ウロボロス
身体が重たい。
自分の瞼がぴくぴくと動くのが分かった。
ふとそこで違和感を感じる。身体、瞼……おかしい、自分は肉体を失い復活を待っていたはずだ。
そこまで考え一つの可能性に気付き、目を開けた。
久々の感覚だ。
「お、起きたか」
フィアレインの目の前にアスタロトの顔がある。思わず顔をしかめ、また目を閉じた。
「寝るっ!」
「なんだ!意味がわからん!」
長き眠りの末、目覚めて最初に見るのがこの性悪魔族とは……。これはカウントしてはならない。
もう一回目覚めをやり直そう。
「ほー。いいのか?私の次にはあのお方がお見えになるぞ。そろそろ復活だろうと、ここ半年交代でお前の様子を見にきていたのだから」
ルシファーが来るの言葉に渋々目を開け起き上がる。
仕方ない。この際贅沢は言っていられない。
それに自分には待つ者がいるのだから、惰眠を貪る訳にはいかないのだ。
別れの時に言われたではないか。寝起きが悪い、寝過ごすなと。
そこまで思い出し俯く。
今、目の前に立つアスタロトに聞かねばならないことがある。だがそれを聞く勇気が出なかった。
一体自分はどれ位復活に時間をかけたのか。
果たして彼らはまだ生きているのだろうか。
俯くフィアレインの膝にぽいっと白い衣類が投げられる。そういえば自分は何も着てない。渡された服を着る。
自分は人間達が死んだら入る棺桶のような入れ物の中にいた。
周囲を見渡す。石造りの小さな部屋だ。
聞くまでもなく、ここが魔界であることが分かった。
自分は世界の修復を終えた後、ルシファーへと預けた己の破壊の力の元へと戻ったのだから。おそらくここはルシファーの城の一室だ。
服を着てしまっても聞くべきことを聞けずにいたフィアレインに突然アスタロトが言った。
「あれから……どれ位時間が経ったのか聞かなくてよいのか?」
「聞きたいけど……」
言葉に詰まり俯くフィアレインにアスタロトはため息をついた。
「そうか……。では私から言ってやろう。あれから二十五年経った」
フィアレインは弾かれたように顔をあげた。
二十五年。
と、言うことはシェイドは四十四、五歳になっているはずだ。もし生きていれば……。
「お前の仲間達もまだ生きてる……良かったな」
「うん……」
安堵に胸を撫で下ろす。
だがそこで疑問が湧き上がった。
「でも……フィア全然おっきくなってない!」
「当たり前だ。お前の時は二十五年止まっていたのだから」
呆れたようなアスタロトの言葉に思わずむくれてしまう。
目が覚めたら少しは大きくなってるかと思ったのに。
アスタロトはフィアレインを手招きし、自らも部屋の扉へと向かい歩きはじめる。
「まずはあのお方の元へ。ミカエルに連絡するから、すぐに奴もとんで来るだろう。あとは奴と人間界へ」
フィアレインはうんうんと頷く。
会いたい相手が沢山だ。
何かと性悪で腹立たしい思いをさせられる相手のこのアスタロトですら懐かしい。
フィアレインは軽い足取りでアスタロトの後ろに続いた。
だが彼は扉を開く前に立ち止まり、振り返る。
どうしたのだろうか。
思わず首を傾げたフィアレインへアスタロトは畏まり言った。
「改めて……復活おめでとうございます、神様。世界を救ってくださったお礼もあわせて申し上げます」
アスタロトはそう言うと恭しく一礼した。
***
アダムはミカエルの使い魔である美しい白い鳥が消えた途端立ち上がった。
「どうしたのー?」
「アダム、どこいくの?」
遊び相手をしてやっていたエルフの幼子たちが突然立ち上がったアダムを驚いたように見上げた。
アダムは首を振り外を指差した。
それだけで幼いエルフたちはアダムの言わんとすることを理解したらしい。エルフの幼子二人は納得したように頷いた。
「お仕事なんだね」
「ミカエル様の使い魔だもんね、あれ」
いってらっしゃいと手を振る彼ら二人に手を振り返し、アダムは外へと駆け出た。
この二十数年の監視者生活ですっかり馴染んだアルフヘイムの地を駆ける。
先ほど偉大なる天使ミカエルから使いが来て、自分へと知らせてくれたのだ。
