アリオンテ 2
コトコトと台所から何かが煮られている音が聞こえてくる。それと共に、食欲を刺激する肉と野菜が醸し出す匂いが僕の鼻まで届いた。僕は夕飯が出来るまで大人しく本や巻物を開いていたんだけど、不意に自分が空腹であることを自覚する。立ち上がって、鍋に向かうワーズワース義父さんの背中に声をかけた。
「義父さん、ご飯まだ? お腹空いちゃった」
「もう少しですね。待てなければ、一個だけそこにあるお菓子食べてもいいですよ」
こちらをちらりと振り向いた義父さんの視線を追うと、食卓の上に何やら小さな袋がある。今朝までは無かった物だ。紐で括られたその口を開くと、小麦粉と糖蜜を一緒に焼いた菓子が10個ほど入っているのが見えた。
(うっ、夕食の後まで我慢、無理だお腹空いた)
一瞬だけ葛藤した後、僕は袋から一個だけ摘んだその菓子を口にほうり込んだ。表面だけは焼き固められて固いけど、中はほろほろと崩れて甘い。もう一つ食べたくなった。でも自制心を発揮して止めた。
「美味しい。これ昼間出かけたとこで買ったの?」
「ええ。この季節だと野菜を売りにくる農家相手に市が立ちますからね。中にはちょっとした贅沢として、こういう菓子を売る商人もいたりします」
「ふーん」
人間のことは認めたくないけど、彼らは持っている物を交換する機会や場所を作るのが上手だ。農家なら野菜を、職人なら製作物を、花屋ならお花をそれぞれ作ることは出来る。
しかし、それを上手くお金に替えることが出来る場所が無ければ、どうにもならない。
前に義父さんが「魔界にはそういう発想が欠けていましたね。持ち物を一対一で交換することはしても、売り手と買い手が多数集まって効率的に行うことが出来ない」と言っていたのを思い出した。多分人間の方がその辺りの考えは発展しているんだな。
「出来ました、食べましょう。ちゃんと手を洗わないと駄目ですよ」
「はーい」
「だから返事は"はい"とあれほど口酸っぱく!」
うん、義父さんはからかうとすぐにムキになるから、今のはわざとだ。ほんとは僕がちゃんと言えることを義父さんも知っている。それを分かった上でのおふざけなんだよね。
「はい、手洗ってきます」
ほら、ちゃんと言えただろ。
******
骨ごとぶつ切りにした鶏肉と野菜を煮込んだスープ、それに黒パンといういつもの食事を、僕達は終えた。そして少し休んでから家の外へ出る。とうの昔に日は暮れており、村にぽつぽつと点在する家の明かりは蛍がさまよう様にも見える。
「いつも通り模擬戦です」
「うん」
家から少し離れた裏山を目指す。その中で交わす義父さんと僕の会話は短い。
先程まで夕食を食べながら話していた時は、のんびりしていたんだ。だけどその雰囲気は既にない。あるのは戦いに身を置く者なら分かるはずの、ぴりぴりした雰囲気だけだ。
ある意味この時間以外は、僕と義父さんの毎日は普通の人間と変わりがないくらい平凡。だけどこの時間があるからこそ、僕達二人は己を律していられるとも言えるだろう。
裏山にわけ入りがさがさと藪をかきわけて進み、開けた場所に出た。木々に囲まれた窪地のような場所は、体を動かすにはうってつけだ。
周囲に人がいないことを確認し、義父さんが音の拡散を防ぐ呪文を唱える。ここには滅多なことでは村の人はこんな時間には来ないが、万が一にも気配を悟られたくはないから。
ここまで歩いてきた時点で体は暖まっている。軽く腕を回し、体を立ったまま前屈したりしたりする。それだけで気持ちにも徐々に火が点いてきた。
