ベリダム・ヨーク
コトン、と重いグラスが音を立てた。分厚い作りのグラスの底は、天井からぶら下がるランプの光を乱反射している。その白っぽい、だがどこか鈍い輝きを私は見るともなしに見ていた。
王都にある高級宿の一部屋だ。今回、闘技会に参加するにあたって、私はこの宿に泊まっていた。一人寝には些か広く、また豪奢な部屋だがこれくらいの贅沢は許されよう。
「明日で王都ともお別れですね、ベリダム様」
「ああ。一応、目的は達成したしな。ビューロー、君も充実したか?」
傍らに佇む仮面の戦士は無言で頷く。普段は武芸を競う機会が少ない為、この闘技会に参加させてみた。結果は準決勝進出、悪くないだろう。
ビューローの隣、長椅子に横座りになっている女が口を開く。妖花を思わせる唇は艶っぽく、毒々しい美しさを秘めていた。
「うふふ、殿方達はご満悦でいらっしゃったようで何よりですわ。魔法合戦が無かったのが私には残念でしたけど」
「留守番ご苦労、ネフェリー。しかしその間、君も王都見学出来たのだからな。無駄ではあるまい」
私の返事に女--ネフェリー・カーシェンはくす、と笑った。胸の前に垂らした栗色の髪がゆらゆらと揺れる。
辺境の地で雌伏の時を過ごすこと、五年。我がヨーク家の領地はじわじわと力を蓄えてきていた。一地方領主ながら、もはやその発言力は無視出来ない物になっているだろう。今回、闘技会に参加したのは北の狼の健在を印象づけるため、そしてもう一つは。
「しかし上手く行きましたわね。あの勇者ウォルファートの技を盗めるとは。これでますます、ベリダム様も頂点に近づきますわ」
「一応は、な。いつになるかは知らんが」
そう、ネフェリーが言うように、ウォルファート・オルレアンの技を掠めとるのも今回の目的だった。レベル60を超え、もはや目標らしき目標が私には見つからなかった。だが、勇者となれば話は別だ。
その技を吸収すれば間違いなく私は上に行ける。その確信があった。
「......今すぐではありますまい。ですが、北方地域の完全な平定の為にはまだ些かの戦争が避けられませぬ。凍土之窪地を攻める際には、ベリダム様にご出馬願いたく」
「分かっているさ。じわじわと北の発言力を増す為にも、な」
ビューロー・ストロートに答えながら、内心の焦りを静める。そう、これが正しい。今や中央政権の骨格もしっかりしてきたシュレイオーネ王国においては、一か八かの謀反など成功が望めない賭けに等しい。
私にも野心はある。出来ることならば、家臣としてではなく、覇者として君臨したいという望みはあった。しかし、年々強く成り行くその望みとは別に、領主として現実的な判断を下さねばならない責任もあった。
ビューローにせよ、ネフェリーにせよ私がそうした欲求を抱いているのを知っている。今さら他者に頭は下げたくない。だが、現実は発言力が強いとはいえども、ただの地方領主に過ぎない。彼らはその葛藤を抱えている私を支援してくれる、実にいい部下だった。
(いつかは、いつかは北方に主権を移してみせる。今はひたすら我慢だ)
ネフェリーが注いでくれた酒を一息に飲み干す。そう、今は満足している。この闘技会の結果にも、十年単位で考えた我がヨーク家の将来にも。時間がかかり過ぎるかもしれないが、仕方がない。国に目をつけられるリスクは侵せないからな。
「出来うるなら、もっと手短に行きたいものだがな」
それでもやはり不満がつい口をつく。十年、言葉にすれば簡単だがそれがどれほど長い期間か。この燻った感情をあと十年も抱えたまま、地道に領土を豊かにしていく。正直、我慢出来るか自信がない。
今、私は三十三歳だ。十年後には四十三歳になる。その時には今より衰えているだろう。それにシュレイオーネの中央政権がより固くなり、相対的に北方地域の発言力が弱くなっている可能性も否定は出来ない。
そんな弱気な考えが私に言葉を零させたのだ。
******
闘技会のことや、王都のことなどをつらつら酒を飲みながら話す。ビューローは仮面を少しずらしながらなので、飲みづらそうだ。外したがらない理由を知っているので、無理にとは私も言わないが。
「ねえ、ベリダム様。純粋な疑問として聞くのですけど、勇者と戦ってみて勝てそうですの?」
いきなりのネフェリーの問いに、私は「素では難しいかもな」と素直に答えた。実際、剣を合わせて分かったがあの男は強い。伊達にあの大魔王を倒してのけていない、と強く実感した。
体捌き、パワー、スピード、技術、発想。そのどれもがずば抜けている。最後の鋼砕刃・骨喰で引き分けたのは、単なる幸運だった。
「俺もあと一歩で逃がした。今は勝てそうもない」
「そう、ビューローでもね。あとは魔法を使ってどうか、ということかしら」
ビューローがポツリと呟き、ネフェリーが答える。
「私の全装備使用、魔法ありならばいい勝負だろうな。だがあの試合で盗んだ勇者の技を習得して、という条件だ。それだけ強いさ、ウォルファートは」
「......そこまでおっしゃる」