尊い神様がとうとうお目覚めになった、と。
長かった。あまりにも長い日々だった。
生まれ落ちて間もなかったアダムにはこの二十数年が気の遠くなるような年月にさえ思えた。
ミカエルは先代の神様が亡くなられ何十年、何百年どころではない己からすれば想像もつかない年月を一人で過ごしたと聞いた。
そしてその間たった一人で天界を守っていたという。
それを聞いた時、さすがは偉大な天使だと感心した。
アダムはひたすら駆けた。ミカエルと神が現れる場所へ。
行き交うエルフたちが怪訝そうな表情でアダムを見つめ、時に話しかけてくる者もいたがそれどころではない。
遠くに二人の姿が見えた。
かつてセフィロトの樹があったそこに二人は立っている。懐かしい神のその姿にアダムは早速涙がこみ上げてきた。
まっしぐらに二人の元まで駆け、目の前で立ち止まる。
「アダム、久しぶり!」
「神様、アダムには監視者としてここを任せておりました」
ミカエルの説明に神はうんうんと頷く。そして彼女はアダムのそばへ近寄って来て言った。
「ありがとう!アダム!」
アダムはひたすら首を横に振る。その間にも涙はひっきりなしに流れている。
そんなアダムにミカエルは苦笑して言った。
「アダム、お前の成長を神様へとご報告するがいい」
その一言にアダムは頷くと腕を一本折った。そしてキョトンとした顔で見ている神に恭しく差し出す。
「よし、じゃあ頂きます……」
真剣な面持ちで神がアダムの腕、チョコレートを齧る。それを味わい飲み込むとぱっと顔を輝かせた。
その表情が全てを物語っていた。
良かった。この二十数年の間での成長を神様がお喜びだ。
「アダム!美味しくなってる!」
神の言葉にアダムは幸せをかみしめた。
***
ハーフエルフの魔法剣士グレンは実家の宿屋にいた。
ここに帰ってきたのは久々だが、早速帰ってきたことを後悔している。帰ってくるやいなや姉にこき使われているからだ。
今は宿のカウンターで店番中である。
ぼんやりと窓の外を眺める。向かいに立ち並ぶ家には、みな白地に青い環状の図案の旗が見える。この宿屋にも掲げられている旗だ。
近くに寄ればその輪が己の尾をくわえた蛇の絵だと分かる。
これはアルフヘイムのエルフたちが引き起こした騒動の末に人間界、魔界、天界の三界によって設立された組織ウロボロスの旗である。
ウロボロスはアルフヘイムのエルフ達の監視、いまだ世界に存在する出来損ないエルフ達の駆除を行っている。
あの騒動以降、自分たちハーフエルフも人間たちからの風当たりが強い。そもそも人間たちからはエルフもハーフエルフも区別がつかないのだから。
最近では大きな街では出入りするのにウロボロスの腕章が必要な位である。
グレンは二十年位前に勇者と別れてから今も各地を旅している。
エルヴァンの発明した魔道具で出来損ないエルフが人の住む場所へ侵入出来ないようにすることは出来た。だが街の外などには未だに連中が出没する。
戦える者は必要だ。魔物の大繁殖期が終わった今でも。
だから人間と違い老いることもないグレンは今も戦い続けている。
久々に勇者のことを思い出す。
幸か不幸か、世界中に散った出来損ないエルフのせいで魔物の数は減った。そのせいで通常よりもはるかに早く魔物の大繁殖期を終えることが出来たのだ。
もっとも魔物などより出来損ないエルフのほうが厄介な敵なのだから、ありがたい話ではない。
とは言え、魔物の大繁殖期の終わりは勇者のお役目の終わりと言ってもよい。
だがシェイドは戦い続けた。何かに追われるかのように戦いに明け暮れた。
その姿は他人にはあまり興味のない自分やルクスが危惧するほどであった。
あの子がいなくなったせいもあるだろう、と思った。
世界の為に消えいつ復活するとも知れない、かつての仲間。
あれからシェイドはあまり笑わなくなった。それも当時、グレンとルクスが心配したことだ。
セフィロトの樹から一人で出てきて自分たち二人に『あいつは必ず戻る』と言った人物と同一人物であるとはとても思えなかった。
