あなたの世界で一番美しいものは何ですか?
プロローグ
大切な人を失うのは本当に辛いことなのだろうか。
そんなことを考えながら、僕は車窓の風景に目を奪われていた。
都会の喧騒から離れて走るこの電車は古ぼけた二両編成のロカール線だ。
一定の振動を刻みながら、海と山に挟まれた路線を走行している。
僕は、ふと、車外の風景から目線をはずすと膝の上に握られた一冊の革張りの本を見つめる。
この本は先週死んだ祖父の『日記』だった。
表紙には『Diary』という綴りと祖父の名である『春田秀雄』という名前が書かれている。
表紙をめくる。
すると一枚の白黒写真と遭遇する。写真には町を一望できる丘を背景に、風で帽子を飛ばないように手で抑える白いワンピースの少女が愛くるしい笑顔を見せていた。
写真を裏返すとこう書かれていた。
『一九四三年八月三日 世界で一番美しい場所で』
それに書き足したように、
『世界で一番大切な人と共に』
これが僕の、この旅の目的だった。
理屈なんていらなかった。ただ世界で一番美しいというものを見てみたかった。
でも、もしかしたら僕は祖父が死んだという事実を受けいれられなくて、単に現実から逃げているだけなのかもしれない、という不安も心のどこかにはあった。
それでも僕の足は自然と動き出していた、祖父が会った大切な人のもとへと。
僕は写真を元の位置にしまうと、静かにページをめくり始める。
何度も読んだ祖父の日記を僕は再び読みふけた。
============================================================================================
そこは美しい場所であった。
大戦が始まり都会から疎開してきた春田秀雄にとって、そこはまさに自分だけの場所であり最高の安らぎの場であった。
中学三年生の秀雄には一つだけ趣味があった。
写真である。
父親から譲り受けた旧式の武骨で重いカメラであったが、秀雄は毎日のようにここへ足を運んで町を一望できる風景に何度もシャッターを切り、そして楽しそうに微笑んだ。
夏の陽射しなど気にならなかった。
ある日、丘から突き出た岩の上で無心にシャッターを切っていると背後から突然、声を掛けられた。
「あっ! 春田君だ!」
聞き覚えのある声に驚いた秀雄は危うく岩から転げ落ちそうになり、ギリギリで踏み止まると背後を振り返る。
そこには白いワンピースを着て、同色の鍔広帽子をかぶった少女がちょこんと立っていた。
「に、西野さん」
秀雄は慌てて少女の名を呟いた。
その少女は秀雄のクラスの同級生の西野まどかだった。
まどかは疎開組みではなく、純粋な町育ちの少女で都会育ちの秀雄とは仲は悪くないが良くもないといった間柄であった。
秀雄とまどかはその後、数分間町を一望できる岩の上に腰掛けて語り合った。
「へ~、そうなんだ。春田君もこの場所がお気に入りなんだね」
「う、うん」
生返事を返す秀雄はどこか弱々しい。
そんな秀雄を見かねてかまどかは口元に微笑を作って話を続ける。
「私もここ好きだな。だって、ここって風が強いのにどこか優しくて、森は静かだし、海は綺麗だしね」
自分が思っていることと同じなので秀雄は驚く半面、まどかの真剣な表情に魅入ってしまっていた。いつもは気楽そうに生活している彼女にもこんな一面があるのだということが心に残った。
そんな秀雄の視線に気付いたのかまどかは頬を桜色に染めて立ち上がる。
「そ、そうだ。ここ私たちの秘密の場所にしましょ。ね?」
「うん、いいよ」
お気に入りの場所が自分だけの物じゃなくなる嫉妬心なんて無かった。むしろ、そんな彼女と共通の秘密を持てることが誇らしかった。
秀雄とまどかは指きりげんまんをして、秘密の誓いを立てた。
それから、まどかが記念に一枚写真を撮ってくれと頼んだので、秀雄はしどろもどろになりながらも「わかった」と言って、シャッターを切った。
カメラから漏れる、パシャという音が、秀雄にとって『世界で一番美しいもの』と『大切な人』との思い出を四角形に切り取った。
============================================================================================
やがて二人は秘密の場所で頻繁に会うことが多くなった。
二人はいろいろなことを話し合った。
