【短編】離縁予定の奥様は夜行性旦那様のお役に立ちたい
「おはようございます。旦那様」
「ああ、……おやすみ」
毎日の朝の挨拶です。
旦那様と噛み合ってないのは承知してますが、慣れるとこれが普通なのです。
ふらふらとおぼつかない足取りで寝室に向かう旦那様を見送ってから窓の外を見ると、茜色の空が金色に変わってゆく途中でした。
いい天気になりそうです。
なので今日も一日がんばりましょう。
私がこのイングレイス領に嫁いできて、半年ほど経ちました。
「奥様。こちらが昨年の分になります」
「ああやっと終わりそうですね。冬の備蓄分を捻出する前に目処がつきそうで、良かったです」
支出の洗い直しをするだけで数ヶ月かかりました。約十年分ですから、これでもがんばった方です。
部外者だった私を信頼してくれてお手伝いしてくれているのは、家令のセサルさんです。細みでしゃきっと背筋が伸びた素敵なおじい様です。
歳を重ねたシワが刻まれてはいますが、まだまだお若くおじい様なんて見えないと言ったら「奥様にじいやと呼ばれるのが目標です」と返されたことがあります。
会話として噛み合ってない気がしますが、セサルさんの心意気はとても伝わりました。ちなみに「じいや」なんて呼べたことはありません。セサルさんです。
邸についてほとんどのことは、家令のセサルさんとメイド長がしていました。
決定権を履き違えることなくちゃんと旦那様に伺うべきことは報告されていたようですしその記録もきちんと残っていますが、旦那様がちょっと特殊であれなので、お二人を筆頭に使用人たちで回していたようです。
家の中のことは仕方ない部分もあります。でも領地全体のこととなれば別です。
イングレイス領は国の最南端。旦那様は辺境伯です。
国同士の大きな争いは今のところありませんが、だからといって平穏無事な日々ともいきません。
隣国の領地でありながら捨てられた大地と言われる荒野に面したイングレイス領は、常に魔物の脅威と隣り合わせです。
イングレイス辺境軍は、地元近隣では大地の守護者とか国境の鉄壁とか言われて慕われています。けれども王都など国の中心近くでは蛮族だとか吸血鬼だとか散々です。
ちなみに吸血鬼って何ですか? とセサルさんに聞いたら「人の血を吸って生きる魔者のことだそうです。物語の話ですが」と説明してもらいました。実在しないのですね。
瘴気に取り込まれて凶暴化した動物が、魔物。
おそらく自己防衛のための攻撃性や狩りの衝動が強化されて、他に被害を出すのだろうと言われています。
瘴気に取り込まれて理性が壊れた人が、魔者。
感情に大変素直になるので怒りや悲しみに左右されて周囲を害します。瘴気が体内にあること自体で特別な力は得られませんが、もし腕のいい兵士や魔力の強い術師が取り込まれたら大変です。
魔物を退治することはできますが、瘴気を祓うことはできません。
できるのは伝説の聖女さまくらいです。
瘴気がどうやって発生するのか未だ解明されておらず、ただイングレイス領が面している荒野で多く発生します。
なのでこの辺境では食用の家畜の他に、瘴気に取り憑かせるための動物を育てています。
あまり獰猛な動物だと討伐が厄介になるのでは、と思ったのですが鼠のような小さな個体だと瘴気を吸う量が少なくて減らないのだとか。
理由はわかります。人が取り憑かれたらいけません、そのための家畜です。
でも、ここへ来てから初めて生贄用の犬を見た時に、どうしてもたまらなくなって。お願いして私は二匹の仔犬をもらいました。
魔物にするのが可哀相とか、やめてとは言いません、これは救う行為でなく我儘だと理解してます。
でも旦那様が許可して下さったらでいいんですお願いしますと。頭を下げてお願いしたら、セサルさんは顔を覆って空を仰ぎメイド長は視線を逸らして俯きながら「し、仕方ありませんね……」と許してくれました。
なんと我儘な奥様が来たことだと落胆させたかもしれませんが、後悔はしていません。
黒毛のロペは男の子、栗毛のルナは女の子で、大きくなった二匹は立派な私の護衛になりました。
「改めて見直すと、滞ってはいないけど閉鎖的ですよね」
「荒野に面した土地は今やすべてイングレイス領として統合されてしまいましたから、広さだけはあるのです。領内で自給自足ができてしまうので他領との交流がほとんどありません、蛮族の住む地に近づきたい者も少ないでしょうし」
セサルさんが自虐的な言い方をしましたが、交流がないのは事実なので何も言えません。
それに。
「旦那様が辺境伯になられてから、社交どころか交易もぱったりさっぱりですからね……」
