ロリス・クライン 2
ボドウィンさんの語るところによると、事件が発生したのは凡そ一週間前からだ。霊の関与する事件のご多分に漏れず、発生時刻は夜中だった。
「夜中にうなされるんですな。こう、不気味なうなり声のような物が聞こえてきまして。ハッと起きると、寝室の片隅に何やらおるのです」
「ははあ。どんな物が見えましたか」
「白い半透明な物でした。最初は煙かと思いましたが、部屋にそんなものある訳もない。とにかく正体も分からず、がたがた震えているうちにスッ......と消えていきました」
「それは怖かったのですよ、あなた。私も飛び起きていましたが、怖くて動けませんでしたわ。何なのかしら、あれ」
合いの手をボドウィン夫人がいれる。
「なるほど。あの、直接的な被害は? 身体がおかしいとか。あと、それは毎日来るんですか?」
「いや、傷などは特にはない。ただ気味が悪いし、眠るのが怖くて仕方がない。ああ、毎日来るかどうかだったな。今まで二回来たね。一週間前と二日前だ」
ふむ、とりあえず何の霊かは分からない。
分からないが直接攻撃を即座に加えないなら、そんなに好戦的ではないのかもしれない。
だが依頼内容には霊障の治療とあったが、それは何だろうか。
「不眠症も立派な霊障じゃないのかね! 日中も怖くて常に背後を気にする毎日だ、何とかしてくれたまえ!」
「は、はあ。うーん、事件が解決すれば自然治癒する気もしますが......分かりました」
ややヒステリックに訴えるボドウィンさんに、僕は呪符を二枚差し出した。言うまでもなく、夫人の分も含めてだ。
「直接的には僕が事件を解決するしかないです。とりあえず、これを付けて下さい。低級霊なら手を出せない程度の守護結界が貼られます」
「あんまり強くないのかね? もっとこう、どんな霊でも排除できるような結界をくれないか」
「あんまり強力な結界だと、一般の方だと身体に負荷がかかりますから。とりあえず緊急性は低そうですし」
僕の返事にボドウィンさんは黙った。了解したというよりは、不承不承という感じだ。
その後に幾つか僕から質問したが、そんな霊には全く心当たりが無い、とにかく怖いので早く始末してほしいの一点張りだった。
霊の正体を探ること、屋敷を警護して直接叩くこと。この二つを同時平行するか。「方法は任せる。50,000グラン出すからとにかく頼む」と言われたら、もう断る術も無い。
「分かりました。一旦引き上げて荷物などを取ってきます。夜には戻りますから」
「頼んだよ、君。いや、ロリスさんか。一刻も早く、あの忌ま忌ましい霊を退治してくれ」
「私からも重ねてお願い。もう怖くて仕方ないのよ」
些か金持ちにありがちな傲慢さはあるが、霊の恐怖に震えている割にはまともな対応をしてくれる。「お任せを」と頭を下げて、僕は屋敷の玄関を出た。
綺麗に掃き清められた屋敷の庭を、何となく見渡す。片隅に止められた馬車と、その周りで遊ぶ男の子と女の子が目に留まった。ボドウィンさんの子供なのだろう。
何となく勇者様のところの双子ちゃんを、僕は思い出した。最近会ってないな。
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「で、結局受けたのかい」
「はい。報酬50,000グランです。なので、ディストさんには5,000グランでいいですよね」
「おう。報酬貰った後で払ってくれよ」
その日の午後、僕とディストさんは落ち合っていた。といっても、男女の逢い引きなどでは勿論無い。場所が冒険者ギルドの片隅、それも職員の目の届く卓の一つなのだから。
向こうのカウンターで業務に励んでいるのは、よく知ったアニーさんだ。手を振ってあげると、小さく会釈してくれた。いい人だ。
「失礼しました。では話を進めましょうか。で、何か分かりましたか?」
「あのな。今朝依頼を受けたばかりだよ。さすがに大して情報は集められてねえよ」
そう言いつつも、ディストさんはボドウィン商会についての基本情報を教えてくれた。創業の年、主に扱う商品、仲のいい商会、逆に悪い商会などだ。これらは商業ギルドで分かることもあれば、噂話から分かることもある。