都会のこと、町のこと、戦争のこと、他愛も無い学校のこと、そして極たまに恋愛のことも。
二人は日が暮れるまで丘にある岩に座り、空と海が群青色になるまで語り合ったこともあった。さすがに、その時は親に「今何時だと思っているんだ!」と怒られた。
ある時から二人は互いを名前で呼ぶようになった。すなわち、秀雄はまどかのことを『まどか』と呼び、まどかは秀雄のことを『秀雄』と呼んだ。
ある時とは、二人が出会ってちょうど二週間ほどが過ぎた日の夕方だった。
その日は朝から降っていた雨がやっと止んでジメッとした空気が体に張り付いてくる嫌な日だった。そんな日なのに秀雄はまどかに言いたいことがあった。
どうしても今日、言いたい言葉だった。
明日は町の夏祭りが開かれる日だった。
秘密の場所でぼんやりと立ちながら、夕日を眺めているとまどかはやって来た。
まどかは何も喋らず秀雄の五歩手前まで歩いてくると、静かに足を止めて秀雄と向かい合った。
まどかの顔に夕日がかかる。その表情には、いつもの愛くるしさの中に緊張の色が見えた。
それは秀雄も同じだった。
まどかがやって来て五分は経っただろうか、秀雄は意を決してやっと口を開いた。
「俺……まどかのことが好きだ」
その言葉がやっと言えた。
秀雄は真剣な眼差しをまどかに向けた。
それにまどかは微笑みを返してこう言った。
「私も、秀雄君のこと………好きだよ」
次の日の夏祭りの夜、二人は色とりどりの屋台が並ぶ通りを浴衣を着て歩いていた。
二人仲良く手を繋いだまま。
「えっ、都会に行っちゃうの?」
屋台の横に置かれたベンチに腰掛けながら秀雄はまどかに聞いた。
「うん。叔父さんが亡くなって、お葬式にどうしても出ないといけないの」
「そうか…」
せっかく恋人同士になれたのに、いきなり離れ離れになるとは思ってもみなかったことに動揺を隠せない。
「でも、大丈夫だよ。都会に行くのは三日間だけだし、帰ってきたらまたいっぱい遊ぼうね」
まどかの諭すような口調に自然と笑みが零れる。
それもそうだ。恋人同士になれたのだから焦ることも無い。
「わかった。まどかが帰ってくるまで待ってるよ」
「うん」
まどかが満面の笑みを見せる。
今、この瞬間、彼女の笑みを独占できる自分が世界一の果報者ではないかと思えた。
「それじゃ! 今を満喫しよ」
言うが早く、まどかは立ち上がり秀雄の手を引いて駆け出す。
「うん」
秀雄もまどかが握る手を軽く握り返して小走りに駆け出す。
この手の温もりが一生消えませんように、と秀雄は神様に祈った。
本気で祈った。
何よりもかけがえの無いこの温もりを守るために。
だがその温もりはほんの数日で消えてしまう。
たった一人の少女の死と共に。
============================================================================================
まどかが都会に行ってから一日、二日、三日があっという間に過ぎ、そして四日目の朝が来た。
秀雄はその日は朝早く起きて、町の駅へと向かった。
まどかを迎えに行くためだった。
やがて列車がホームに着いて、乗客が降りてきた。
だが、押し寄せる人の波は、どれもが疲れ果てた表情をして、大急ぎで都会から引っ越してきたような荷物を抱えていた。
乗客たちの話す声が自然と秀雄の耳に届いた。
「最悪だよ。家も全部焼けちまった」
「一体なんでこんなことになっちまたんだ!」
「何でも死傷者や行方不明が星の数ほどでたらしいよ」
口々に呟きながら人の波は移動していく。
秀雄の足元にくしゃくしゃになった新聞紙が風に乗って流れてきた。
おもむろにそれを拾うと広げて一面を見る。
そこには二日前のことがこう書かれていた。
『空襲で六〇〇〇人が死亡』
信じられなかったと同時に凄く嫌な予感がした。
急いで次の犠牲者一覧を見た。そこに彼女の名前がないことを必死で祈りながら、アイウエオ順に並ぶ犠牲者の名前に目を走らせた。
体に電流が流れた。
『西野まどか』
それが信じられなくて、信じたくなくて秀雄はただ呆然としていた。
それから二日後の午後にまどかの遺体が届き通夜が行われた。
ほとんどの参列者が涙を流すなか、秀雄だけが涙を流すことも、嗚咽を漏らすことも出来なかった。
ただ、まどかが死んだという現実が受けいれられなかった。
また、ひょっこり現れて自分にいつもの無邪気な笑顔を向けて、話し掛けてくるのではないかと、そう思っていた。