そんなシェイドのことをルクスが言っていたのを思い出す。
『シェイド殿もフィアも世界に一人きりの孤独な存在だった。だからお互いが特別であった。シェイド殿は案じているのだろう。フィアの先行きを。自分が生きている間に戻ればよい。だがもしも……』
グレンにもそれは何となく分かる。
よく親子に間違えられていたあの二人は確かに本当の親子のようであり、そこには自分たちが立ち入れぬ絆があった。
月日が経つに連れ色々とシェイドが思い悩むのも仕方ないことだとグレンは理解したのだ。
だから金にしか興味のない自分には珍しいことながら、シェイドの気が済むまで付き合ってやろうと思ったのだ。自分には五百年ほどの寿命もある。焦ることはないと。
それに自分も勇者一行に毒されてしまったのかもしれない。
金にはならないし、下手すると損する事も多い。だが彼らとの日々は楽しかった。
あの幼い魔法使いにも振り回されたが、それもよい思い出だ。それに彼女の主な被害者はシェイドであって自分ではない。
もしあの子が復活する前にシェイドの寿命がおとずれたら、その時は自分が後を引き受けよう。
あの子一人つれて旅をするくらい……。
そこまで考えグレンは青ざめる。思わず激しく首を横に振った。
今までシェイドが引き受けていた彼女の世話もろもろを自分がやることを想像したのだ。
どう考えても無理だ。
許せ、シェイド……。
だがそこで考えなおす。自分には姉がいる。
人間の男を愛し、駆け落ちまでした姉はあの騒動の直前に夫と死別し、この村へと帰ってきていた。あの子とも面識があるし、子どもを欲しがっていた姉のことだ。実の子同然に可愛がるだろう。
自分たちハーフエルフはハーフエルフとしか繁殖できない。
ただでさえ数が少ない自分たちハーフエルフの種としての未来は明るくない。
だがそれもあの小さい神様は何とかしてくれるのではないだろうか。
グレンはそう期待している。
それにしても今日はなぜこんなにも彼らのことを思い出すのだろうか。
頬杖をついてぼんやりと考えていたグレンの耳に扉の向こうで姉が騒いでいる声が飛び込んだ。
姉と話している相手の声に凍りつく。この声は。
扉が勢いよく開く。
そこから現れた懐かしい小さなその姿にグレンは思わず立ち上がった。
「グレン!」
自分へと向かい駆けてくる幼い彼女へと歩み寄りながら『シェイドは若ハゲでつるっぱげになってしまった』と言ってやろうとほくそ笑む。
彼女が驚く姿を想像してグレンは口を開いた。
***
光の神の教団、大司教ルクスは部屋から出て行く若き聖職者たちを見送った。
世界の崩壊を阻止し、主神の復活を見届けた聖人としてルクスは教団に重用されている。老いた法王が死ねば、その座は自分のものとなるだろう。
かつて自分が望んだ道だ。
マルクト王国の上流階級に生まれたものの三男であった自分は自ら身を立てる必要があった。これが平時ならば軍人にでもなり、戦争などで身を立てたことだろう。
だが自分が生まれたころには魔物の大繁殖期がはじまり、十歳になった時に勇者が誕生した。
その時にこの大陸で国家以上に権力を持つと言っても過言ではない教団へと入ることを決めたのだ。
出世の手段となりさえすれば良かったはずの勇者の旅への同行はある意味で自分を変えたのかもしれない。
苦しいことも多かった。身体的にだけでなく、金銭的にも苦しい旅であった。
だが身体はよくもってくれた。
仲間にも恵まれた。そして奇跡を目のあたりにした。
これ以上望むことなど他にない。
願わくばあの子の復活が勇者シェイドの最期のときに間に合いますように。
ただそれだけは己の為だけではなく、人間の為に生きたシェイドと世界の為に消えたフィアの為に願う。
彼女がいなくなった後、自分とグレンはシェイドの気が済むまで付き合おうと決めていた。
義務が終わってもなお戦いに明け暮れるシェイドを思い直させたのは、意外なことに仲間の自分たち二人ではなく魔界の主ルシファーだった。
