魔に堕ちる者 1
用意されていた桶の水で顔を洗う。
さすがにもう冬だ。水が冷たい。
「ううっ」
あまりの冷たさに身震いする。
こんな事なら使う前に火魔法でぬるま湯にするべきだった。
とは言え、あまり寝起きの良くない自分にはこれ位冷たい方が目が覚めて良いのかも知れないが。
フィアレインは少年が着るような動きやすい服装に着替えた。
そして鳥の巣のようになってしまった髪を梳かして、革紐を使い結んだ。
以前あまりに寝癖でグチャグチャの髪をしていたらシェイドから
『鳥が住みつくぞ』
と注意されたからである。
身支度が終わったので、椅子に座って待つ。
間もなくシェイドかルクスが迎えに来るはずだ。朝食を食べに行くために。
先ほど大神殿の刻を告げる鐘の音を聞いて飛び起きたのだ。
魔力を持つものは、自分の魔力で刻を知れる。だが魔力がない者はそれが不可能だ。
だから人間は教団の鳴らす鐘の音で刻を知るのだと言う。
昨日は昼前に転移魔法で王都から、ここ大神殿に戻ってきた。
シェイドとルクスはすぐさま法王の元へ向かい、なかなか帰って来なかった。
夕食時にやっと戻ってきたが、大食堂で他の聖職者たちに囲まれて食事をするはめとなり、特に詳しい話は聞けていない。
もっとも自分としては、彼等の迷惑とならず、その役にさえ立てれば良いのだ。
あまり人間社会の細かいことは分からない。
扉を叩く音がし、シェイドが顔を覗かせる。
「おはよう。フィア、俺の部屋に来てくれないか。
朝食はそっちだ」
「うん」
フィアレインは勢いよく立ち上がる。
またあの静まり返った大食堂で食べるのかと少し重かった気分が軽くなる。
ぴょこぴょこと軽やかな足取りでシェイドの後を追い部屋を出た。
朝食は簡単な物であったが、焼きたてのパンがとても美味しい。
やはりパンは柔らかいのが一番だ。何個でも食べられる。
この神殿のパンはほのかな甘みも感じられるのだ。
温かいミルクに蜂蜜を加えた飲み物も甘くて美味しい。パンにぴったりだ。
「そういえばいつまでここにいるの?もう出発するの?」
「今ちょうど法王と相談中だ。
いろいろあってな」
シェイドは水を一口飲んで、ため息をついた。
気になることとは何だろう。
また何か厄介事だろうか。
「いろいろって?」
「アスタロトが王妃の元へ現れた理由だ」
フィアレインは首を傾げる。
理由は契約する為ではないのだろうか。
腑に落ちないという顔を見て、ルクスが説明してくれた。
「知っての通りアスタロトは魔界にいるはずの存在だ。
魔界の高位魔族を呼び出し契約するには贄がいると言い伝えがある。
だが王妃が贄を使って悪魔を呼び出すような儀式をしていたという報告はなかったのだ」
「ま、あくまで言い伝えであって真相は分からんが。
とは言え、たまたま絶望に沈んでいた王妃の元に現れたって言うのも不思議な話だ」
絶望に沈む人間の元を巡回してまわるほど暇なのかも知れないと、フィアレインは思ったが黙っていた。
シェイドもルクスも寿命があり百年も生きられない身だ。
寿命のない者の価値観はなかなか理解し難いだろう。
だからとりあえず頷く。
「ふーん」
「だから猊下は何者かに呼び出されたアスタロトが目的を持って王妃へと近づき、契約することになったと考えてるらしい」
「ちょうど我々が不在の時に不審な殺人事件の報告が地方の神殿から来ていてな。
その事件とアスタロトの出現が関係あるのではとお考えなのだ」
「アスタロトが人を殺してるってこと?」
「いや、もしかしたらそれもあり得るかも知れんが……。
猊下のお考えは違う。今回の王の死亡で王族は全員いなくなったのだ。
相次ぐ王族の不幸、それにより権力を得る者、その者の領地で起こるおかしな殺人事件。そしてアスタロトの登場だ」