何が事件に関与するか分からないので、とりあえず全部聞く。大抵の場合、霊というものに遭遇する人間は、その霊と何かの接点があるものだ。恨みを買っているケースが一番多い。
だから、人間関係を解きほぐしていけば霊の正体が分かる場合もある。
退魔師の中には、事件の背景にある複雑過ぎる怨恨にあてられて、寝込んでしまう者もいるくらいだ。
「今回の事件が人間関係のもつれかどうかは、まだ分かりませんが......何となく可能性は低そうな気はします」
「へえ? そりゃまた、何で」
片眉を上げたディストさんに説明する。理由は単純。霊から唸り声しか聞こえてこなかったことだ。
「もし怨恨などが原因なら、ボドウィンさんに恨みごとの一つや呪詛の言葉を叩きつけていると思うんですよ。直接手は出さないにしてもね」
「ほほう、なるほどねえ」
「勿論、何か理由があってあえて喋らないだけかもしれませんけど」
喋らないのか。喋れないのか。それによって相手のタイプはかなり変わる。
除霊するにしても、説得だけでどうにかなってしまう相手もいる。喋る知能があるなら尚更だ。
けれども喋ることが出来ない--そういう霊であれば、力づくでどうにかするしかない。
ディストさんには引き続き調査の継続をお願いし、僕はギルドを離れた。夜までに装備品を整えておく必要がある。
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その日の夕刻から、僕はボドウィン商会に間借りすることにした。上手く行けば初日から当たりが出る、と期待していたが、その反面、中々そんな幸運は訪れないことも承知の上だ。
それならそれで構わない。幾分精神不安定気味のボドウィンさんと夫人を構いつつ、正体不明の相手に対して策を練る。
退魔師の武器は主に呪符だ。既存の魔法とは異なる原理で魔力をためて、火や雷に転換することが出来る。
これは霊にも効果はあるが、どちらかというと肉体を持つ普通の魔物に対して使う。
あくまで退魔師の本分は、霊的な存在に対する相性の良さにある。結界術、対邪霊に特化した武器の使用、広範囲を探索する呪符による偵察術、浄化により霊を死後の世界へ戻したりなど使える技は多岐に渡る。
こうした技が使えるからこそ、肉体を持たないあの世の存在に対して十分以上に戦えるのだ。
「まずは索敵用の結界を張ろうか」
夕ごはんを御馳走になった後、僕は呪符を用意した。それらを屋敷の外の壁や庭に張る。
あえて防御的な結界を張らないのは、相手を誘い込む為だ。ぎりぎりまで引き付けてから敵を捕らえる。
「しかし何だな。特に身に覚えも無いのに、霊に狙われるなんて気分が悪いものだ」
気休めがわりの守りの呪符を張ったせいか、ボドウィンさんは少し顔色が良くなった気がする。僕は対策を進める為に手を休めない。
「ほんとに全く身に覚えが無いんですか。ちょっとでも心当たりがあるなら、話して下さいね」
「いやいや、全く無いとも。そりゃあ、もしかしたら私を恨む人間もいるかもしれんがね? だが私には全く覚えが無いなあ」
「そうですか。あ、後で軽く全身に浄化をかけますから」
僕の言葉にボドウィンさんは目を丸くした。「いや、身体にはダメージは無いが」と訝しそうに言うので答える。
「症状が出ていないだけで、影響を受けている可能性はありますから。例えば床下に這えた黴みたいにですね、目には見えないけど家を侵食する存在がありますよね」
「......想像するだけでゾクッとしたよ」
お分かりいただけたようだ。
案の定、僕が診るとボドウィンさんも夫人も精神の一部が僅かに歪んでいた。霊の接触により魂が不安定になる、その兆しだ。
「更に分かりやすく言うとですね、精神の虫歯ですよ。痛くなっていないだけで、放っておくと大変なことになります。人格崩壊や常時恐慌状態、果ては自殺志願などを引き起こし......」
「わ、分かった! 分かったから、何とかしてくれないか!」
顔を青ざめさせてボドウィンさんが頼む。無論、最初からケアはするつもりだった。
即効性の治療として精神安定の薬を与えておいた。根本的な治療としては徐々に効く浄化の術を施す。