秀雄は不意に自分の手を見て、あることに気が付いた。
あの夏祭りのときのまどかの手の温もりが、優しい感触が、いつのまにか消えていた。
やがて夏が終わった。
まどかが死んでから二年の月日が流れた。
戦争は終結し疎開が終わり秀雄は都会に帰ることになった。
結局まどかが死んでから一度も泣くことは出来なかった。
いや、泣きたくなくて、まどかが死んだことを受け入れたくなくて、そんなことを考えている間に二年が過ぎていた。
二人だけの秘密の場所にはまどかが死んでから一度も行っていない。
行けばきっと泣いてしまうからだと思っていた。
秀雄は二年間住みなれた部屋を整理していた。
といってもこっちに来てから、たいした物も買わずにいたため整理するものといったら自分の衣類とカメラくらいである。
おもむろに引き出しを開けてみる。
そこには一冊の日記が置かれていた。
秀雄は日記を手に取りページをめくる。
その日記は八月三日から始まっていた。
まどかに初めて近づけた日だった。
そのページには一枚の写真が挟まれていた。
町を一望できる背景に無邪気な笑みで笑っている少女。
写真に一滴の水滴が落ちる。
「え?」
秀雄は頬に触れると、そこに微かな湿り気があった。
その時、秀雄は始めて自分が涙を流したことに気が付いた。
また写真に涙が落ちた。今度は反対側の眼からだった。
秀雄はしばし呆然と佇むと、ある決意を胸に日記から写真を取り出すとそのまま駆け出した。
靴なんて履くのももどかしくて、裸足で走った。
始めは砂利道だった地面が土に変わりひんやりと心地よかった。
それから五分ほど走り続けてから目的の場所に着いた。
荒い息を吐きながら膝に手をつく。手にはあの時の写真が固く握られていた。
秀雄は町を一望できる岩の上に立つと声の限りに叫んだ。
意味なんてなかった、ただ叫びたかった。
心に張り付いた、この露を消せるのなら。
叫びながら泣いていた。
両方の目から大粒の雫が頬を伝い風にさらわれた。
二年間ためきった怒りを悲しみを辛さを、すべてここで吐き出した。
秀雄は思った。自分は多分まどかのことを忘れられないだろう。
いつかは思い出して、また瞳に涙を溜めることがあるだろう。
それでも生きていこう。
彼女は言っていた。
『私もここ好きだな。だってここって風が強いのにどこか優しくて、森は静かだし、海は綺麗だしね』
そうだ世界はこんなに美しいではないか。
たとえ大切な人を失ってしまっても、秀雄の大切な人は今も秀雄の記憶の中で生き続けているではないか。
大切な人が好きだといったものは世界にあり続けるではないか。
怒りも悲しみも辛さも全部背負って生きていけばいい。
たとえ記憶の中のまどかに涙することがあってもいいではないか。
生きるとは多分そういうことなのだろう。
世界で一番美しい場所でそう思いながら、秀雄は涙を流し続けた。
============================================================================================
エピローグ
うっそうと雑草が茂る山道というか獣道を僕は歩いていた。
もう駅から歩き始めて小一時間になるが、未だに目的の場所にはたどり着かない。
というより迷ったかもしれないという不安感が僕の背中に暑さからくるものではない汗を流させた。
失敗だったかな、と思った瞬間、視界が開けて太陽の陽が僕の肌を焼いた。
そして気が付いた、ここが祖父とまどかさんの『秘密の場所』なのだということに。
僕はそれから町を一望できるという岩を見つけ、その上に飛び乗った。
声が出なかった。
小さな蟻のように町の間を行き来する人々、アンバランスに林立した建築物、遠くには自分が乗ってきた二両立ての電車が弧を描いて走っているのが見える。
そして静かな森、綺麗な海、どこか優しい風。そのどれもが日記の通りだった。
まさに世界で一番美しいものだった。
そして僕は祖父が羨ましくなった。
こんな美しい場所と大切な思い出を持っている祖父が。
僕は思った。僕も生きよう、背負って生きよう。
自分だけの世界で一番美しいものを見つけるために。
たとえそれが困難なことであっても。
そう僕は心に強く刻み込んだ。
あの日、祖父が見た世界で一番美しいものと共に。
あなたの世界で一番美しいものは何ですか?
恋愛小説を初めて書きました。
難しい。。。