ロリス・クライン 4
昼間はそれなりに人通りもある通りだが、夜にはそれもまばらになる。繁華街でも無いんだ、それが当たり前。
そんな通りの一角に僕は息を潜めていた。羽織った薄手の外套は、秋の夜の寒気を防ぐには十分だ。
(気が重いです)
だが身体とは裏腹に心が冷たい。これから自分がやらねばならないことは、けして楽しくはない。
うん、除霊はいつだって楽しくは無いんだけど、今夜はいつにも増して気が進まない。
止めろと自分に呼びかける。考えるのは止めろ、と。考えたって、悩んだってやるんだろ。優秀な退魔師のロリス・クラインは。
昼間の調査の後、必要な事前準備は施した。それが何のためなんて分かり切っている。あの犬の霊を除霊するため。奴の目的を妨げるため。
どんな理由があっても、やらなくっちゃいけないんだ。
そう自分に言い聞かせた時、うっすらと靄が湧いてきたことに気がついた。夜の闇の底を這うように、白い気体がゆるゆるとその密度を増しながら一箇所に集まっていく。
四つ角の丁度真ん中あたり、そこに仲間を求めるように靄が集まっていた。それが徐々に犬の形を成していく。
ああ、やっぱりな。昨日戦った犬の霊だ。ピンと伸ばした耳に見覚えがあるし、僕のレイピアで傷つけられた前脚の傷もある。
やっぱりここだったんだな。君が死んで......霊になった場所は。
「今晩は、昨日ぶりですね」
隠れていた場所から乗りだしながら、声をかけた。
犬の霊はビクッと身体を振るわせてこちらを見る。まさか、あっさり見つかるなんて思っていなかったのだろう。
それとも、昨日対峙した人間とまたもや出くわすとは予想していなかったからか。
それも自分が事故死した場所で。ああ、でも死んだのは君だけでは無いんですよね。
身を縮めて躍りかかろうとする犬の霊に、僕は声をかけた。
「ナッツ」
その一言に、犬の霊の動きが止まる。僕に敵意を剥きだしにしていた目は戸惑いを隠せないように揺れ、唸り声は弱々しくなった。
「今日知りました。君がボドウィンさんを狙う理由です」
傍から見ると僕の様子は変だろうな。何やらよく分からない白い煙の塊に、ぶつぶつ話しかけているんだから。霊の姿は一般の人にははっきり分からないからな。
そうか。今、君の姿を認識出来て......名前を呼んであげられるのは、僕だけなんだ。
そう思うとジワリと胸が痛い。ナッツと僕が呼んだ犬の霊は、尻尾を動かしながらこちらをジッと見ている。警戒はしているようだが、敵意はなさそうだった。
「ナッツでいいんですよね、君の名前。子犬の時にこの近くの孤児院で拾われた時に、胡桃みたいなクリクリした目だったからそう名付けたと......聞きました」
聞いたのはつい半日ほど前だ。ディストさんがくれたヒントに基づいて、一ヶ月ほど前のひき逃げ事件を調べた。
事件がある度に駆り出される兵士がぼやきつつも語る内容を思いだし、そこに事件発見者の情報を加える。
イメージに過ぎないが、多分--あの日はこんな情景だったんじゃないか。
雨の夕方。視界は悪く、急いでいたのか馬車は相当なスピードで走っていたらしい。
急に横から飛び出した子供を避けようとしても、間に合わなかったのだろう。その子供を守ろうと前に飛び出した一匹の犬には、果たして気がついただろうか。
短い悲鳴が雨の中に響く。流れる血は赤く、それが雨に溶けていく。一人の小さな命が消えていき、それを守ろうとした勇敢な一匹の命もすぐにその後を追った。
馬車から人が下りる。商人なのだろうか、やや太り気味の身体を豪華な服に包んでいる。
「ど、どうなさいますか、旦那様」
「ええい、私は急いでいるんだ! 早く馬車を出せ! こんなみすぼらしいガキと犬一匹、死んでも構わんわ!」
ナッツ、君は消えていく意識の中でその声を聞いたんだろう。
雨が降りはじめたから、君と君の小さな友人は急いで孤児院に帰ろうとしていたんだろ。そんな君達二人をひいた人間の姿を、その目に焼き付けたんだろう。
魂の底まで、君はその声の中の醜い自己保身の響きを刻み込んだのだろう。
そして馬車は遠ざかる。雨の四つ角に一人と一匹の遺体を残して。
「雨が物音を掻き消し、視界も悪かったのでしょう。事件現場を目撃した人は誰もいません。少し後になって、ナッツ、君と君の友人の遺体が発見された。周囲に残った馬車の轍から、不幸なひき逃げ事件として処理された」
僕の言葉は犬の言葉じゃないから、君に届いているだろうか。分からない、分からないけど、話さずにいられなかった。
「子供と君が付けていた名札から、君達が住んでいた孤児院が分かりました。そこを管轄するシスターが君のことを教えてくれました」
ほんの小さな子犬の時に拾い、ナッツと名付けたのは自分でした。
話の最後に、シスターはそう悲しそうに付け加えた。ボドウィンさんの名前は出さないまま、ただひき逃げ事件の犠牲者にご冥福をという名目で訪ねた僕は「そうでしたか」と言うしかなかった。馬鹿みたいだな。
こんなこと知っても、何にも解決しないのに。
関係者の心は救われるのか。
飛ぶ鳥を落とす勢いのボドウィン商会と、国の援助でひっそりと存在する小さな孤児院。仮に真実が明白になったとしても、世間がどちらに味方するかなど。
目の奥が熱くなる。
僕は、今更、何のために何をしている?