ウロボロスの会合で人間界をおとずれた彼がぽつりと零した一言がシェイドの心を動かしたのだ。
それが何の話をしていた時かは思い出せない。だがルシファーの言葉は今でも覚えている。
『神はお前個人の幸せを願っていた。結婚し子どもをもち幸せな家庭を築く権利がお前にはあると言っていた』
それを聞いたシェイドはしばらく黙り、やっと自分とグレンを振り返ったかと思うと突然言ったのだ。『俺は結婚する』と。
あまりの事に自分とグレンは言葉を失った。結婚は一人では出来ない。一体勇者は誰と結婚するつもりだろうか。
彼には将来を誓い合った相手がいるようにも見えなかったのだ。
何とか立ち直り、相手はいるのかと聞けば彼は言った。
『前々からいいなと思ってた相手がいて、向こうもいい感じだったんだが……』
『前々からとは?』
『知り合ったのは十八の時なんだが……』
思わずグレンと目を見合わせた。ルシファーも隣で面白そうに聞いていた。
十八の時、もう何年もたっている。そして相手の女性も妙齢であれば結婚話の一つや二つあってもおかしくない。
せっかくシェイド本人がその気になったのに無惨にふられては話にならないではないか。
迂闊な事は言えないと言葉を選んでいたルクスにシェイドは爆弾発言をした。
『半年前に会ったときもまだ独身だったんだよなぁ……。金持ちのお嬢さんだから結婚話も腐るほどあるだろうに、適齢期も過ぎて未だに独身なのが不思議なんだよな』
首を傾げるシェイドにその場でそれを聞いていた者は皆凍りついた……ミカエル以外。
ルクスは思わず怒鳴りそうになったが我慢した。
その女性はお前を想い、結婚もせず一人でいるのだろうと。
そしてその会った事があるかないかも分からぬ女に同情した。こんな鈍い男を愛し、ひたすら待っているなど。
隣にいたグレンが耐えきれずと言った感じで怒鳴った。
『もういいから、さっさと結婚申し込みに行きなよ!』
『あー、ミカエル……勇者をその女のところへ転移で連れていってやれ』
『これも神様のため。了解した』
『シェイド殿……戻らずとも良いぞ!』
ミカエルとともにその場から立ち去るシェイドの顔は久々に晴れ晴れとした笑顔だった。
かくしてシェイドは無事結婚することとなったのだ。
結婚式にはエルフやハーフエルフばかりではなく、天界、魔界の者まで次々と押し寄せた。その賑やかで楽しい式のことはまるで昨日の事のように思い出せる。
あの場にあの子がいない事だけが残念だった。
ルクスはそのような事を思い出しながら机へと戻り椅子に腰掛ける。そしてペンを手にとった。
続きを書き上げねばならない。
後世へと残さねばならぬものが沢山ある。
人間の寿命はあまりにも短い。
今でこそ、勇者が自分が生きている。だからよい。
だが自分たちが死に時がたてば歴史も改ざんされていくだろう。人間たちに都合のよいように。
そして今、ウロボロスのもと何とか上手くやっているエルフやハーフエルフとの関係も変わって行くのだ。
せっかく自分たちが守り、築き上げたものを残したい。
そのために自分にできる事はこうやって書を残すこと、若い後世を担う者達を教育すること位だ。
教団にとってもフレイが起こした騒動は大きな意味を持つ。
消えた神の復活。実際は存在しなかった自分たちが崇める六柱の神。
だがそれでも各教団は続いている。自分たちが信じるそれぞれの神を、そして更にその上に存在する主神を信仰すると言う名目のもとに。
聖書にもその名が出てくる偉大なる天使ミカエルが各教団のその考えを否定しなかったお陰だ。もし各教団統一などの事態となれば、どんな混乱が待ち受けていたことか。
各教団の者達もミカエルの『真の神様を至高の存在として崇めるのならば、それ以上俺からは何も言わん』と言う言葉に胸を撫で下ろしたことだろう。
その時、突然扉の向こうから声がした。
「大司教さま、お客様が……。あ!お待ちください!」
「開け、ゴマ!」
ルクスは僧兵の制止をふりきるその声にふきだした。
そうだ、あの子はこの言葉を聖なる呪文だと思い込んでいた。