人嫌い。野蛮人。陽の光を浴びると溶ける。魔物を飼う変人。
旦那様の評判は王都ではひどいもので、彼自身が魔者ではないかと言われてました。あ、だから吸血鬼なんですね。
「領民の暮らしは第一ですが、ここでは辺境軍も同じだけ大事です。維持費はまかなえても突発的な事態にも備えられるよう、商流は開けましょう」
ただ私には頼れる縁故があまりなく、ましてやイングレイス領を行き来してくれる商会などおりません。
どうしましょう。
お相手さえ決まれば、どんな人柄なのかどんな物流をされているかそれらの計算や扱い方を考え担うのはできますけれど。人脈大事ですね。
困ってしまった私に、セサルさんは大丈夫ですよと笑ってくれました。
「多少ではありますが、私めにも知り合いはおります。まだ生きていればですが」
お年寄りジョークは心臓に悪いのでやめてください。
「アーロンも若い頃は勝手に放浪もしてましたから、どこかに顔つなぎはできると思います。あの頃は馬鹿息子を恥に思いましたが、どうなるかわかりませんね」
ほくほくと嬉しそうな顔をするセサルさんに、私も嬉しくなって「そうですねお願いします」と言いました。
アーロンさんは、セサルさんの息子さんです。養子です。
仕事があるので結婚はせず、でもヴァレンティン家に仕える子は育てなければと迎えたそうです。
旦那様が小さい頃、遊び相手にもなればと同年代の男の子を迎えて、執事見習いにしようとしたらアーロンさんは剣の方が性に合っているとこれを拒否。親子破綻の危機です。厳しいけれど温和なセサルさんが大変な大喧嘩をしたらしいです。想像がつきません。
そんなアーロンさんは、今では辺境軍を束ねる旦那様の副官として働いていらっしゃいます。
明朗快活な気さくな方で、初めてお会いした時になんと握手を求められてびっくりしました。
驚きましたが嫌な感じがまったくしなかったので私が手を出そうとしたら、セサルさんにべしっと手を叩き落とされてました。
アーロンさんの紹介ならきっと大丈夫でしょう。
でも今年の冬の備蓄分は領内で確保しなければなりません。毎年不足はないけれど慎ましい様子のようなので、ちょっとゆとりができたらいいなと思います。
「では、午後はトッロ区の畑に様子見に行きますね。そのままトッロ砦でアーロンさんにお願いして」
「呼びつけますから、奥様は、邸にいてください」
「でもお願いするのは私ですから。それに、いい天気で、麦畑で食事をしたらきっと美味しいと思います」
「昼食は庭に用意させましょう」
いいですか奥様、とセサルさんは礼儀作法の先生のように声を張ったので、私は思わず背筋を伸ばしました。
身が引き締まる思い、というよりお説教される気分です。
「あなたがイングレイス領に来て下さったのは僥倖です、停滞していた時間が動き出すのです。それだけで得難いことですが、あなたは何より、ライムンド・ヴァレンティン様の妻であることを優先ください」
やっぱりお説教でした。
首を右へ倒して、左へ倒して、それからセサルさんを見つめたらちょっと怒った顔をしてました。
「でも、離縁される前に、流通経路の確保と領地をお任せできる親類の方を探さないといけません。そちらの方が時間がないので」
「離縁などと言わず、旦那様を懐柔する方が早いです」
懐柔と言われました。色仕掛けでもなく。
……できませんけど。
「今夜に実行されるのでしょう? でしたら日中に体を休めておきませんと」
「実行はしますし、旦那様と仲良くしたいと思いますけど。領地のことは別といいますか、私たぶんそのためにこちらに参りましたので……」
「違います」
きっぱりばっさり、否定されてしまいました。
「あなたは、ヴァレンティン家に明かりを灯すためにいらしたのです」
イングレイス辺境伯、ライムンド・ヴァレンティン様。29歳。
私が彼の妻になったのは半年ほど前です。
王都でちょっとありまして、こちらに輿入れすることになりました。
冬の名残で馬車が進まず到着が遅れた私を、旦那様は不機嫌ではないけれど興味もなさそうに迎えてくださいました。
とても眠そうで、時々あくびを噛み殺してらしたのをセサルさんが諌めてました。
ご令嬢が憧れるような白い肌に、夜に溶けてしまいそうな艶やかな黒髪。
整ったお顔に埋め込まれた猫のような金目が印象的でした。
「イングレイス辺境伯、初めてお目にかかります。エレナ・モンテスにございます」
挨拶をした私を、彼は椅子から立ち上がりもせずに眺めていらっしゃいました。