子供の命を身を張って守ろうとした犬が、これで救われるのか。全てを知った気になった単なる自己満足じゃないのか。
白い犬の霊--ナッツは動かない。僕の言葉が届いたのかどうかは分からない。けど、そうであって欲しかった。
「ナッツ、君の気持ちは理解出来ます。ボドウィンさんを探しだして、何とか復讐したかったというのも分かります」
ボドウィンさんの名前を出した途端、ナッツが唸った。グルルと低い唸り声が牙の間から漏れる。
どうやって犬の身でボドウィンさんを探し出したのかは分からない。撥ねられた時に僅かに嗅いだ匂いなどを手がかりにしたのだろうが、相当困難だったはずだ。
だが、捨てては置けなかったんだろう。
理不尽な事故を許せずに。心ない人間を許せずに。
雨の中に打ち捨てられた友達を、自分を見捨てていった罪を見逃せずに。
「ナッツ」
たまらず叫んでいた。白い煙を凝固させたようなナッツは、もう生前のようには行動出来ない。食事も睡眠も不要ということは、それらの楽しみが無いということだ。
普通の人間にはナッツの姿はきちんとは見えず、認識してもらえない。
アウーン! とナッツが吠えた。その吠え声も事前に僕が張った消音結界に吸収される。
誰にも気がついてもらえず、寂しかっただろうに。もう誰にも頭も撫でてもらえず、遊んでくれもしない。
ズシャリ、と奇妙な音を立てながら、ナッツがこちらに進んできた。僕がまだ立ち塞がるのを見て、痺れを切らしたようだ。
大人しくこのまま除霊を待ってくれる、なんて幸運は叶わなかったかな。
体の色を徐々に赤黒く染め変えつつ、ナッツが僕を見る。その目はまだ復讐に燃える怒りと、それを上回る哀しみに満ちていた。退けよ、と言うようにナッツが軽く威嚇の声をあげる。それに対して、僕は無言で呪符を武器化しただけだ。
右手に現れたレイピアが月光を弾く。歯を食いしばる。そうでもしないと、ナッツを通してしまいそうだった。
退魔師の能力の一つに、注意を傾けている霊の思考を読む能力がある。いつも上手くいくわけじゃないけど、漠然と何を考えているのかくらいが読めれば、相手の正体を掴む手がかりにはなる。
だから、ナッツの心が--あの時、一緒に撥ねられてしまった子供への思慕と、もう二度と会えないんだという歎きが--僕の決意を鈍らせようとする。
通せというようにナッツは睨み。
それを鋼の決意で僕は退けた。
「君の復讐を遂げさせる訳には行かないんです......君が仮にボドウィンさんに、何がしかダメージを与えたとしても。あの子は帰ってきません。それに、君はどんどん生者を襲うことに味を占め、本物の邪霊になってしまう」
アオオォオ! とナッツが吠えた。
何故だ、と叫ぶように聞こえ、耳を塞ぎたくなる。赤黒い体からは怒りにも似た気配が漂い、僕を威嚇する。
「だから、君をこの場で討ち取ります」
ちぎり捨てたような言葉で躊躇いを破った。左手から抜き出した呪符を、ナッツ目掛けて放る。
回避しようとしたナッツの姿がいきなり停止した。空中で縫い止められたようになり、そこに僕の呪符が絡む。
"オゲアアアアア!!"
吠え声が耳に、心に刺さる。予め反撃を予期して、通りに張り巡らせていた結界の中では霊は自由には動けない。それも対象を絞りこんだ上で作った結界なら尚更だ。
電撃を思わせる黄金色のスパークが疾る。それが網のようにナッツを捕らえ、無慈悲に締め上げ続けた。
ギャウン、ギャウンとたまらず苦痛の叫びが犬の口から漏れる。だが、それでもまだ、ナッツは前に出ようとする。一瞬ごとに痛めつけられ、その体は削られていくのにだ。
もう、霊体として姿を保つことさえ難しい程にダメージを受けているだろうにだ。
"退いてくれ"
電撃の中で歪む犬の顔は確かにそう言っていた。その瞬間にも首や尻尾が焼かれ、ボロボロと端から崩れていく。煙のような体が闇に消えていった。
「--ごめん!」
たまらなかった。意を決して踏み込み、レイピアの刃を振るう。銀色の剣閃は狙い過たずにナッツの首を切り裂いた。傷口からこぼれる煙の量が、舞台の閉幕を告げるカーテンのように見えた。
ワウン、と一声鳴いて、力無くナッツの体が倒れていく。即座に残った呪符全てを地面にばらまいた。丁度、ナッツの周囲に円を描くように。
「封霊」
短い詠唱に呪符が反応する。ボウ、と淡い白い光が地面を満たし、倒れたナッツの体がそれに包まれた。
苦痛に身をよじるようにしていたナッツの顔が、その時だけは和らいだように見えた。瞼を閉じた犬の顔が光の中に溶けていく。
封霊にかかった時間は精々十五秒か、そこらだったと思う。さっきまでそこにいたはずの犬の霊の姿は既に無い。呪符で組んだ陣が四つ角に残るのみだ。
ヒラヒラと数枚の呪符が夜風に舞う。依頼を終えたはずの高揚感はまるで無い。胸の中に巣くうのは、ただどうしようも無いほど空虚な感情だった。
外套の裾を握り締める。自分の指がわなないていることに、その時初めて気がついた。