今となっては大勢いる自分の教え子。その中で最も手を焼いた生徒を思い出す。
今日はやたらと彼女の事を思い出す日だ。
そう思い、扉が開く音に顔を上げた。開いた扉から入ってくるその小さな姿に思わず声を漏らす。
「神よ……」
信仰心のかけらもない自分がおかしいかもしれない。
だが思い直す。
自分へと駆けてくるこの小さい子どもこそが神なのだ。ならば神を信じるのも悪くはない。
ルクスは思わず笑みをこぼした。
***
かつての勇者、シェイド・ブラックは自宅の縁側に座って空を眺めていた。
ここは闇の大陸、魔法研究都市アンブラーだ。結婚を機に勇者を引退したシェイドは生まれ故郷である闇の大陸に身を落ち着けた。
ここを選んだのは理由がある。やはり子どものころから慣れ親しんだ文化のところで暮らしたかったのがひとつ。もう一つの理由はこの地がどこの国家からも独立した自治都市であり、教団の権力も及ばないことである。
かつてあの幼い魔法使いに話したように、自分が勇者としての役目を終えた後には大きな不安があった。人を超えた力が勇者という肩書きが、権力者たちに危険視される理由となるのだから。
だがその問題はミカエルによって解決された。
人類最強である勇者はどの組織にも所有されないし、勇者もその力を誰かを支配するために使ってはならないと。勇者の力は神に与えられたものであり、勇者は天界に属する者だとミカエルが世界中へ向けて発表したのだ。
それによって自分は自由となった。
偉大な天使ミカエルの言葉に逆らう人間もいないだろうし、もしいたらその国家なり教団は一瞬で焼き払われるだろう。
偉大な天使はある意味で魔族よりも恐ろしいのだ。
そうして自由を手にしたシェイドは妻とここで暮らし、時折ウロボロスの手伝いとして出来損ないエルフの討伐をしつつ小さな菓子屋をはじめた。
正直なところ、店などやらなくても金はあった。妻は別の大陸の豪商の娘で、多額の持参金をもってきたのだから。
でもふとあの子の言葉が蘇ったのだ。
『シェイドは勇者を引退したらお菓子屋さんをやるの!』
どう考えても店番ついでにつまみ食いするつもりで出た子どもの発想だ。
だがその言葉を思い出すと居ても立っても居られない気持ちになり、わざわざ魔界から彼女が好きだったチョコレートを仕入れてまで菓子屋を始めたのだ。
いつかあの子が戻ってきた時に二人でまた菓子が食べられるように願いながら。
商売なんてやったこともなかったが何とか続けてこれたのは幸いだ。魔界から仕入れた珍しい菓子のおかげかもしれない。
そして結婚まもなく子どもにも恵まれた。
一人息子は勇者であった父親に憧れたのか自分も戦いの道を選ぼうとした。だが残念ながら才能に恵まれなかったのだ。
勇者の能力は血筋ではない。
魔法も剣も今ひとつの息子はそれでも戦士への夢を諦めなかった。ウロボロスに所属し出来損ないエルフ達を片づけることに憧れ続けていた。
それが息子の命を奪うことになるだろうと分かっていながら、情けないことにそれを止めることができなかった。
その頃には妻が亡くなり、自分と息子の二人の関係が難しいものになっていたのもその一因かもしれない。
グレンや他のエルフと言った知り合いの戦士たちに息子を頼むしか出来なかった。
己が戦力になるどころか足手まといにしかならぬと気づいて諦めてくれるのを待とうと思ったのだ。
だが力不足を痛感すればするほど息子は戦いの道への執着心を強めた。
それを見てグレンが苦笑まじりに言っていたのを思い出す。
『父親を超えたいと思ってるんじゃない?諦めるキッカケがあればあっさり諦めそうだけどね。今は自分の努力不足としか思ってなさそうだもん』
そんな矢先に事件は起こった。たまたま遭遇した出来損ないエルフに殺されかかったのだ。
瀕死の息子を助けたのはミカエルだった。
そして息子に戦いの道を諦めさせたのもまたミカエルだった。
『お前には戦闘に関する能力が全くない。運動神経は悪く、筋力も人並み、魔力に至っては人並み以下だ。そこらのゴブリンと何とかやりあえる程度で勘違いするな。