後に聞いたら、セサルさんもその時にいた使用人さんたちにも褒められた礼だったので、失礼ではなかったと思います。
けれど彼は視線を伏せたままの私を許すことなく、セサルさんに促されてもそのままでお話になりました。
「カルデイロ侯爵令嬢。確かに知らせは来たし、こうして王妃殿下の手紙と王都教会発行の婚姻届を持って君が来たということは、私に拒否権はない。だが、私に妻はいらない」
あらまあと思いましたが、淡々と仰る声は他の何を含んだ声色でもなかったので、王都で聞く噂よりもずっと落ち着いてらっしゃるなあと感じました。
「三年だ。それを待てば解放してやるから、それまでは好きにしていい」
設けられた期間は、嫁いだ女性が子をつくれなかった時に適用される離縁の理由。
辺境伯は白い結婚でもって私を離縁すると仰ったのです。
「旦那様の仰るとおりに」
礼を深くした私は、彼がこちらを見たかどうかもわかりませんでした。
ただ、立ち上がって応接室を出ていかれる足元は見えて、その後で「ごん」と鈍い音がしていました。
今ならわかります。
あれは、旦那様が部屋の扉に頭を打ちつけた音です。
「奥様どうぞ、どうぞおかけください」
彼が出て行った後でセサルさんが椅子を勧めてくれました。
優しい声と言葉をかけてもらうなんてとっても久しぶりで、私は嬉しくなって満面の笑みで「ありがとうございます」と言ったと思います。すごく驚かれてました。
「かような辺境の地にいらした奥様に何という……旦那様には私めがきつく言いつけておきますので」
「いいえ、どうぞお気になさらず。むしろお優しい方だなあと思いました。妻は不要、興味ないと仰ってもここに住まわせてくださるのですから」
「……奥様は、この地に住まうのを恐ろしくは思いませんか?」
「まったく。それより、私のような者が邸に来てごめんなさい。私の方こそ気味が悪いでしょう? それでも何かお手伝いができればと思いますので、どうぞよろしくお願いします」
立ち上がってペコリと頭を下げると、使用人さんたちみんなが慌てていました。
ここの方々はみんな優しいです。
旦那様の、王都での評判が「人嫌いの変人」なら。
私を表すのは「不気味な亡霊」です。
亡霊を妻にと押し付けられた旦那様は、むしろ被害者ですから。
白い結婚の証明。離縁、というか結婚無効の申し立てですね。
「妻」がご不要なら、せめて他でお役に立てないかと探して手をつけたのが領地運営についてです。好きにしていいと仰っていましたし。
女性の教養は歌や詩や手芸ですが、私は政治経済や外国語も学んでいますので少しはわかります。
セサルさんにお仕事できますと訴えて、最初は簡単な書類の整理や計算をさせてもらいました。
社交をされない旦那様が客人をお招きすることはありませんでしたが、それでもたくさんの人が働いている邸と、何より各区にある辺境軍の砦にはたくさんの兵士さんがいます。
これの食糧事情だけでも大変な額ねと概算を出したら、ある日アーロンさんが飛び込んできました。とっても大きな音で扉を開けて大声で呼ばれたので驚きました。印象深い初対面でした。
外からやってきた私にみなさん優しくて、大事なことなのに信頼して任せてくれて。
だから私もそれに応えたいです。
離縁までにはヴァレンティン家に所縁ある方に領地の運営代行をお任せして、旦那様には辺境軍のことに専念していただいて。
「そうしたらようやく、修道女になれますね」
よしと気合を入れた私の背中で、ひゃああああと悲鳴をあげたのはメイドのリサです。
私の専任だと紹介された時に、申し訳ないと同時にそんな方は初めてです嬉しいですと抱きしめてしまったのは恥ずかしい思い出です。
「嫌です! 嫌です奥様! ずっとここにいてください!」
「旦那様が離縁されると仰るのだから……それに私、修道女になるのは幼い頃からの希望で」
「でもでも旦那様に離縁なんかしないずっと傍にいて欲しい! って言わせるために悩殺するために! 今夜出掛けられるんですよね?!」
のうさつ……
亡霊じゃ無理ですね。きっと。
私は改めて正面にある鏡を見つめます。映っているのはぼんやりとした私。
暖炉の灰をかぶったような灰色の髪。
青みがかっているけれどやっぱり灰色の目。
二人いたお姉様方はお母様に似て華やかでとっても綺麗だったけれど、私はどこから見てもぼんやりとしたはっきりしない顔立ちで本当に亡霊みたいです。
そして、私が不気味な亡霊と言われるのは、この灰色の髪。
昼間はほとんどわからないけれど、夜の暗闇でぼうっと浮き上がるように光っています。
そう、光ってるんです。
