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あるハーフエルフの生涯  作者: 魔法使い
蠢く者たち
54/86

憐憫

漆黒のインクが床へと滴る。

フィアレインは雑巾を片手に水魔法と浄化の魔法を駆使しながら、零れたインクの掃除をしていた。

ここは一行が泊まる港町の宿の一室である。先程まで聖書を片手にルクスから文字を教えてもらっていたのだ。

だがついうっかりとインク壺をひっくり返し、こんな惨状となっている。

ルクスはインクを買う為に出ていったのでフィアレインが片付けを引き受けたのだ。

やはりこの手のペンは安いがこういう事態になるから困る。実家で使っていた魔道具のペンはインクをつける必要などなかったのだ。

勿論そういうペンは人間の間でも出回っている。だが高価なのだ。

それは魔道具ではないのだが色々な技術を駆使して作られているからだ、とルクスは言っていた。

こうやって床を掃除していると母親と暮らしていた時の事を思い出す。あれからもう四年近く経った。

そんな事を考えていると、突然扉が叩かれる。誰か来たのだ。

雑巾を片手に扉を開ける。

見知らぬ中年の男が立っていた。


「誰?」


そう言えば扉を開ける前に誰か確認するようにと言われていた事を思い出す。

やってしまった。留守番とは難しい。

だが目の前の男からは敵意は感じられないので、これくらいの失敗は自分自身で大目に見る。

男は小さな子どもが出て来たことに驚いたのだろうか。まじまじとこちらを眺めている。

じっと見られ居心地が悪くなったフィアレインはもう一度男に聞いた。


「誰?」


そこで男は我に返ったようだ。

自分の役割を思い出した様に慌てて懐から何かを取り出す。

ちらっと見えたそれは手紙のようだ。


「勇者さまはどちらに?」


どうやら男はシェイドの客らしい。

フィアレインは留守番としての役割をしっかりこなすべく、男へシェイドの行き先を答える。


「シェイドはショウカンに行ってるよ」

「フ……フィア!」


よく知った声が聞こえた為、扉から顔を出し廊下を見る。

ショウカンとやらに一緒に出掛けていたシェイドとグレンが帰ってきたらしい。

何やら絶望感すら漂わせながら自分の名前を叫んだシェイド、その隣で俯いて笑っているグレン、さらにフィアレインの目の前で気まずそうな表情を浮かべる客人の男の顔をそれぞれ見回す。

