それはそれは楽しみです。女神様も麦酒がお好きですから」
にこやかに笑い、朗らかに話し、快活に楽しむ。
そんなブラン村では、時折太陽を隠す時間がやってくる。
先程まで上機嫌だった女性の顔つきが、それを物語っていたのだ。
「今日も、あの人のところへ行くのかい?」
心配そうな、怪訝そうな、どちらともの感情が混じりあった表情は、それまでの浮ついた話を沈ませるには充分であった。
はばかれるように、女性が小声で語りかけてきたのは、なにかしろの事情を孕んでいる証明でもある。
だが、対照的なのはアルトラン神父の様子である。
「はい。もちろん」
にこやかに言ってしまうのだ。
言い切ってしまうのだ。
啖呵を切るような、物言いに思わず女性も肩に担いでいた麦束を担ぎ直す。
「……アタシとしては、村から悪魔憑きがいなくなるのは嬉しいけど、どうにも……なんというか」
煮え切らない口は、決して事の重大さを理解していないからではない。
そして、悪魔憑き。この文言が示すのは、悪魔に取り憑かれた人がいるということ。
公言できず、大っぴらに言いふらすことだって憚られる。そんな繊細な出来事に、アルトラン神父は意気揚々、教会をあけてまで向かうというのだ。
起こっている事象に対して、二人の熱量には大きな壁がある。それが、否応のない不安感となって女性を蝕んでいるに違いない。
そう勘づいたアルトラン神父は、自身の胸に手を添える。左手で、心臓の場所を教えるように。
「苦渋の決断、苦節故の判断、それらは苦悩が絡んだ諦めに近しいものでしょう。諦めなければ、最良の選択となった。あそこで手を差し伸べていれば、違った結末になっていた。
それらは、未来への諦め、諦観ともされます。
我ら、人の子は己がどのように老いて、死ぬか。天に召されるか、地に落とされるか。ましてや、老後笑っていられるかなんて、分かりようもありません」
アルトラン神父は、死ぬような思いをした。
死にかけた経験もある敬虔な信徒だ。
凍えた床は、まるで地獄のようでもあった。あまりに冷えすぎた体へ、氷のような石造りは業火のように身を焦がれる熱さすらあった。
暴風によって突き抜ける隙間風は、自分の孤独をより加速させた。
このまま死ぬ。
そうすれば、神へ会えるかもしれない。
それは一種の諦めであったのだ。
その経験があるからこそ、助けて貰ったからこそ。あの時、スープを飲ませてくれた者がいるからこそ、アルトラン神父は生きなければいけない。
伝えなければいけない。
「どこかの女神様も、今だけでも笑いなさいと教義を残しているのです。私の信仰する女神様とはまた違った教えではありますけど、そういった未来への活力は、今手にしているべきだと思うわけです」
「……それが、悪魔によるものでも、女神様は許してくれるのかい」
「女神様は許してくださります。それを悪いことだと認めたならば、誰にだって救いの手を差し伸べてくれるのです」
女性は、悲しい顔をする。今にも泣きそうな。今にも心が震え上がっているような。悲鳴ともならない悲痛を抱いて。
彼女は、悪魔憑きとなった者を心底――心配しているのだ。だから、アルトラン神父に認めてもらいたい。
許しを得たい。その気持ちが前へ進んで出てしまったのだろう。
そして、願わくば罰を与えて欲しいとまで考えているのだろう。
女性の肩にのしかかった麦束が、まるで石材となったようで後悔の重責を押しかけてくる。
「なにより、我が女神様の教えはこうです。『誰であろうと、何者であろうと、幸せを捧げてくるのは素晴らしいこと。例え人であろうと、獣であろうと、悪魔であろうと、その者が優しさを施してきたのならば、神は許すことを厭わない』と」
「じゃ、じゃあ、あの人は許されるのか……」
安堵と心配をかき混ぜた唇には、アルトラン神父もこれ以上ないほど穏やかな笑みをみせる。
女神様のため、忠誠と信仰心を捧げてから、常に祈ってきたことは民衆の健康や安寧のためだけではない。
「えぇ、許してくださります。それに、もし悪魔が本当に悪しき存在だとすれば、私の悪魔祓いが問題になることでしょうし、咎められるとすれば私です。女神様の怒りが私の忠義に怒槌を落としてくださることでしょう」
アルトラン神父は、そう茶化すように言う。
穏やかな笑顔の下は、弱い心があるような。そんな、人々へは春風のように暖かな心を届け、自身には秋の霜のように厳しい規律を作っているようでもあった。
だからだろうか。
いや。
アルトラン神父の隠し方が上手でなかっただけだろう。
「神父様。あまり、抱え込まないようにね。アタシ達も手伝えることはなんでもやるからさ」
「はい。ありがとうございます」
アルトラン神父に少し後悔があるとすれば、こういった時、まっさきに頼れるだけの手持ちがあれば教会での瀕死の出来事も無かっただろう。
しかし、そのお陰である者と出会えたのだから、少しだけで済んでいる。
なにより、あの一件以降、ブラン村の人は足繁く通ってくれるようにもなり、寂れた教会にも暖かな鐘が鳴るようになった。
失敗を転じて福とした、アルトラン神父はこの全てに再びの敬愛を抱く。
「じゃないと、アタシ達が勝手にやることになるからさ。どうせなら、皆で助け合った方が女神様も喜んでくださるだろ?」
「……えぇ、その通りですね」
自分がいる。
そして、村人が居る。
その中に、確かな信頼関係が生まれていることに――繋がっていることに思いっきりの喜びを感じ、アルトラン神父は鈴を転がしたように笑う。
爽やかな好青年が、そんなことをしてしまえば、乙女なんぞが僅かな濁りを心へ浮かべても仕方ないだろうに。
そんな罪作りな神父は、女性へ別れを告げると目的の場所へ向かう。急がなきゃいけないわけではないが、急かされた気がしたのだ。
牛馬の足跡が残った道はところどころに麦が転がり、豊かさの旅路でもあった。
アルトラン神父を祝福しているようでもあったが、彼らしいとすれば、踏むのも憚られたので避けて通っていることだろう。
そんな素っ頓狂な歩き方をするアルトラン神父へ、顔を出してきた太陽が朝を告げることで、彼の一日が始まった。