消えかけた蝋燭の明かりみたいに。
幼い頃は、夜の廊下で私を見かけた使用人が悲鳴をあげるという事態が頻発していました。申し訳ないです。
ぼやぼやしたこの光はどうやら魔力らしいのですが、私自身にたいした魔力はなく、ただ光っているだけで何の役にも立ちません。
お父様もお母様も私を外に出さず隠そうとしていたのですが、亡霊の目撃情報が使用人の口から広まってしまい噂になってしまいました。
モンテス家の亡霊。それが私です。
髪が光るなんて事例は他にはなかったようで、もしや何か特殊なことがあるかも、と王城に召されたのは8歳の頃。この時私は初めて家の外に出ました。
しばらくは城の偉い術師の方が色々調べていましたが、髪から魔力を感じるだけで本当に役立たずだと太鼓判を押されました。この時はちょっと悲しかったです。
ですが稀有な現象であるには違いないので、城で様子をみようとなったらしく、私は王城の一室に住むことになりました。
そんなこんなの王城生活を経てイングレイス領にやってきた私ですが、旦那様と仲良くしたいのは本当です。
旦那様は、見事な昼夜逆転生活をなさっています。
面倒臭そうですが嫌われてはいないようですので、一緒にお食事ですとかせめてご挨拶をと思ったら、日中は寝ていらっしゃるとのこと。
朝が遅い貴族は多いですが、旦那様は夜明けごろにお帰りになって昼に眠り、晩餐が終わるような時間に起き出して仕事へ向かいます。
それはそれはとびっくりしました。
魔物退治が辺境軍の一番のお仕事。夜に活動するものなのかと納得しかけましたが、そんなものは普通交代でするものだとアーロンさんが教えてくれました。
夜に活動するのは旦那様の体質というか魔力の特性らしいです。
旦那様はそれは優秀な術師でいらっしゃいます。
彼一人で魔物の群れなど一掃されてしまうそうです。お強いんですね。それに各区にある砦にもご自身で足を運び、人員配置や装備の確認、自然発生した魔物の様子から次の作戦の検討などすべて的確にこなします。
夜間に、ですが。
邸のことも完全に放り投げているわけではないのですが、旦那様の活動時間が夜中なので他領の貴族との交流はもとより商人との交渉もされません。
なのでセサルさんはじめ使用人の方々が家の中のことをこなし、旦那様に決裁を求めるという形になっていました。
辺境軍での旦那様とアーロンさんのように、昼夜分かれてもお二人で担えるような体制を邸でもできれば理想的です。
家のことと領地のこと、昼のその部分を采配するのは女主人の役目で、けれど旦那様は妻はいらないと仰いました。
まあ亡霊では務まりませんし。
いつか旦那様が傍においてもよいと思える奥様が、邸にいらっしゃる日がくるといいです。それまで、いえ離縁される日まではお役に立たないと。
と、いうわけで。私がんばりますよ。
「こんばんは、旦那様」
挨拶をすると、彼は金色の目玉を落っことしそうなほど見開いて私を見下ろしました。旦那様は背が高いのです。
「……おはよう。…………どうした?」
朝の挨拶とは逆ですね。初めてでちょっと嬉しくなってしまいます。
「アーロンさんに聞きました。今夜のご予定は遠出はせずに近隣の見回りだけだと。近日の警戒区域に向かうこともないので、夜のデートにはぴったりだよと」
「デート」
「はい。お仕事なのは重々承知しております。ですが辺境軍の、旦那様のお仕事を拝見したいのです。ご一緒させてくださいませんか?」
「乗馬服ということは、君一人で馬に乗る気か?」
「早駆けもできますよ。万が一の際は邪魔にならぬよう単騎で逃げられます。ですのでどうかお願いします」
あと、護衛に私の頼もしい黒毛のロペと栗毛のルナもいます。
深々と頭を下げたので旦那様の表情はわかりません。ですがしばらくの沈黙の後で、重い重い溜息が床に落ちました。
「わかった。……わかったから、セサルもリサもそう私を睨むな。威嚇するな。連れて行けばいいんだろう」
了承の言葉にパッと顔を上げてから、ん? と振り返ると、エントランスの階段下からリサが顔を出して「がんばってください!」と手を振ってくれました。
セサルさんに至ってはいつの間にいたのか、いつも通りぱりっとした姿勢で旦那様に外套を渡してました。
それを見たリサが、迷ったけれど、と着丈の短い外套を私に羽織らせてくれます。
「秋の始まりとはいえ、夜に馬で駆けるのは冷えますので。わ、わたしが作ったので不恰好かもしれませんが」
「リサの? 本当に? 嬉しいです!」
きゃーっとリサに抱きついたら、顔の横で「ふふん」と得意げに鼻を鳴らしていたのはなぜでしょう。