何だろうか。何かまずい事を言ったのだろうか。

訳が分からず首を傾げる。

まあまあ、とばかりにグレンから肩を叩かれ呆然としていたシェイドは復活した。

目の前の男も気を取り直したようにシェイドへと歩み寄り、挨拶をし始める。

仲間が帰ってきた為、自分の留守番と言う重大な役目は終わったのだ。

しっかり客人へも対応した。相手が誰か確認せず開けたのは失策だったが……。

その後の振る舞いは完璧だ。

達成感に満ちあふれながらフィアレインは掃除へと戻る。

ルクス言う所の『大人の男の娯楽施設』なるショウカンから二人が帰って来たのだから後は任せよう。

あとはルクスがインクを買って帰るのを待つのみである。ちなみにルクスは夜、この町の神殿の者と出掛けるらしい。



一行は昨日再びこの港町へと戻って来た。

フィアレインの夢から現れた勇者の剣は話し合いの末、結局シェイドが装備している。

シェイド本人は最後の最後まで


『いやこれは見るからに妖しいだろ!』


と抵抗していたが、グレンのこれは素晴らしい剣だから勿体無いと言う言葉に押されたのだ。

正体はともかく呪いがかかっている気配もないから使えと。

更にルクスの一言にとどめを刺されてしまったとシェイドは後でかたっていた。

そう言えばルクスはシェイドに言っていた気がする。


『シェイド殿がそれを使うか使わないか決められれば良い。だが……以前から剣を使いたいと言っていたフィアの事。いつのまにやら、その剣を振り回すようになるかも知れぬ』


その言葉に首を撫で身震いしたシェイドが絞り出すように言ったのだ。


『わかった、俺が持とう』


と。かくして魔剣と呼んだほうが良さそうな禍々しい雰囲気の聖なる勇者の剣はシェイドに使われている。

ここに戻る最中魔物と戦うたびに


『この剣、変だろ!』


と顔を引きつらせながら叫んでいたが。

グレンからは特殊な魔法が付与されてるんだろうと一蹴されていた。


そんな事を思い出しながらフィアレインは町を歩く。

シェイドとグレンが帰ってきたすぐ後にルクスも戻ってきた。その後少しまた勉強して、今は休憩だ。

このところ勇者一行の懐があたたかいお陰でフィアレインにも小遣いが出ている……それがいつまで続くかは分からないが。

それに先程シェイドがフィアレインに硬貨を握らせた。


『留守番中、やってきた人に行き先まで言わなくても大丈夫だ』


と言う言葉つきで。

留守番とやらは難しい。だがこの金は留守番をちゃんとこなせた自分への褒美であろう。

そういう訳でフィアレインの懐はとてもあたたかいのだ。

屋台で買い食いしても良いが、別の使い道を思いついた。その為に町へと出たのだ。

道を歩きながら感じる僅かな魔族の気配。

あの暇人かつ性悪な魔族アスタロトはまだこの町にいる。

思わず財布を握り締めた。

フィアレインはアスタロトに金を渡し、魔界の菓子を買ってきてもらう事を決意したのだ。メフィストフェレスから奪ったあの菓子。あれを手に入れる。

ほんの僅かに残ったあれをヴェルンドにやってから悶々としたがそれも終わりである。

気配をさぐり、小さな通りへと入る。そこにはこじんまりとした食堂があった。

扉を開くと奥に目的の人物を見かける。向こうもフィアレインの接近に気づいていたのだろう。特別な反応はない。

卓に歩み寄り椅子に勝手に座る。卓の上にはまた多量の皿が並んでいる。

それにしても本当にこの魔族は暇人だ。


「何か用か?」

「うん」


フィアレインは財布を卓にのせる。アスタロトは怪訝な表情でその様子を見守った。


「あのね、これでお菓子買ってきて欲しいの」


アスタロトは財布とフィアレインを見比べる。


「菓子を?」

「うん。あのね、メフィストフェレスが」

「待て」


突然のアスタロトの鋭い制止にびっくりして言葉を止める。

まじまじと彼を見つめる。だがアスタロトはフィアレインを見ていない。

その背後を鋭い視線で見ていた。

慌ててフィアレインも自分の背後を振り返り驚く。そこにはヴェルンドが立っていたからだ。

いつの間に現れたのだろう。


「直接会うのは随分久しぶりだな」

「直接……?まさか覗いてた訳?なかなかいい趣味だ」


どうも二人は顔見知りのようだ。

ヴェルンドの皮肉をアスタロトは笑い飛ばす。

覗きの一言にフィアレインはあの変質者エルフを思い出して顔をしかめた。


「それで何用だ?」

「僕が用があるのは君じゃない、アスタロト。フィアに用がある」

「と、言っている」


アスタロトはフィアレインにそう言うと目の前の料理に手をつける。

フィアレインは勝手に食べていた魚の揚げ物からヴェルンドに視線を移した。

折角おいしい物を食べているのに邪魔しないで欲しい。ここは話とやらを聞いてやり、さっさとお帰り願おう。


「フィア、君はフレイと会ったよね」


フレイとはあの変質者エルフの名前だった気がする。

フィアレインは一つ頷いた。

淡白な白身魚を揚げたものに白いソースをつけて食べる。揚げ物の衣のサクサクした食感と魚の旨み、ほのかな酸味とまろやかな味わいが絶妙なソースにつけて食べると尚更美味しい。