僕の掌から白い暖かい光が生まれ、ボドウィンさんと夫人を包む。五秒程でそれは終わった。
「今はまだ軽度なのでこれで治ります。とりあえず、僕は警護に力を入れますよ」
そう声をかけ、与えられた自室に戻った。初日から攻めてくるかは分からないが、敵が来ても索敵結界が教えてくれるだろう。
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結局のところ、初日の夜は空振りに終わった。収穫と言えば、窓から見上げた月が美しかったくらいだ。
二日目の昼間は殆どの時間を屋敷で過ごした。ディストさんから調査報告を受けとる為に一度外出したが、事件と直接関係がありそうな情報はまだ無い。
だがこれは相手の素性が分からないから、僕がピンと来ないだけかもしれないな。情報が意味を持つには条件がある。
情報と事件の内容について良く理解しており、その共通点を見つけられるかどうかということだ。
「今のロリスちゃんはさ、事件を起こしている霊が何なのか殆ど知らないだろ。物事の共通点も何も、それじゃ分からないんじゃねえのか」
「認めざるを得ませんね。一度相手と接触してからからな」
仮にボドウィンさんが殺人事件を過去に起こした! などという分かりやすい事柄でもあれば簡単なんだけど。でも、世の中そう簡単には上手く行かないよね。
気をつけて、とお互い声をかけてその日は別れた。
その日の夜。雲が厚く垂れ込め、昨夜の名月も隠されてしまい風流の欠片も無い--そんな夜だ。
ヒュルリと冷たい夜風が枯れ葉を散らす。通りの石畳にいるのは野良犬くらいなものだろう。
(来た!)
浅い眠りが破られる。張っておいた索敵結界が働き、僕に訴えかけてきたんだ。寝起きの身体を動かし、さっと外套を羽織って部屋を出た。
索敵結界は一度働くと、ある程度なら相手の動きを追尾してくれる。今はまだ屋敷の門の前だな。あ、そこからゆっくり中に入ってくる。
方針として家の中まで呼び込んで叩くことも考えたが、それは止めた。派手な攻撃が出来ないことや、屋敷の人に危害が及ぶ可能性を考慮してだ。
派手な立ち回りになるなら、やはり外で迎撃するに限る。
敵の数--単独。侵入経路--堂々と正門からか。
実体を持たない霊とはいっても、生前の習慣からか、生きていた時と同じような移動方法を取る者は多い。
その気になれば、霊というものは地上数十メートルから数百メートルまでの高さまで飛べるらしいが。それをしないということは、少なくともこいつは鳥の霊ではない。
「行きます」
玄関へと走りながら独り言。殆ど足音を立てずに移動する。装備は万全だ、どこからでもかかってきなさい。
タン、と軽い音と共に玄関の扉を開けた。索敵経界が告げた通り、相手はまだそこまで辿り着いてはいない。
もう僕は直接に相手を視認出来る。玄関から10メートル程の辺りに、そいつはいた。
白、というよりは濁った灰色の煙の塊に見えた。だが、僕に気がついたそれはみるみるうちに形を整えていく。
ただのボンヤリとした煙はスゥと前後に伸びた。手足に当たるのだろうか、四本の細い煙が地面を捕らえる。一番後ろからは尻尾のように、ふわりと長い煙が伸びた。
「犬の霊、ですかね」
そう、誰がどう見てもそれは犬の霊にしか見えないだろう。首に当たる箇所が伸びる。その先に集まった煙は、二本の耳と鋭い牙を備えた頭部に変わった。
犬としては中型犬よりはやや大きいくらいか? 全長1メートルくらい、まあまあそれなりにサイズはある。
ウウウゥゥ......という威嚇の唸り声が聞こえてきた。いきなり飛び掛かってはこないのか。やはり、そこまで好戦的でもないらしいが油断は禁物だ。
ここまで来たら、ただでは済まないくらい覚悟は出来ているだろう? 普通の人間と違って、はっきりお前の姿を捉えている人間が目の前にいるんだから。
「どんな理由があるにせよ、おいたはここまでですよ」
警告を発しながら呪符を懐から抜く。霊を払う魔力が込められた呪符は妖しく輝き、それを目にした犬の霊はジャッ! と一声吠えた。騒音が響かないように、事前に音を遮断する結界も張っておいたから近所迷惑にはならないけれどね。
さあ、除霊開始です。