あ、作ったものを喜んでくれたら嬉しいですよね、ここは素直に喜んでよかったです。
「羨ましいならそう仰っていいんですよ、坊っちゃま」
「坊っちゃま言うな。そして羨ましくなんてない」
「ほっほう。左様ですか」
旦那様とセサルさんが何か話していたけれどよく聞こえなくて。
お仕事ですからね、もうお時間ですよね、ごめんなさいとリサから離れて振り返ると。
夜に浮かぶ金色が。旦那様の目が。
私を見ていました。
「では行くぞ。——エレナ」
驚愕です。息をするのを忘れました。
旦那様、……私の名前ご存知だったんですね。
「どうして知らないと思うんだ……」
「興味がないかと思いまして」
「どうでもいい人間について来ようと思ったのか君は」
「違いますよ。私は、旦那様と仲良くなりたいんです」
そう言うと、旦那様はどうしてかむすっと唇を結んでました。
旦那様と私は、会話できるくらいの距離で馬を並べて歩いています。
最初は辺境軍の方々もいたのですが、いつしかそっと離れて、馬につけた灯りが見える程度の距離まで離れてます。本当にいつの間にか。
夜道は私のぼんやり発光する髪が目立ちます。邸を出る時には黒いベールをかぶっていたのですが、すぐに旦那様に取れと言われたので今は何もつけていません。
消えかけた蝋燭の明かりみたいな私。
旦那様は、それを「夜道に便利だな」と仰いました。初めて言われました。
便利ですって。えへへ。
旦那様のお役に立てたようです。
黒毛のロペと栗毛のルナは、道を照らすように先行する兵士の方を目印に、きりっと護衛の役割を果たしています。撫で回して褒めたいです。
「エレナ」
「ひゃい?!」
「どうしてそこまで驚くんだ」
「す、すみません。私あまり名前を呼んでもらったことがなくて、その、慣れなくて」
「……どうしてだ?」
どうしてと質問されました。どうしてでしょう。
私の名前。
旦那様の前に呼んでもらったのは誰で、いつのことでしょう。
うーん。
「必要なかったからだと思います」
たぶん。と、付け加えると旦那様はきゅっと眉を寄せていました。
私の髪は彼のお顔を照らすほど眩しいものではありません、でも夜目に慣れやすくする程度には明かりになっているようです。
「本当に今までどういう扱いを……」
ただ小声で話されるとよく聞こえません。
「旦那様?」
「では、どうして私の名前を呼ばない?」
お話があっちこっちに飛んでいる気がしますね。旦那様の方こそどうしたのでしょう。
早朝の挨拶をしつこくしていたら「おやすみ」と返してくださるようになってしばらく経ちますが、私のことを気にかけてくれたことはありません。
ですがこれは、ちょっと仲良しになれたということでしょうか。
「それは、旦那様にお名前を教えてもらっておりませんから」
そうなんです。私、旦那様に名乗ってもらっていません。
だからお呼びできませんと伝えると、きょとん、とあどけない表情をされました。いつも男前ですけど可愛らしいお顔もされるんですね。
「名乗って、ない?」
「はい」
「それは、……すまなかった」
「いいえ。旦那様にとっては押し付けられた亡霊みたいな妻ですから。そのおつもりなのかと思ってました」
離縁するつもりの厄介者です。当然だし「旦那様」と呼んでご挨拶を返してくださるので、お優しい方だなあと思ってました。
「はあああ? 半年あって何してんだあの人?!」
「それが領主様だよ……」
「だからって、エレナちゃんがどんだけ頑張ってると…!」
「くっ、これで手作りの差し入れがなくなったら領主様を恨む」
「ていうか奥様は今日もちっちゃ可愛い……」
後方の兵士さんたちが何やら騒いだようで、馬がたたらを踏む音がしました。大丈夫でしょうか。
旦那様は「はあ」と息を吐いてから、手綱を少し引いて方向を変えました。街道から外れますが。
「お前らはついて来なくていい。私はお前らの悪意まで喰うつもりはないからな」
ちょっと賑やかだった後方の方々からさらに「きゃー」とか「領主様やらしー」とか言葉が投げられたんですけど、い、いやらしいって何でしょう……
それに彼らには「お前らは」って言ってましたけどこの場合、私はついて行くべきでしょうか。
一緒に行っても、いいでしょうか。
「エレナ。おいで」
迷ったのは一瞬でした。
旦那様にそう言われてしまえば、私は嬉しくなって喜んでついていきました。
街道から外れて、浅い木立の中を旦那様の馬はゆっくり進みます。
どこへ向かうのかわからないので、今度は横に並ばずその後ろをついていきます。お利口なロペとルナは暗い中でも私たちを見失わずついて来てくれますが、時々名前を呼んで確認しながら。