「技の完成型だけは覚えたが、完全に習得するまでは些か練習が必要だ。もっとも--」
ネフェリーに答えつつ、私は一度言葉を切った。ビューローがこちらに顔を向ける。
「--私と彼がそんな条件で戦う機会があるかは、また別問題だがな」
私は安心しているのか。それとも、落胆しているのか。
あのウォルファート・オルレアンと本気で戦うという機会は、恐らく難しいという事実に。
だが、奇妙なことに人を引き付ける男だ。流石は勇者といったところだろう。
コン、と音がした。ドアからか。いや、おかしい。
「......見張りは何を」
ビューローが不審気に言いながら立ち上がる。そう、彼が言う通り、部屋の前には二人の見張りをつけていた。誰か客人があれば、まずその二人に声をかけるはずだが。
部屋の中ほどまで進んだビューローが立ち止まった。ネフェリーが「どうしたのよ?」と声をかけても動かない。
「ベリダム様」
「ああ。気がついている」
まさか王都の真ん中で、こんな鮮烈な気配を感じるとは思わなかった。だが、確かに扉の向こうからは明確な気配--それも好戦的なそれが伝わってくる。
「あ、気がつかれたね。どうする、ウェイン?」
「どうするも何も最初から会うつもりだったんでしょう、リオン様」
子供のような声に、若い男の声が続いた。こっちの許可もなく勝手にドアが開く。「おい、何だ貴様ら」とビューローが止めても、不審な二人がするりと部屋に入ってきた。
奇妙な二人だった。
小さい方はまだ子供に見えた。ターバンで巻いた頭からは、紫色の髪が少し覗いている。まるで旅芸人のような身軽な服装だが、どことなく上品さも感じた。
「お邪魔しまーす、辺境伯さん」
「ア、いえ、リオン様! 初対面ですよ!?」
そしてもう一人の青年、こちらも妙だ。私と同じくらいの長身は黒マントに隠されている。だが、僅かな身のこなしから相当な手練れであることが分かる。
子供と同じようにターバンを巻いているが、そこから流れる髪は黒く長い。
いきなりの珍客に呆気に取られていたビューローとネフェリーだが、それも数瞬に過ぎない。すぐこの二人と私の間に割って入った。特に私の護衛も兼ねるビューローは、かなり殺気だっている。
「この部屋がベリダム・ヨーク辺境伯の部屋と知っての狼藉か! 貴様ら、見張りはどこへやった!?」
「ん? 眠ってもらったよ。ちょいと邪魔だったんでね」
子供がニヤリと笑いながらビューローに答えた。流石に堪忍袋の尾が切れたのだろう、有無を言わせず仮面の戦士は二人に躍りかかった。無理もない、何かただ者ではない雰囲気がするが、付き合う義理は無いのだから。
だが、高速で鳴らすビューローの腕は子供にまで届かなかった。ネフェリーが「なっ、そんな!?」と驚愕の声をあげ、私も目を疑う。
「リオン様にみだりにふれるな、未熟者が......!」
「グ、グガ、お、おのれ!」
信じられない光景だった。長身の男が素早くビューローの腕を掴み取り、その動きを拘束したのだ。仮面ゆえ表情は分からないが、ビューローの声だけでも相当な力で締め上げていると分かる。
ビューローがもがくたびに、白い長衣が揺れる。だが黒髪の男は一歩も動かずにその動きを拘束したままだ。その緑色の目から冷徹な視線が部屋の中に注がれる。
「突然の来訪、失礼致します。私はウェイン、こちらはリオンと申します。わけあってこのような形で訪ねさせていただきました」
「初めまして、と言っておくよ。だがとりあえずビューローを離してくれないか? 相当痛がっているんでな」
「だってさ、離してあげたらー?」
私の頼みにリオンと呼ばれた子供が頷いた。場違いに朗らかな声だ。その声に押されたように、ウェインと名乗る男は渋々手を離す。
「スピードには自信があるようだが、まだまだだな。パワーも物足りない」
「--何を」
「止しなよ、ビューロー! あなた達もただこっちに喧嘩売りに来たわけじゃないんだろ? ちょっとは弁えな!」
ウェインの挑発的な言葉にビューローが猛りかけた。だが、ネフェリーがそれを制する。その気になれば、彼女も相当高度な攻撃呪文を使える魔術師だ。その彼女ですら、目の前の二人に対して最大限の警戒心と注意を払っていた。
どういう意図があってか知らないが、こうして私と会おうという以上、何か目的があるのだろう。だが、全くそれが読めない。しかも友好的とはとても言えない切り出し方だった。
「改めて。リオンです。闘技会見てましたよ、辺境伯さん。いやあ、素晴らしかったです」
「子供の割に世辞が上手いか。回りくどいのは嫌いでね、用件を言い給え」
「じゃあ早速言わせていただきますか」
子供の癖に勿体振るリオンは「ふう」と一つ息を吐いた。この場にいる五人を包む緊張した空気をまるで気にしていないようだ。
だが、リオンが「あなた、ウォルファートのこと嫌いなんだろ? おまけに不平不満で一杯みたいな顔してるよねー」と言い出した瞬間、その緊張がザワリとどよめいた。
何だ、この子供は?