「美味しい」

「旨いな。これは人間界グルメ百選に入れてやってもいい」


アスタロトと二人で頷きあう。

アスタロトは酒を煽った。その様子をじっと見る。自分も何か飲み物を頼もうか。


「フィア!」


背後でヴェルンドが叫ぶ。

何だろう。用事があるならさっさと言えば良いのに。

フィアレインは適当に頷いてやる。


「はあ……。あのね、フィア。フレイに何があったか知ってる?」


フィアレインはちょうど通りかかった給仕の娘を呼び止め飲み物を頼んだ。

そしてヴェルンドに問われた事を考える。自分は夢でフレイをやっつけた。

やはり現実の彼にも影響があったのだろう。作戦は成功だ。


「夢でやっつけた」

「夢で?」


給仕の娘が運んできたジュースを一口飲み、頷く。


「夢って……それであんな?」


あんな、とは何だろう。

言いたい事があるならもっとはっきりしっかり言えばいいのに。今一つ彼が何を言わんとするか分からない。


「あんなって何?」

「身体が……治癒してる傍からどんどん崩壊していってる。フレイ本人は何も言わないし。

君の事を話した後、自分が調べるって言ってたから。フィアが何か知ってんじゃないかと思って」


なるほど自分の行動は思った以上の成果をあげている。精神体を物理的に傷付ける術などないと言うのはただの思い込みと言う訳だ。

そうなれば夢に入ると言うのは非常に危険な行為である。普段は肉体に守られている精神体がむき出しなのだから。

うんうんとフィアレインは頷いた。


「その娘に夢の中で倒されたのが原因だろう。納得したか?早く消えてくれ。私は食事の邪魔をされるのが嫌いだ」

「納得?とうてい出来るものじゃないけど。夢の中での事が現実にまで……」

「納得しろ。世の中結果が全てだ」


フィアレインは睨み合う二人を無視して焼いた貝に手を伸ばす。


「大体お前たちエルフは勘違いが過ぎる。お前たちはこの世の神ではない」

「そんな事を思ってはいない」

「お前はそうでも、フレイはそうじゃない……私が大切に残しておいた貝のグリルが!」


フィアレインはふふんと笑う。残しておく方が悪いのだ。こういうものは早いもの勝ちである。

アスタロトに見せつけるように食べる。貝の旨みと上のソースが絶妙だ。磯の味わいを邪魔しない。

それにそんなに食べたいならもう一皿頼むべきだ。自分もまだ食べたい。

貝は二個しか残ってなかったのだ。

だがアスタロトはそんなフィアレインの思考を見抜いたように言う。


「それはな、数量限定の最後の一皿だったんだぞ……」

「残しとく方が悪いんだもん」


言い争う二人の背後から


「やってられない」


と言うヴェルンドの呟きが聞こえ、振り返ると既にそこには彼の姿はない。

どうやら帰ったらしい。


「なんだろ?」

「ただの馬鹿だ。放っておけ」


フィアレインは頷いた。

ヴェルンドは馬鹿だったのか。知らなかった。何やら残念である。

何しろ彼は一応フィアレインにとって魔法の師であったのだから。


「それで話を戻すが、菓子とは?」


アスタロトに聞かれ、フィアレインは己の目的を思い出した。

メフィストフェレスにもらった菓子の事を伝え、それを買ってきて欲しいと頼む。