イングレイス領に来てから、たくさんの方の名前をお呼びしている気がします。
名前を呼ぶと私がほっこり嬉しい気持ちになるから。私のためでした。
今もそう。名前を呼ばれて嬉しい気持ちになるのは、私の方ばかりです。
「妻がいらないのは本当だ。私はこういう体質だからな」
旦那様は静かにお話してくれました。
「王都で私が何と言われているか、だいたい知っている。間違いでもないしな」
「旦那様はお優しいです。日中に眠気がひどいのは、魔力酔いみたいなものですよね。ご自身の魔力が溜まりすぎて、身体維持のために睡眠という休息を求めるからではないでしょうか」
「詳しいな」
「色々調べられましたし、自分でも調べたんですよ。魔力について」
「そうか」
旦那様は静かに馬を止めました。
木立の中にぽっかり、まあるい広場が現れました。自然にできたものではなくて、人が伐採して作った場所なのだそうです。
「星詠みの場所ですか?」
「王都ではそんな綺麗な言い方をするのか。私の『食事処』だな」
馬から降りなくていい何かあったら逃げろと言われ、旦那様は一人で広場の真ん中あたりに立ちました。
王都では、旦那様のような魔力特性の方を星詠み師といいます。
天の運行から吉凶を占う占術とは違うものですが、彼らが星を詠むと大地が穏やかになると言われています。
瘴気を祓う聖女はあくまで伝説。でも元になるような話は存在する。
それが星詠み師。
彼らの魔力は瘴気を食べるのです。
言い換えれば瘴気に取り込まれても魔者にならない人。
物語の聖女さまは、綺麗な容姿で美しい光をまとい、キラキラと降り注ぐ星の光で結界をつくって瘴気から魔物から民を守ります。
その姿から、彼らは星詠み師と呼ばれるのかもしれません。
もしかしたら、そうやって綺麗に誤魔化しているのかもしれません。
旦那様は、何度か大きく息を吸って吐いて。私には夜の中でもさらに暗い何かを、靄のような綿のようなものを食べているように見えました。
黒い得体の知れない何か。瘴気と呼んで忌むもの。
それを体の中に収めて魔力で消化する。消化しきれないと、体が悲鳴を上げて寝ろ休めと訴えてくる。
手早いのは攻撃系の術式を放って発散することだそうですが、野生の魔物が都合よく発生するものでもないので旦那様はいつでも眠いらしいです。
それって常に消化できていないのでは?
セサルさんに尋ねてみましたが、その時は曖昧に「そうですね」と言われただけでした。
王族の住まう都や、荒野に面した辺境では星詠み師は大事な役目を負っています。人に動物に瘴気が取り憑いてしまう前に防ぐという、なくてはならない存在。
取り憑かれた魔物や、魔者は討伐対象になってしまいますから。元が何であっても、誰であっても。
けれどその反面、彼らは、彼ら自身が魔者ではないかと恐れられる存在でもあります。
私みたいな役立たずな魔力と違って、とっても大事なのにひどい話です。
何だか悔しい気持ちになってむくれていると、「どうしたんだ」と旦那様が近くにいらっしゃいました。怒ってたんです。
私は馬に跨ったままなので、背の高い旦那様を見下ろします。初めて見る角度です。
「眠くないですか?」
「まだ大丈夫だ」
「まだって、旦那様は魔力量が多いからたくさん食べれられるんですね。お腹いっぱいになる前に帰りましょうね」
「気味が悪いだろう?」
「いいえ。役立たずの亡霊の方が不気味ですから」
「そんなことはない、夜の君は初めて見たが」
とても綺麗だ。
何かいたのか、ロペが不意にわん! と大きな声で吠えたので私は心臓がどきりと跳ね上がりました。
そのままでも馬から落ちることはなかったと思います、でも、危ないからおいでと旦那様に言われて。
「はい。旦那様」
私がそうしたいと思って。
今なら怒られないかなと、思い切って、えいっと旦那様が伸ばした腕に飛び込みました。
とたん、じんわり温かくなったなと感じました。
風向きが変わったかな、南風がまとわりつくような、と思って。しがみついた腕を緩めて旦那様のお顔を見たら、出かける前のように目を丸くしてらっしゃいました。
お顔がはっきり見えます。明るいです。
私を草地に下ろした旦那様は、髪を一房すくって二人の間まで持ち上げました。光ってますね。いいえ、いつも光ってるんですけど。
ぼんやり消えそうな光でなくてこう、ピカピカっていうか。
彼の手が光を離すと、髪が胸に落ちます。私の髪、なんですよね。ううん、灰色というか光って金色ぽい? かも?