よし、行けるぞ。義父さんは離れた場所で腕組みをしてこちらを見ている。僕は軽く声をかけた。
「いつでも大丈夫だよ」
「分かりました。では剣を」
ワーズワース義父さんは答えながら、収納空間を開いた。夜の闇の中に一際濃い黒の空間がヌウと広がる、そこから飛び出してきた鞘に納められた一本のショートソードを、義父さんは僕に放る。難無く空中でキャッチ、素早くそれを抜刀した。
ピタリと僕の手に吸い付くような、冷たい柄の感触だった。その感触に震えそうになるのは、いつものことだ。そして目は既に義父さんから離さないように、その一挙一動を見張っている。これもいつものことだ。
訓練だというのに呼吸は浅く速くなる。心臓はトクトクという鼓動を速めていく。自分では止められない体の緊張を自覚する。
(僕の目の前にいるのは、いつもの義父さんじゃないんだ。気をつけなければ)
自分に言い聞かせる。体と心のバランスが大切だ。
神経を研ぎ澄ませた緊張感、それと広い視野を確保する為のリラックスの丁度真ん中に、己を置くよう意識する。相反する二つを両立させる難しい条件だ。これをたかが訓練でも必要とする相手、それが。
「来い、一本入れてみろ」
僕を見据え、冷たい鋼のような声をかけた男。義父にして元魔王軍副官ワーズワース!
「はっ!」
脱力した姿勢から、僕が今持てるトップスピードへ一気に加速する。右手のショートソードが煌めいた。間違いなく、まともに決まればそれなりの鎧でも貫くだけの威力はある。例えそれが七歳の僕の力でも。にもかかわらず、義父さんは、いやワーズワースは全く恐れる様子がない。
それも当然、彼と僕の実力差は歴然としているから。それに万が一剣先が迫ったとしてもだ。跳ね返せるだけの防御力が、身に纏うマントには秘められているからだ。
そう、それだけの戦力差が二人の間には厳然として存在するのは認めるけれど。
「いつまでも子供扱いするなっ!」
一瞬上体を右に振りフェイントをかけ、反動を活かして左へ。最近、とみに足裁きは良くなったと誉められている。自分でも良い動きだと思う。
相手がこれに釣られてくれれば儲け物、釣られていなくてももう一回はフェイントはしない。なぜなら手数をかければかけるほど、相手に迎撃の時間を与えるからだ。
ワーズワースは驚くべきことに素手だ。闘気を手に集めているので並の攻撃ならそれで防げるからだが、それにしても武器のリーチという利点を捨てているのは驚く。ショートソードの剣身を考えれば、僕の方がリーチはある。だからまずは先制攻撃、初撃は上段唐竹割り!
「温い」
あっさり避けられた。もんどりうった僕の視界に、ワーズワースの振るう手刀が映る。これで手加減しているのかと驚愕する速度で迫るそれを何とか身を捻り回避、そのまま左からの逆薙ぎ、それもかわされた。けれどめげずに右からの下段突きだ。
次々に攻撃を入れるけど、全て軽く振るった手刀で叩き落とされた。
決まらない攻撃が続くと、体力は奪われさらに気力まで奪われる。相手との実力差を見せつけられるようで、こちらの意欲は萎えてしまう。だが手を休めるわけにはいかない。
十何回か無駄に終わった剣閃、それ自体を囮にした。息を切らせつつも、呪文の詠唱を小声でスタートさせる。これを何とか完成させとびすさりながら、僕は左手を突き出す。
そこに生まれるのは赤々と燃え上がる火球だ。スイカくらいの大きさの火炎の照り返しを受け、ワーズワースが片眉を上げた。これならどうだ!
