魔に堕ちる者 2
ゴシゴシと手で目を擦る。
そして再度湖面を覗き込む。
やはりそこに映っているのは自分の顔ではない。アスタロトであった。
それも何やらしてやったりと言わんばかりの顔が腹立たしい。
フィアレインは無言で立ち上がる。そして踵を返した。
「フィア、なんか疲れてるみたい……」
一人つぶやき泉に背を向け、大神殿への道へ進む。
「ちょ……ちょっと待て!その反応は想定外なんだが!」
はしっと襟首を掴まれる。まるで子猫が母猫に連れていかれるかのように。
さすがに首が苦しい。転移魔法でアスタロトの背後へと移動した。
「何か用?」
「素っ気ないな」
「暇なんでしょ?」
「否定はせん」
敵意も殺気もないから殺されるとは思わないが、何しろ相手が相手である。
勝手に暇つぶしの相手にされた挙句お前の話はつまらん、死ね、とか言われて殺されたりもあるのでなかろうか。
そんなのはゴメンである。
「ここは気に入ってるんだ。いい場所だ。だからあいつを放し飼いにしたんだが……」
残念ながら殺されてしまった、またペット飼わなきゃな等とブツブツ言っている。
「あっそ」
「え……?それだけ?突っ込むところは満載だろう。
聖なる泉を堕天使が気にいるなんて、とか!
ヒュドラがペットとか変、とか!
あまつさえそれを放し飼いにするなんて、とか!」
「個人の趣味」
何やら思い通りにならず落ち込むアスタロトに、ペットという単語を聞いて浮かんだ疑問をぶつけた。
「名前……」
「は?」
「だからヒュドラの名前は?」
ペットと言えば当然名前があるはずだ。ヒュドラとは種の名前であり、個の名前でない。
しかもあのヒュドラは首が二十もあったではないか。
と言う事は、それぞれ名前がついてるのだろう。
はたまた胴体は一つだから名前も一つなのか……。
なかなか興味深い話である。思わず身を乗り出し瞳を輝かせアスタロトを見つめた。
期待に満ちた瞳で見つめられたアスタロトと言えば、何やら口ごもっている。
「な……名前は……」
「名前は?」
「……ない」
「最っ低」
「いやいや、お前の突っ込みどころの訳の分からなさに比べれば……って、どこへ行く?」
聞かれるまでもない。
帰るのである。
ヒュドラの名前は首ごとに付けられるのか、はたまた全てひっくるめて一つの名前なのかと言う疑問が晴れなかったことに落ち込んだのだ。
「帰る!」
「ま……まあ、ちょっと待て!まだ早い」
フィアレインは足を止め、なにやら暇つぶしの玩具に逃げられそうになって焦っている堕天使に振り返る。
そして今更ながら思い出す。これはちょうどいいタイミングでないか。
「あのね……えーっと、ゲティ……何だって、ゲティング?ゲティ何とか……」
だが残念ながらその時にはフィアレインは肝心の公爵の名前を忘れてしまっていた。
どうでもいいことは覚えないのだ。
人間の国の王族だの貴族だのは所詮お山の大将。猿山のボス猿のほうがまだマシだ。
「ゲティングズ公爵か?」
「そうそれ。知ってる?契約して手を貸してる?」
アスタロトは何やら意味ありげな笑みを浮かべた。
「さあどうだろうな。
知っているかもしれないし、知らないかもしれない。
もしかしたら契約してるかも知れないがしてないかも知れない」
「うん、まあどうでもいいんだけど。
フィア達、これから多分ゲティングズ公爵のとこに行くの。
その時邪魔しないで欲しいの。
魔界に帰って」
「どうでもいいって……まあ良い。
何故そんな事を頼む?」
「だって戦うことになったら、フィア達みんな死んじゃうじゃない。
シェイドやルクスが死んじゃうの嫌だもん」
「ほう?
では逆に聞くが、もし私がゲティングズと契約していたとして、お前たちと奴がもめた時、私が力を貸さねば奴は死ぬだろう。
なんせ相手は勇者に精鋭の僧兵だ。そもそも魔族と手を結びし異端者には死あるのみ、だからな。
奴だけでない。奴の家族も配下もだ。皆死ぬことになるだろう。
お前はそれをどう思う?」
「魔族と手を結んだ異端者は死あるのみ……」
思いがけない一言に胸が痛む。
では自分と一緒にいる人は?自分と一緒にいると言うだけで被害を受けるのだろうか。
彼らに与えられる居場所やその優しさに報いたいと思い、役に立ちたいと願うことすら迷惑となるのだろうか。
思わず黙りこんでしまう。しばらく悩み、そして顔を上げた。
目の前の男がさぞかし人を不愉快な気分にさせる馬鹿にした笑いでも浮かべているだろうと思いながら。
だが予想に反してアスタロトは笑ってなかった。
笑いも憐れみもない静かな瞳でじっと見つめていた。
「フィアね。はっきり言って、他の人とかどうでもいいの。
シェイドとルクスは死んで欲しくない。
でもアスタロトが言った他の人たちは、酷いかもだけどどうでもいいの」
シェイドやルクスは自分と同じようには思わないかも知れない。
だとしたら、彼らのこともそんなに悪くはしないのでなかろうか。
もっとも自分にとっては、どちらでもいい事だと思う。
重要なのは自分にとって大切な二人が死なない事だ。
アスタロトはすこし笑い、赤い瞳にかかった前髪を払った。
そして唐突に話を変える。
もしかしたら今までの話と関係あるのかもしれないが、フィアレインには分からない。
「人間の悪意とは醜悪だ。
我々魔族は破壊を本能とするが、それは人の悪意の醜悪さとはまた別のもの」
まあそれを眺めるのはなかなか良い暇つぶしだが、とアスタロトは付け加える。
「でも仕方ないんじゃない……?