何故、勇者を呼び捨てに出来る?
何故、初対面にも関わらず、内に隠した私の欲求を当てられる?
いつのまにかペースを捕まれた。リオンはとうとうと話し始める。
「観客席から試合見ていたんだけど、あなたがウォルファートを相当意識しているのはすぐ分かったよ。直接見ていなくても、ちらちらと目線がね。向かっていたりするし」
「ほう。だがそれだけでは、私が勇者様を敵対視している証拠にはならないだろう。存在感の大きな方だ、意識しても不思議は無い」
リオンに注意深く答える。もしかしたら、私を勇者に害なす存在として摘発する為の間者かもしれないのだ。言質を取られたくは無かった。
「あー、まあそうだよね。でもさ、分かっちゃうんだ。あなた、決勝戦でウォルファートの技を取ったでしょ。あれ、僕らには見えていたよ?」
「ふっ、面白いことを言うね」
平静を装ったが、ぎくりとさせられた。私の模倣に気がついていたとは驚きだった。あれは通常は、余程近距離で観察しなくては分からない。だが観客席から見ていたというのに、よく分かったな。
私の疑問に気がついたのか、リオンは微笑した。彼の目が赤く光る。
「見ただけじゃないよ。試合中のウォルファートとあなたの会話、全部聞こえた。"転送開始"って言っていたでしょ? ついでに闘気の流れから、あなたがウォルファートを尊敬なんかまるでしていないってことも分かった」
「とんだ地獄耳だな。リオン君だったね、今更隠そうとも思わないが--」
しらばっくれても無駄か、と私は諦めた。模倣した時に、私が確かに話した単語を知っているのだ。嘘を言っていないと判断していいだろう。それよりも、今はこの二人が何者なのか確認したかった。
観客席にいながら私の目の僅かな変化に気がついた視力。
同じく騒々しい闘技場の音の洪水から、私とウォルファートの会話を拾う聴力。
そして何より、北の狼と畏怖される私の前でまるで萎縮しない胆力。
興味が警戒を上回った。
「--君達、何者だ?」
「理由あってウォルファートを憎く思うただの義理の親子さ。ねえ、ウェイン?」
「はい、リオン様。ここから先は私が話しましょうか」
ウェインが私を向いた。天井から吊したランプの光が、彼の彫りの深い顔に陰影を作る。
「端的に言います。我々二人と貴公は、ウォルファート・オルレアン打倒の為に手を結べる。力を貸そう」
「それは本気で言っているのか」
「ベリダム様! このような、どこの馬の骨とも分からぬ輩の言葉、信じてはなりません!」
ビューローが私に注意してくる。もっともな進言だ。しかしある考えに私は取り付かれかけていた。
「ネフェリー、君はどう思う」
「......もう少し詳しく聞かないことには、私には何とも」
いまだ警戒心をあらわにして、有能な女魔術師はそう答えた。リオンとウェインは私の返事を待っているのか、黙然としている。
(もしかしたら、この二人をきっかけにして、今の私の閉塞感を振り払えるのではないか?)
私の脳裏をそんな考えが徐々に占め始めた。それは無視するには難しい甘さを含み、理性を侵食していく。
(とりあえず情報を引き出す)
そうだ、殺すのはいつでも出来る。まずはこの二人が何者なのか、どこまでウォルファートのことを敵視しているのか、それに実力がどんなものかを知らねばならない。
冷静さを取り戻した私は、髪を一度払った。雰囲気が変わったことに気がついたのか、目の前の二人の表情が引き締まる。
「拒否はしない。だが、すぐに受諾出来る話でもない。まずは友好的にお互いを知るということでどうかな、お二人」
そう言ってから椅子に座るように促した。軽く一礼してからリオンとウェインが座る。まだ警戒してか、ビューローとネフェリーは立ったままだ。
さて、何から聞き出すか。驚かされてばかりだが、こういう新鮮な驚きは歓迎だ。まして現状打破の一撃に成りうる可能性があるなら--願ってもない。