「お前が言っているのはチョコレートのことか」

「チョコレート?」

「ああ。これで買えるだけ買えばいいんだな。分かった。今夜にでも届けてやろう」


あまりにあっさりと交渉が成立し拍子抜けする。

この魔族のこと、あれこれ無理難題を押し付けられる可能性を想像していたのだ。

理由は分からないが機嫌の良さそうなアスタロトを訝しみつつ、フィアレインはオクトープスの串焼きにかじりついた。



宿に戻り扉を開けた瞬間、部屋の中にいた仲間三人が勢いよく振り返った。その様子に思わずたじろぐ。


「なに?」

「いや、急に出かけなきゃいけなくなってな。フィアが戻ってこないから、三人で行こうか話してたんだ」

「間に合って良かったね」


部屋の机の上には開封された封筒と手紙がある。先ほどの男が持ってきた物だろう。


「神殿経由で頼みごとが来たのだ。この町のはずれにある洞窟に魔物がでると」

「魔物?」

「ああ、なんか神出鬼没らしくて調査隊が何度か洞窟に行っても遭遇出来なかったらしい」


フィアレインは首を傾げる。それはもう魔物がその洞窟を捨て別の所へと去ったのでないか。


「今日子どもが一人行方不明になった。過去に何人か子どもが殺され、死体はその洞窟で見つかってる。

だから今洞窟へ行けばその魔物と遭遇する可能性が高い。

神殿からの手紙では先に調査隊が入り、その報告次第で俺たちが行く事になってるんだが……」


テーブルの手紙を取りひらひらさせたシェイドは困った表情を浮かべている。


「調査隊のひと、もどって来ないの?」

「そうなんだよ。だから、もしかしたら……」


全員で黙り込む。

手紙が届けられてそれなりに時間が経っている。ここで待っていて良いのだろうか。

もっと早く出掛けるべきではなかったのか。何しろ調査隊だけでなく、行方不明の子どもの命もかかっている。

普段のシェイドならばとっくに出掛けているはずだ。

フィアレインを待っていた、という訳でないだろう。

そんなフィアレインの物問いたげな視線に気づいたのか、シェイドが苦笑する。


「実はな。これ火の神の教団からなんだ。だから、調査隊の報告が来てからって言葉を無視して洞窟に突入したら、手柄を横取りしたとか言われる可能性がある」

「でも、みんな死んじゃうよ」

「そんな賢明な判断が出来るのならば、最初からシェイド殿をこの大陸より追い出そうとはしないだろう」

「へんなの」


フィアレインの感想にルクスは苦笑しながら言った。人間とはそういう愚かなものなのだと。

黙って聞いていたグレンが窓越しに外を見て言った。


「まあそいつらが命より面子を大切にしてるのは分かったけど。それにしても遅すぎる。もう動いても文句は言われないと思うけど」

「ああ、さすがに夜まで待てないからな。フィアが帰って来たし、行こうか」


もう夕暮れ時だ。間もなく夜の闇が訪れる。

すでに三人は出発する準備を整えていた。フィアレインも特に準備は必要なかった為、すぐに出発となった。

町外れへと道を歩く。


「今回行方不明となったのは十歳の子どもだ。この町の商人の娘の子で、片親。祖父と母親の三人暮らし。朝起きたらいなくなってたらしい。神殿へは祖父である商人が知らせている」