もうわからないのでちょっと思考を放棄していると、そんな私の前で旦那様は髪を離した手をぷらぷら振ってました。その後に首をコキコキ回して。なぜだかぴょんぴょん跳ねてらっしゃいました。
どうしたのでしょう。
「あの、旦那様」
「これはすごい! これほどスッキリしたのは随分久しぶりだ! 消化するどころか、私の余剰な魔力も持っていかれた!」
「まりょく? ですか。誰が」
「ちょっと確かめてみよう!」
なにを、と口にする前に。正面から旦那様に抱きしめられてしまいました。
私は小さいのです。旦那様は背が高いのです。すっぽりです。あと自分から飛び込むのといきなりされるのは覚悟が違います。
「ひゃああああああ?!」
奇怪な私の悲鳴を聞いた兵士さんたちに、領主様が捕縛されるという事件があったのは内緒なのです。
そうして翌朝。
早起きなセサルさんとメイド長に呼ばれたリサが私たちの前で固まりました。
そう「私たち」です。
「坊っちゃま…! 私めは坊っちゃまをそんな子に育てた覚えはございません嘆かわしい!」
「奥様を離してえええ!」
大変です。二人とも落ち着いてください。でないと私、恥ずかしくて泣きそうです。
「うるさい。エレナは書類上は私の妻だ。ごく普通の状態だこれは」
「なんと! あれだけ進言しても奥様にお礼の一つも言わなかった小僧っ子が、しかも書類上の関係だと理解していてその態度、なんとなんと!!」
「奥様が食べられちゃう…!!」
食べられません。食べられませんからリサ落ち着いて。
混乱がぐるぐる渦巻くこの状況がどういうものかというと。
まず、早朝とはいえ日が昇った時間に旦那様が起きていらっしゃいます。
そしてここは邸の応接間。寝室に連れ込まれそうだったのを断固拒否しましてここになりました。
そしてそして、ソファに腰掛けた旦那様に背中から抱きしめられている状態です。拘束とも言います。
両腕で、強くはありませんがお腹をがっちり抱えこまれています。
さらにはいつもより元気よく光っている私の髪に、時おり旦那様の顔が触れます。私もこれロペとルナによくします。頬ずりです。
なんで、抱っこされているのか。
どうして頬ずりされているのか。
旦那様いわく、くっついていると魔力が正しくすごい勢いで循環するらしくて、消化不良もなければ眠気もなくなるそうです。
代わりに私の髪がピカピカ光ります。朝でもわかるほどです。
恥ずかしい。いろんな意味で恥ずかしい……
決死の覚悟のリサに救出してもらい、私は朝から湯浴みという贅沢をいただきました。
夜に外出してましたから清潔にしてくれるのだとありがたく思っていたら、リサは泣きながら他の女性使用人さんたちと一緒に私をすみずみまで磨いてくれました。
なぜ?
「うわーん、こうなる日を願っていたのに悔しいなんか悔しい! 旦那様なんか奥様の可愛いところ全然知らないくせに! 奥様は外見も中身もいつでも可愛いけどなんか違う悔しいいい!」
な、なにを嘆いているのかわからなかったので、とりあえず「ごめんなさい?」と謝っておきました。
そのあとは朝食を旦那様ととることになりました。
この半年間で食事をご一緒するのは初めてです。しかも朝食です。
とはいえ正餐室に用意するほどじゃないと旦那様がいうので温室になりました。どうしてですかと聞いてみたら、「他の者からもよく見えるようにです」と答えてくれたのはセサルさんです。給仕さん以外にも見えるように、ですか。公開処刑ですか。
いつも美味しいヴァレンティン家の食事に味がありません。
ううもったいないです……
旦那様の私服も初めて見ました。
早朝にお帰りの時や、お出かけ前はお仕事モードなので軍服ですから。そうして当然のように隣りに腰掛けるのやめてくださいませんか……
離縁されるといっても仲良くできたらな、と思ってました。
星詠みの魔力も気にされることは何もないですよってせめてお伝えしたくて、お仕事に同行させてもらいました。
だからってこれは急展開すぎませんか。
「急じゃない。セサルに言われなくても、礼は言おうと思っていた」
隣りに並んだ旦那様の左手が、私の右手をつかんでいます。手の平を合わせて指の間に指が絡まる形。手だけなのに密着度がものすごいですこれ。
今は瘴気の消化がすっかり済んだのか、旦那様に触れても私の髪はそこまでピカピカ光りません。いつも通り薄らぼんやりしているだけなので、朝陽さす温室の中ではほとんどわかりません。
でも手は離してくださらないんですね。
なぜ?