お前をフォローして戦う連中が気の毒だ。少しは自分がお荷物以外のなにものでもないことを自覚しろ
世の中には色々な仕事があるだろう。戦うよりもいくらかマシなお前に向いている仕事を選べ』
意識が戻った息子にミカエルは、誰もが遠慮し、本人を傷つけるかもと思って言わなかったことをズケズケと言い放った。
それで息子も諦めたらしい。
もちろん落ち込みもしただろう。悩み苦しんだかもしれない。その後しばらく部屋に閉じこもっていた。
療養しながら息子なりに自分の人生を考えたのだろう。体調が戻るとすぐに妻の実家である商家の手伝いをするために闇の大陸から出ていった。
そして息子はいまだ健在の妻の父親の元、商売を学んでいる。
タイミングよくミカエルが息子を助けたのは偶然ではない。彼はずっと天界から自分たちを見守っている。
『お前に何かあれば神様が悲しまれる』と言いながら。
結局自分はあの子に守られている。
それを思うと胸が締め付けられる。
あの子は間に合うだろうか。人間である自分に残された時間は少ない。
いざとなれば自分より長く生きられるグレンに委ねなければならないだろう。
だが、どうしても自分から直接礼を言いたかった。
昔、己が勇者であるということを知ってから諦めていた人並みの幸せ、人生。
お前のおかげで幸せを得られ、良い人生を送れたと。
それだけじゃない。あの子にも普通の子どもとしての幸せな時間を与えてあげたいのだ。
寿命なき永遠の生を生きる彼女と百年も生きられない自分の生が重なるのはほんの一瞬だ。それでも、その僅かな時間普通の子どもでいさせてやりたい。
その後にあの子に待つのは神様と呼ばれる長い長い時なのだから。
だが無情にも時ばかりが過ぎて行く。
もうあれから二十五年も経ったのだ。時が経つのはあっと言う間だ。
自分ももう中年なのだから。
早く目を覚ませよ。
こっちはいつでも焼きそば作れるように準備してるんだから。
思わずシェイドはため息をつく。寒さに息が白く染まった。
そう言えばあの子にあったのもこんな寒い日だった。秋から冬へと移り変わる寒い日。
ハルピュイア討伐の謝礼を半分渡し、別れた時の事を思い出した。
金の入った袋を握りしめ、自分の後ろ姿をじっと見つめていたあの小さな姿に己の孤独を重ねたのだ。そして立ち止まった。
自分たちは似ていた。
帰る場所もなく、望みもしない役目を背負い、たった一人の存在。
だからお互いに相手に幸せであって欲しいと願うのだろう。
そんな事を考えていると突然爆音が庭に響き渡った。思わず耳をふさぐ。
何が起こったのか全く分からない。
シェイドは爆発し、崩壊した目の前の塀を呆然と見つめる。もうもうと土煙があがる中に小さな影が見えた。
影はこちらへと駆け込み激しく咳き込む。
その姿にシェイドは息を呑んだ。
咳き込んでいた彼女がシェイドに気づいて目を丸くした。そして叫ぶ。
「シェイド、ハゲてない!」
嬉しそうにこちらへと駆け寄り飛びついてきた。
「シェイド!焼きそば!焼きそば!」
シェイドは口を開いたが言葉が出なかった。
言いたいことは色々ある。
まず人の家の塀を破壊するなとか、二十五年ぶりの再会の第一声がハゲてないとは何事かとか、その次は焼きそばって……。
だがそのどれも声にならなかった。
そんなシェイドを見上げていた彼女は大切なことを思い出したような表情になる。そして満面の笑顔で言った。
「ただいま、シェイド!ただいま!」
シェイドは思わず泣き笑いを浮かべた。涙が流れるのだけは何とかこらえる。
上手く笑えているだろうか。
自分は勇者なのだ。今となっては元、だが。それにいい歳をした男が泣くなど恥ずかしい。
一呼吸おいて息を整えて、何とか答えた。
「おかえり、フィア」
「ただいま!」
あるハーフエルフの生涯は本編終了となります。読んでいただいた皆様にお礼申し上げます。
続編『神様と元勇者のお菓子屋さん』は本日より連載を開始しております。
詳細については活動報告にて。