「この魔物に殺されたのって子どもばっかりだね。それも十歳前後の子ばかり」


神殿からの手紙とやらを見ながらグレンが言った。


「魔物によっては餌とする相手を限定するものもいるからな。だがどうやって子どもたちは洞窟へと連れて行かれたのか」


不思議そうなルクスにシェイドが言った。


「もしかしたら子ども達が興味本位で洞窟に入ったのかもしれない。魔物が町の中から拉致したと思うより自然だ」

「でも、何人も死んじゃってるのに?」


普通そんな場所は恐れて近づかないのではないか。いくら好奇心旺盛な子どもでも、十歳ともなれば魔物の恐ろしさ位は分かるだろう。

この町は海からマーマンが襲ってくることもある立地だ。魔物の存在は遠い国のおとぎ話ではない。


「それを言われるとなぁ……。お、あそこみたいだな」


話しているうちに目的地へと到着したらしい。

洞窟の入り口が見える。


「ここには魔物のすみかって表札はないな」

「何いってんの、君?」

「いや、夢の話だ」


洞窟の入り口へと近づいていく。いつ魔物が出るか、分からないから警戒しながら。

フィアレインは洞窟へと入る前に一度海へと振り返った。海の遥か彼方に陽が沈みかかっている。

真っ赤な夕陽だ。

嫌な予感をこらえつつ、洞窟の中へと足を踏み入れた。


「真っ暗だな」


シェイドの呟きにフィアレインは魔法で光球を作り、彼らの傍に浮かべた。自分には必要ない。

洞窟の中は静まりかえっている。魔物の叫びどころか、その気配すらない。

洞窟の天井から水滴が地へと滴り落ちる音が響くのみだ。


「とりあえず奥へ進もう。調査隊の連中がいるかもしれない」


そんなに広くない通路を奥へと歩いていく。


「魔物の気配しないね」

「そうだね。まあこう言っちゃなんだけど、全員殺されちゃってるんじゃない?」

「とは言え、神殿への報告は必要だからな。死者を弔う必要もあろう」


その時、先頭を歩いていたシェイドが突然立ち止まった。

後ろにいるフィアレインからはよく見えないが、その先は今まで通ってきた通路よりずっと広くなっている様子だ。

血の匂いが鼻腔へと飛び込む。

立ち止まったシェイドが振り返らずに言った。


「人が何人も倒れている。多分調査隊だろうな。火の神の教団の印が見える」


そう言うと警戒しながら入っていった。全員その後に続く。

やはりそこは広間のようになっていた。その奥には今までフィアレインたちが通ってきたような通路がまた続いている。

十人ほどの男たちが倒れていた。

シェイドとルクスがそれぞれ確認してまわる。全員の確認が終わると、振り返り首を振った。

生存者はいないらしい。

全員身体中食い散らかされ、無惨な姿だ。


「子どもはいないな」

「あの先は?」


グレンが先へと続く通路を指差す。ここまでずっと一本道だった。

そうなると彼が指差す先にいるか、死体も残らぬほど食われたかのどちらかしかない。

もちろん先にいたとしても、それが死体である可能性の方が高いだろう。


「先に進む。ここに倒れてる死体を弔うのは帰り道にしよう」


シェイドがそう言い、一行は部屋の奥へ進んだ。更に先へと進む通路へ入る為に。


「なんかさっきの通路より狭いな」


確かに通路は狭くなっている。シェイドが両腕を完全に広げることは出来ないくらいの幅だ。

身体の小さい自分ならまだしも、長身の彼ら三人には狭かろう。


「こんな狭いとこで魔物に襲われたらたまったものではないな」

「そう言うな、ルクス。また広い所に出るぞ」


シェイドの言葉に全員気を引き締める。気配はないが次こそ魔物が現れるかもしれない。

次の間は先ほどに比べると若干狭い広間だ。

警戒しながら中へと入った一行は立ち止まる。視線の先には少年が一人倒れていた。

その身体は血まみれであるが、僅かに動いている。これが行方不明の少年だろう。

シェイドが駆け寄ろうとした瞬間、少年は慌てて起き上がり一行を見た。血まみれの顔から乾いていない血が滴り落ちる。

少年のその目に浮かぶのは恐怖だ。


「大丈夫か?俺たちは……」


だがその時少年は思わぬ行動に出た。

その場の奥には通路と言うにはあまりに狭く高さもない穴があった。彼はそこへと駆け寄り、その穴へと潜りこんでいった。


「え?ちょ……ちょっと待てよ!」

「元気そうだね」

「いやいや、フィア。そうじゃないよね」


フィアレインは首を傾げた。

血まみれの割りに少年は元気そうでないか。動けないほどの怪我かと思ったら、そんな事はない。

素早い動きで自分たちから逃げたのだ。

シェイドは少年が消えた穴へと近づき調べている。


「また随分と小さいな」


ルクスがため息をついた。ここに入る事を想像したのだろう。


「フィアが行く」


フィアレインの言葉に三人が振り向く。

この小ささだ。仲間たちが這って行くのは一苦労だろう。


「大丈夫か?」

「うん」

「まあ子ども同士の方が警戒されないかも知れないしね」

「やばかったら転移で逃げてこいよ」


