「マネージャー」
暫くの間一年生は指定ジャージで部活動に参加していたのだが、一月経たずに練習着が届いた。
中学では基本指定ジャージで練習をしていたため、お揃いの練習着というのは少し嬉しかった。
このバスケ女子部には中学時代に市の選抜選手だった人が多くいた。
しかも一年生には県選抜選手も唯を含めて二人いた。
体育館の入り口で練習風景に圧倒されたわけだ。
何故バスケ強豪校へ行かなかったのか訊ねると
「強いところ行っても楽しくなさそうな気がした。」
と唯は答えた。
彼女は一年生でレギュラーになったが誰もやっかみなど言わなかった。
それ程唯のプレーは素晴らしかったのだ。
ただいつも全開で笑っているので
「唯せめて口もうちょっと閉じな。」
と言われていた。
私はレギュラーになれそうな予感がしなかったが、せめて皆に少しでも近付きたくて練習を頑張った。
唯は部活動中常に笑っていた。よほどバスケが好きなのか。
一年生の練習着が揃った頃から、私は部活動以外でも唯と行動を共にする事が多くなる。
それで気付いた事は、彼女はバスケをやっている時以外も笑っている事が多い。
恐らく何をやっても楽しいのだろう。
正に「今を生きる」人である。
そして彼女は曲がった事が嫌いだ。
正確には、曲がった事に直面すると訊ねずにはいられないようだ。
答えを受け入れようと思っていない所を見るとやはり嫌いなのかもしれないが。
例えば
女性特有の嫉妬からくるような理不尽さをクラスメイトが醸し出すと
「ふーん。意味わかんないね。」
と本人に言いそこで完結する。
そしてこれは本人にとって嫌味でも何でもない。そのままなのだ。
これが世に言うサバサバしている人と言うのではないだろうか。
ただ、サバサバの弊害で「怖い」「デリカシーが無い」などの印象を持たれてしまった。
私から見ると、むしろサバサバしていない人達の方がよっぽど怖いのだが。
だから私は唯と過ごす事が一番楽しい。
しかし楽しい事ばかりではない。
ある日の部活動で足に嫌な痛みが走った。
くじいた訳ではない。
はじめに痛んだのは捻挫をした事のある右足首だった。
次第に膝も痛くなってきた。
中学を卒業してから久しくプレーをしていなかったため忘れていた痛みだ。
だがこれほど痛んだ事は初めてだ。
その日は練習を見学にさせてもらい様子を見る事にした。
しかし次の日にはまともに歩けない程の激痛に襲われ病院へ行ったところ、私は松葉杖姿になってしまった。
アキレスけん炎と足首の靭帯の損傷とジャンパー膝のトリプルコンボだ。
元々捻挫をする事で痛めてしまっていた足首の靭帯はボロボロだったようで、そこに負荷をかけたためにアキレスけん炎と相まって歩く事すら困難な状態になってしまったのだ。
膝の方も靭帯に危機が迫っていたところを、どうにか炎症で済んでいる様だ。
かなりショックだ。
痛みも不自由さもそうだが、バスケが出来ない。
私がその姿で登校すると唯がとても驚いて大騒ぎしてから大泣きした。
私はそのあまりの大泣きに面喰ってしまった。
落ち着いた頃に聞いてみると、私が気の毒だったのと、共にバスケを楽しむ事ができない悲しさが溢れてしまったと話した。
彼女が大泣きをした理由がそれと知ると私も泣いてしまった。
もしかしたら泣きたい気分だったのかもしれない。
私が泣きだすと唯もまた泣き出し、クラスメイトの幸が慌てて宥めてくれた。
今思うと恥ずかしい光景だ。
しかしこの時大泣きした事で、病院を出た時から胸に痞えていたものが小さくなり、呼吸が楽になった。
時間はかかるが良くなるとお医者さんは言っている。
ただ当分安静にしないといけない。
松葉杖が必要なくなってからも、足首はコルセットのようなもので固定をして過ごす事が必要のようだ。
せっかく入部したバスケ部だが、とてもバスケが出来る状況ではなくなった。
これは退部した方が良いのだろうか。
流石に松葉杖では部活動に参加ができないので下校しようと玄関へ向かうと、バスケ女子部の主将先輩が声をかけてきた。
そこで私の怪我が完治するまでは「マネージャー」として過ごす事を提案された。
「大変だろうから無理に活動する必要は無いよ。
せっかく好きでバスケ部に入部したんだから、最後までバスケ部員として過ごすのも良いんじゃないかなと思って。」
正直マネージャーという選択肢は今まで無かった。
もちろんプレーするのが好きという事もあるが、うちの部にマネージャーはいなかったため、そういう存在は無い部なのだと思っていたのだ。
少し考えさせて下さいと言って別れたが、私の頭の中は既にマネージャーをやろうという思いが9割以上を占めていた。
「唯と一緒に最後までバスケ部にいたい。」
バスケが好きで唯と共に泣いた私がこの状況でその選択をするのは容易だった。
それにマネージャーとして過ごしているうちに完治してまたバスケができるようになるかもしれない。
こうして私はバスケットボール女子部の初代マネージャーになった。