パンをまた一個取り、千切った。
やはり美味しい。バターを塗ってもいけるが、チーズもなかなかだ。
「今回の王の死で王位を手に入れるのはゲティングズ公爵だ」
「ゲティングズコーシャクって?」
「ゲティングズ公爵は先王の弟だ。王家の人間が誰もいなくなった今、彼が第一王位継承者なのだ」
「猊下は公爵が殺人事件で殺した者を贄として、アスタロトを呼び出したと考えたらしい。
そのアスタロトを利用し、邪魔者を消したと。王妃はそれに巻き込まれた形だと」
どうやらシェイドはその意見に賛同しかねるらしく、苦笑している。
フィアレインも同感だ。
大体贄を使わなければ高位魔族を呼び出せないというのが事実かも分からない。
暇つぶしなどと言う名目でその辺をプラプラしているのかも知れないのだから。
「公爵が私兵を投じているのに、殺人事件は収まらず被害者の数は多大だ。
だが公爵は教団兵の介入を拒否した」
「考えようによっちゃ、かなり無理やりなこじつけにも思えるからなぁ。
俺としてはすぐには支持しかねるんだが」
「王位への執着心と言うのは恐ろしいものだぞ」
ルクスは笑いながらシェイドに言う。
古来より王の座を巡って親子兄弟での殺し合いなど珍しくはない。
法王がゲティングズ公爵に疑念を持つ理由をルクスは語り始める。
そもそもアスタロトの事がなくとも、先王と王太子の死には不審な点があったと言う。ラルヴァの一件までは、今回亡くなった王に法王は疑いを向けていた。
とは言え、ただの継承権争いならば教団が関与すべきでなかったので静観した。
「先代の国王陛下が亡くなる直前に、健康で病気と言う病気もしたことがない王太子殿下が亡くなられた。
その時には暗殺説もあった程だ。
だが毒も見つからず、後を追うように先王が亡くなられてしまった。
そこで今回亡くなられた陛下が即位なされたのだ。
だがそれも半年でお亡くなりになってしまった。王妃も王の庶子と言われていた男児も。
そして、その男児の母親は誰かに唆され騒動を起こした可能性がある。
陛下の即位直後でもない中途半端な時期に現れたのだから」
「不幸続きな訳だな」
「そうだ。そしてゲティングズ公爵領内の殺人事件が起こり始めた頃と王家の不幸が始まった時期はどちらも半年程度前からだ」
何やらフィアレインの知らない単語が聞こえる。
デンカとか何だろう。そう言えば、あの死んだおじさんもヘーカなどと呼ばれていたが。
あだ名か?
パンを噛みながら頭を捻る。
「猊下は俺たちにゲティングズ公爵領へ殺人事件の調査に行ってほしいらしいんだ」
「でもシェイドは気が進まないんでしょ?」
「そうなんだ。だからまた猊下と話さないといけない」
「まあ、間違いなく行くはめになると思うが」
「ふーん。でも、もしアスタロトが関係してたらどうするの?戦う?」
沈黙がおりる。
フィアレインは昨日も考えた事を思い出す。
間違いなく今の自分たちではアスタロトには勝てない。負けるのが目に見えた戦いをするのだろうか。
そのゲティングズ公爵とやらがアスタロトと手を結んでいるなら、それが露見し追求された時にアスタロトに頼るのは目に見える。
二人が黙ってしまったので、フィアレインは今度は卵料理に手を出した。
キノコと燻製肉を入れて焼いた料理で、これは火の通り加減が絶妙だ。
ミルクか何かを加えたのだろうか。口当たりも滑らかでトロリとしている。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが部屋に響く。
しばらく沈黙が続き、やっとシェイドが口を開いた。
「俺は無謀に挑んで死ぬことは望まない。でも魔の者に罪なき人間が殺されていくのを見て見ぬ振りは出来ない。
自分の目的の為に魔の者の力を使う人間はもはや人である事を捨てた化け物だとも思う。