仲間たちの言葉に頷いて、穴へと近づきその中へと入った。

入り口の高さは低い為這って入る為に必要があるが、はいってしまえばフィアレインがじゅうぶん立てるくらいの高さはある。

先をみれば少年が奥にある穴から這い出ようとしている。慌てて走って後を追った。

少年が穴の向こうへと姿を消した。急がねばならない。

奥まで駆けて、自分も穴から這い出る。現れたフィアレインを少年は振り返った。

そこは小さな部屋のようになっており、行き止まりだ。これ以上逃げられまい。


「死にたくない……」


歩み寄るフィアレインの顔を見ながら、少年は首を振る。


「フィア、魔物じゃないよ」


半分は魔族だが、この際それはどうでも良い。さらに近づくフィアレインに少年は怯え後ろに下がる。

だが背後は岩の壁だ。逃げる場所はどこにもない。


「迎えに来たんだよ」


フィアレインは少年の前で立ち止まり、その顔を下から覗き込む。

十歳と聞いていたが随分と自分より大きい。いや、相手は人間だ。自分より成長が早いのである。

自分は大人になるのにあと二百年近く必要だが、彼はあと数年で大人なのだから。

だから自分の小ささに落ち込む必要はないのだ。

そう自分へと言い聞かせた。


「死にたくない」


また少年は同じ事を繰り返す。恐怖のあまりおかしくなったのかも知れない。無理矢理転移で連れて行こうかとフィアレインは思い、彼の顔を見て気づく。

彼の顔に先ほどまであった傷が消えている。そこには血がこびりついているだけだ。

思わず少年の全身に視線を走らせる。

浴びている血液の割に服から除く手足に外傷は見られない。


「死にたくない……」


震える少年の顔を再び見て、フィアレインは凍りついた。

少年の青かった瞳が真紅へと変わる。丸い瞳孔が縦に伸びる。

その瞳はまさしく自分の持つそれと同じもの。


魔族の目だ。


フィアレインは悟る。

今まで被害にあった子供たち。先ほど見た神殿の者たちの死体。そして行方不明になったにも関わらず無事だったこの少年。

少年は激しく首を振り、泣き叫ぶ。


「死にたくない……じにだぐない!おがあさーん!おがあさん!だずげで……」


叫びながら少年はその姿を人ならざるものへと変えていった。

フィアレインは呆然とその様子を見つめる。

この少年が友人である子供たちをここへ連れ込み餌としていたのだ。

少年の目は限界まで見開かれ、涙を流す。顔を赤く染めていた血を涙が洗い流していった。

彼の震えが止まった。その途端少年の背がぱっくりと裂け、そこからいくつもの黒い触手が飛び出してくる。

フィアレインはとっさに避けた。触手が地に叩きつけられ石礫が舞う。


「しにたくない……じにだくないよ」


少年はよろよろとフィアレインに近づいてくる。だが真近に寄られるより前に魔法を放った。

いくつもの雷撃が落ちる。

そのうちの一つは少年の足を貫きその歩みを止め、残りは背中の触手に命中した。

黒い触手が蒸発する。先ほど中の赤い肉を見せながら開いた背中がゆっくりと閉じていく。

少年はその場に倒れもがいた。


「いだい!いだい!だずげで!おがあざん!だずげで!おかあざん!」


母を呼び、泣き叫ぶ少年を見下ろす。

フィアレインは悩んでいた。どうすれば良いのだろう。

この洞窟に現れる魔物とはこの少年のことだ。間違いない。

ではこの少年は何者だろう。

ふとフィアレインは砂漠の地底で会った白い化け物を思い出す。かつて人であったというその化け物は、人と魔族の間に生まれ突然姿を変えたと言っていた。

この洞窟まで歩く最中にシェイドはいっていた。少年は商人の娘の子で、片親だと。

もしかしたらこの少年は魔族との混血なのかもしれない。それならば説明がつく。

この歳で魔族と契約したとは思えないし、もし万が一契約していたとしても己の変貌を受け入れているのでないか。


「だすけで……だずけて……」


少年に足を掴まれ、はっと我にかえる。

憐れむのは失礼かもしれないが、フィアレインは彼を憐れに思った。生まれたくてそんな身に生まれた訳でない。

それは自分とて同じだ。

正体は何だと問われても自分は自分だとしか言えない。だってその様に生み出されたのだから。


「しにだくない……」


涙と涎を流す少年へ屈みこむ。

この少年はまだ理性が残っている。でもこのままだといずれ理性を失い、人の血肉を求める化け物へと完全に変貌する。

人として死なせてやれ、と言う声が自分の中で聞こえた。

あの白い化け物は苦しんでいたでないかと。

だが少年は死にたくないと言うのだ。

フィアレインは少年へと尋ねた。


「このままだと完全に化け物になっちゃうけど。死にたくない?」


少年はすぐ近くにあるフィアレインの顔を見上げ激しく頷いた。

彼の涙が地へと落ち、黒いシミを作る。

フィアレインは自分の取るべき行動を考えながら、じっと少年の顔を見つめていた。

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