合鴨ロースの胡椒焼き
バレエから離れたマレは、人として大きく成長できる場を手に入れた。
結果それは、バレエで、またはバレエを身に付けるために所属している社会で、活かせる経験となることだろう。
それを得られるのは留学先ではなくここだけだったとするなら、この帰国はマレにとって意味のある、むしろ必要だったものとなる。
そのことをマレが自覚することも大切だ。
今が必要なことだったと思えることで、無為に過ごしてしまっているのではとの思いから生じる焦りや不安は消えるのだから。
「あー、おなかすいたー」
食事制限も今は少し緩めているのだろうか。
タガを外すような真似はしないが、働いた分くらいは食べるマレ。仕事中に軽く賄のお蕎麦を食べているはずだが、帰宅したマレはそれとは別に夕食を摂っていた。
おばあちゃんが店内で作ってくれた合鴨ロースの胡椒焼きとサラダをマレが持って来てくれた。おばあちゃんはお店から抜けられないようで、今日はふたりでの食事となった。
「美味しいぃぃ……」
左手を頬に当て、顔を綻ばせているマレの姿に、逡巡の様子はない。
憑き物が落ちたようなマレ。
「仕事おつかれさま。どう?」慣れないことも多いだろうけれど、充実していそうなマレに尋ねてみた。
「大変だよー。のぞみもホールでしょ? 正直オーダー訊いて出すだけだって思ってたけど、甘くないねー。のんは身内じゃないところで働いてるんだもんね。のんよりもやり易い環境に居てあまり甘えたこと言ってられないけど、お客さんたくさん来るとやっぱり焦るよー」苦労話なのにどこか嬉しそう。
「身内だから甘えられないって思いが働いて却って大変なのかもね。どっちが大変とかは無いと思うよ」
「そっかぁ、のん、なんかいつの間にかちょっと大人っぽい感じ」
ん、まあ、バイトに関してはほんのちょっとだけどわたしの方が経験者だし?
「でもマレ、大変大変っていう割に、なんか楽しそうだよ」
「んー、まあ、忙しいし疲れるし緊張したり焦ったりすることもあるけど、充実した気持ちにはなるよね」
疲れて緊張して、ままならなくて焦ったり怒ったりして。それでもやめられない。それでも楽しいのは、バレエも一緒だったんだね。と、マレはやや力なくともすっきりとした微笑みを浮かべ、小さく呟いた。
近すぎて見えないものはある。遠ざかれば全体像が良く見えるのに。
想いもまた、離れることで気付けることもあるのだ。
それほどまでに近くにある、想い焦がれるもので身を焼かれ、少し離れて一層その大切さに気付く。
そんなものを持っていること自体、恵まれているのではないかと思った。
わたしにもいつか、そう言うものができるのだろうか。