人間は弱くて百年も生きられないし、衰えてすぐ死んじゃう生き物だから……」
「なるほど神の罪であると」
「そこまでは分からないけど」
「そうか……なるほど、面白い話を聞いた。
折角だから、あのお方にもお聞かせしよう。喜ばれるだろう」
そう言うなり、魔界へと空間を開く。
その黒い瘴気の渦巻きの中にアスタロトが消えようとした時、我に返った。
このまま帰られては困る。
自分の要求の返事をしてもらってないのだ。
慌てて走り寄りその背中に飛びかかった。しっかりとしがみ付く。
ここで逃げられたら、この堕天使の暇つぶしに付き合った時間が無駄になるでないか。
「おわっ……」
突然の背中の重みにアスタロトはよろめく。
予想外の攻撃にたじろいだようだ。
木にしがみ付く虫のような態勢が仕方ない。
「さっきの返事!ちゃんとしてから帰って!」
「何だ……ああ私と戦いたくないから出てくるなと言う話か?」
「そう、それ!」
やれやれとアスタロトがため息を吐く。
「一つ教えておこう。
たとえ契約があるとて、人間風情が私を奴隷のように使えるなど思い上がりだ」
「どういうこと?」
「さあな。言えるのは、お前の希望は叶えてやれると言うことだ。
なかなか面白い土産話をあのお方へ出来る礼でもあるが、何より我々にも色々と制約があってな。
私もあのお方の逆鱗に触れたくはない」
「それは……今後も戦うことはないってことなの?」
「さぁな。それは分からん。
それにもう一つ教えておいてやろう。
今回私と戦うことがなかったとして、お前たちが生き残れるかはまた別問題だ」
意味ありげに笑うアスタロトに更に質問しようとしたが、彼は背中に手を回してフィアレインを引き剥がした。
そしてポイッと放る。
悪趣味な堕天使はわざわざ泉の中に放り込んでくれた。
それも冬の寒さの厳しい冷たい泉にだ。
慌てて泉から顔を出した時、そこにはもうアスタロトの姿はなかった。
***
フィアレインは魔法でずぶ濡れの身体や服を乾かし、大神殿へ戻った。
そしてシェイドとルクスを呼び出し、アスタロトと話したことを伝える。
「なるほどな。
とは言え、アスタロトとの対決はなくなっても油断は出来ない。何か罠があるかもしれない」
「そうだな。
アスタロトの反応からしてゲティングズ公爵に関わっているのは明らかであろう」
「公爵も全力で俺たちを排除しようとするだろうし……。
しかし魔族とまで手を組むとはな……」
「まあ世界には破壊の神を信仰する人間もいると言う位だ。
それよりも、フィアがアスタロトと会って話したことは猊下にはお伝えしない方がよい」
ルクスの指摘にシェイドは頷く。
今の光の法王は魔族だけでなく、異端者にも厳しいと言う。
光の神の教団が勢力を持つ地域では破壊の神を信仰するものは少ない。
それは徹底した異端者への対抗措置にあるとのことだ。
今回同行する部隊も対異端者の特別な部隊に決定しているらしい。
早速明朝には出発がきまった。
***
ゲティングズ公爵領への道のりは楽だった。
相変わらずフィアレインはシェイドと一緒に馬に乗っている。
魔物は先導する騎馬兵が片付けてくれる。馬に乗ったまま戦う彼らに感心した。
シェイドが言うには馬に乗ったまま戦う技術は、なかなか難しい戦闘技術だそうだ。
人間同士ならまだしも、魔物はまず馬から喰らおうとしたりするから尚更だと。
かなりの速度で一行は進んだ。
途中の街では現地の神殿に、神殿のない場所では宿などに泊まったが、どこでも歓待された。
マルクト王国は昔から教団本拠地があるだけあって、敬虔な信徒が多いと言う。
果たしてそうなのだろうか。それだけではない気がする。
「異端者って呼ばれたら大変なことになるからじゃないの?」
「それは言わない約束だ」
などと他の者に聞かれては困る話をルクスとコソコソしたりしながらマルクト王国の国境へ進む。
ゲティングズ公爵の領地はイェソド帝国との国境。
公爵領の本邸のある街からさらに国境へ向かう街道が殺人事件の現場だ。
まず一行は公爵を訪ねる予定となっている。滞在先はその街の神殿だ。
再三の事件への介入を断られ、大神殿へ報告してきた神殿である。
公爵家の本邸がある街までは間も無くだ。