それを見過ごしてはならない」
ルクスも頷く。
「だから、考えよう。
何か策はないか。力をかしてくれ。
まあ一番はアスタロトが公爵と無関係であってくれることなんだがなぁ。
本音を言うともう二度とあいつには会いたくない」
フィアレインもまた頷いた。
「魔界に帰って下さいって頼んで聞いてくれたらいいのに」
「全くだな」
三人は思わず笑う。そんな物わかりのいい魔族がいたら助かるのだけど。
***
三人は朝食後も話し合った。
まずゲティングズ公爵の元へは三人だけでない、僧兵の一部隊が赴くという。
これは公爵に対しての神殿から牽制だと言うのだ。
マルクト王国の国民の殆どがそうであるように公爵も光の神の信徒である。
この国において教団の存在は軽くない。もし法王から破門になどされれば、国民はおろか貴族たちにも背を向けられる。
介入を拒む公爵へ破門をちらつかせながらでも調査を行うつもりなのだ。
その為ある程度の規模での派兵である。
だが今回、もしアスタロトが関係してるならどんな大軍も意味はない。
城で衛兵はおろかルクスまで昏倒させられたではないか。
もしかしたら、フィアレインやシェイドすら昏倒させられるかもしれない。そうなれば即、死である。
こういう時はタイミングよく闇の神の守護などあるのでないかと聞いてみれば
「夢にも現れねぇ。何の為の加護だ!」
と肝心な時に使えないと、シェイドが忌々しげであった。
やはりそんなに都合よく神様は現れないらしい。
現状の戦力では無理、神様もあてにならない。
下手な小細工でどうこう出来る実力差ではないだろう。
となると、助っ人を呼ぶくらいしか思い浮かばない。
とは言え高位魔族を倒せるような存在……。
そこまで考えると、フィアレインは適任者を思い浮かんだ。
ヴェルンドである。
エルフの、それも混沌より生まれし始まりのエルフ。
彼らは主神と長きに渡り戦争をしていたような存在だ。彼らからすると主神も自分たちと同じ混沌より生まれた存在で、ちょっと先に自我を持ったからと言って偉そうに、位の存在なのだ。
その主神の創造物である堕天使一人くらい容易く倒せるだろう。
だが、彼の時折冷たく光る瞳を思い出し躊躇する。
母は憎まれていた。では自分は?
今更突然会って助けて欲しいと言って協力してくれるのか。それも人間のために。
基本的にエルフは自分たち以外の種族は虫ケラくらいにしかおもってない。
そんな者たちの為に力を貸してもらえると思える程、フィアレインはヴェルンドを信じてはいないのだ。
となると、やはりアスタロトに頼む他ないのだろうか……。
どう考えても現実的ではないが。
とりあえずヴェルンドの事はシェイドとルクスには言わないでおいた。
下手な希望を持たせるのも悪いし、自分も今のところ彼に頼る気はないのだから。
答えの出ない討論を繰り返し、さすがに三人とも疲れてしまった。
そこで少し休憩することとなる。
フィアレインは少し外の空気を吸いたくなった。
一人で散歩に行く、と伝えると意外にもルクスは裏手の聖なる泉へ行ってはどうかと勧めてくれた。
本来聖職者しか入れない区画であるが、特別に入れてくれるという。
折角なのでお言葉に甘えて行くことにした。
聖なる泉レルネーへの道を進む。
ヒュドラ討伐以来であるが、泉までは一本道で迷うことはない。
あの時のような雰囲気はなく、長閑である。
泉にたどり着き、畔に腰掛ける。
さっきからずっと難しい事を考えていたから疲れてしまった。
「大人しく魔界に帰ってくれたらいいのに」
思わず文句が出る。手を泉に入れようと身を乗り出して凍りつく。
湖面に映るのは自分の姿ではない。
先ほどから三人の頭を悩ませる、黒髪に赤い瞳の堕天使の姿がそこにはあった。