「君が来てさほどしない内に、砦の中の書類が劇的に片付いてきた。セサルたちが持ってくるものも簡潔で、急ぎでないからと後回しにしていた案件も含んでいた。君が手をつけたいと許可を求めたのは覚えていたが、まさかここまでと思わなくてな。最初は信じられなかったんだ。けれどセサルもアーロンも砦の連中も君のことばかりで、だいぶ叱られていた」
ありがとう。
とても仕事がしやすくなったと。
旦那様は仰いました。私は照れ隠しに絡んでいた指をきゅっきゅと握ってみたら、もっと恥ずかしくなりました。
旦那様は十年前、突然の事故でお父様を亡くされて若くして辺境伯を継いだ方です。
星詠みの魔力を辺境軍で振るうことと、お父様の跡を継いで領地を治めることと、ご家族で話し合い領民にとって危険がないよう良きよう決めていくところを。全部がいきなり旦那様にのしかかってきたのです。
精神的負担や肉体的疲労が重なって、魔力の制御がうまくできない時期があったそうです。
瘴気を消化するどころか取り込むのもままならず、万が一にも旦那様自身が魔者になっては大変です。
なので、皆が基本的に眠っている夜間に活動することで瘴気の取り込み量を調節したところから始まり。
今ではすっかり昼夜逆転生活が日常になったとのこと。
「それにしても、私に消化作用があったとは知りませんでした」
「胃薬みたいな言い方だな。もっと驚いていい、これは本当に稀有な魔力だ」
私の髪がいつでもぼんやり光っているのは、常に魔力を発散している状態だそうです。だから私の中を調べても魔力なんてこれっぽっちしかなかったんですね。
それで、これ、自分の魔力だけでなく摂取した魔力も全部発散してしまうっぽいです。
瘴気混じりの魔力って放出して平気なのかと思いましたが、旦那様が言うには昨夜たくさん食べても私に触れるとピカピカ光るだけで瘴気は出てなかったそう。
そうなんです。昨夜は旦那様「お食事」する、私をぎゅっとする、のエンドレスだったんです……死ぬかと思いました……
体は元気なんですけどね。精神的に。
「浄化というより、君の性質は循環なんだろう。正しく血がめぐり身体が健やかになるような」
人間濾過器ですね、理解しました。
セサルさん含めて控えてます使用人さんたちも、うんうん頷いてますので間違いないと思います。
「私の『瘴気喰い』を嫌悪しないどころか消化までしてくれて、その上領地の仕事をこなして。君は停滞していた邸の、いやイングレイスの時間を循環させてくれたんだ」
「いいえ、そんな大層なことはしていません。これでもそれなりに妃教育を受けましたので、お役に立っているなら嬉しいです」
「ああ、……それに関しては噂を聞いている。あの馬鹿王子が。アレをそのまま王位につけるならイングレイスが王家を滅してやろう」
「うーん。殿下がああでしたので、私の勉強がああだったのは確かですけど。やめてください、旦那様が怪我したら悲しいです」
「するものか。……いやしかし、君の魔力循環が知れたらアイツら何を言ってくるかわからないな」
言ってきますでしょうか?
殿下は私のことは不気味だと仰って慣れた頃には笑ってらしたので、興味ないどころか相当お嫌いだと思いますよ?
婚姻できる年齢になってしまった私を辺境に追いやるくらいには。
でも私自身もこの特性は知らなかったですから。
もし、知っていたら、王城でいつもお疲れだった星詠み師さんを元気にできたのかもしれません。それだけは残念です。
よし、と掛け声をかけて旦那様は立ち上がりました。
ずっとくっついていた手の平が離れて、指が離れて、淋しい気持ちになりました。
旦那様は胸に手をあてて、ソファに腰掛けたままの私をのぞきこむようにちょっと腰を折りました。
「ご挨拶が遅れました。イングレイス領主、ライムンド・ヴァレンティンと申します。あなたと、朝陽を迎えられた幸福に感謝を捧げましょう」
わあ、格好いいです。照れますね。
今までは眠くてふらふらして壁にぶつかったり足をぶつけたりする旦那様しか知らなかったので。
これからたくさん知っていくのでしょう。
それはとっても嬉しいです。
立ち上がって、私も礼を返します。
「ありがとうございます。エレナでございます。ライムンド様、どうぞ、可愛がってくださいませ」
離縁まであと二年以上ありますから、それまでがんばりますね。
旦那様は私の言葉に赤くなったり青くなったり、セサルさんに「ほら大事なことが伝わってない!」と叱られたり、「良かったけど良くない奥様違います!」と私がリサに怒られたりしました。
どうしてでしょうね?
エレナちゃんは16歳