「くらえ、火炎球!」
気合いを込めて、取っておきの攻撃呪文を放つ。火炎球は初級の呪文に過ぎない。だがそれでも、僕の持てる攻撃手段の中では最大の威力なのは間違いない。
不意打ちで仕掛けた形のこれが効かなければ、一本取るなどしばらく絶望的だ。そう断じていいくらい、僕はこの攻撃に賭けていた。
ボウアッ! とワーズワースを火炎の爆発が包み込む。赤やオレンジの火の粉が舞い散った。闇に覆われた窪地の一角を、火炎が真昼と見間違るくらい明るく染め上げた。
これでまさか燃え尽きるなんてことは有り得ない、対魔障壁を当たり前のように瞬時に張れるワーズワースなら、僕ののろのろ球の火炎球など余裕で防御出来るだろうし。
「けど、まともに当てたんだ。一本と認めてくれないかな」
火炎がまだブシュブシュと不気味な音をあげて燃えている。その様子を見ながら、僕は呟いた。少しくらい熱によるダメージが通ったなら、認めてくれてもいいと思うんだけど。
けれど、このささやかな期待が打ち壊されるには時間はかからなかった。
「油断大敵」
「!?」
声が聞こえてきたのは背後だ。何故と考えるより前に反転しながら後ろに跳んで逃げようとしたけど、無駄だった。
獲物を捉える蛇が一気にその身を踊りかからせるように、ワーズワースの右腕が僕に伸びてきた。かわす暇など微塵もない、まさに電光石火の一撃がトン、と僕の胸を叩いた。
暗転する視界、脱力する手足。あれ、また負けたのかなと消え行く意識の中でうっすらと考えたような気もしたけど......
******
「捉えたと思ったんだけどなー」
「少しびっくりしましたが、呪文の完成から放つまでに溜めがありましたからね。回避させてもらいましたよ」
その夜、僕と義父さんは家に帰ってから、さっきの模擬戦について話し合っていた。義父さんのあの一撃で昏倒した僕はしばらくダウンしていたけど、自然に目を覚ましたんだ。
草の上に寝かされた僕を心配そうに義父さんが覗きこみ「目を覚ましましたか。すいません、ちょっと力が入ってしまいまして」と謝った後、もうそのまま家に戻ってきた。だから後は反省するくらいしか出来ない。
「けど、あれだけ派手に剣を振り回してそっちに注意をひいていたのにあっさりかわされちゃうなんて......全然敵わないや」
「まあ、少し本気出しましたからね。今までで一番良かったですよ」
「ほんと?」
義父さんの言葉に嬉しくなり、僕の言葉は弾んだ。こういう時に義父さんは穏やかに理由を説明してくれる。そんな義父さんが僕は好きだ。
「ええ。接近戦からいきなり距離を取り、呪文による遠距離攻撃を混ぜる、あるいはその逆を行う。言うは易し行うは難しですが、これをやると相手は戸惑います。若様がまさか呪文の詠唱を剣を振りながらやっているとは、私も思いませんでした」
「うん、息が切れそうだったからしんどかったけどね。でも当たったと思ったのに、残像だったなんてなあ。やっぱり義父さん強いね」
「一応アウズーラ様に認められた魔王軍No2でしたから。そうそう簡単には一本取らせませんよ」
答えながら、義父さんは椅子から立ち上がった。多分寝る前のお茶だろう。僕も時々もらうけど、今はお菓子の方がいい。
湯気の出るカップを持って、義父さんがすぐに戻ってきた。僕は食べかけのお菓子をお皿に戻す。
「ねえ、確か勇者は二人子供を育てているんだよね。名前なんていうのかな」
「ああ、そうですね。男女の双子でした。確か男の子がシュレン、女の子がエリーゼでしたかね。若様より三つ下の勘定だから、今年で四歳です」
「そうか。そいつら二人は僕の敵になるんだよね。ウォルファートをいつか倒す時には立ち塞がることになるか」
僕の言葉に対して、義父さんは肯定も否定もしない。ただ黙ってお茶を啜る。背中まで垂れる長い黒髪の間から覗く緑色の双眼は、深い色を湛えていた。何を考えているんだろうか。
「ウォルファートを倒そうと思うなら、奴の周りに群がる人間共の内、何人かは一緒に倒さざるを得ませんね。我々が一騎打ちを望んだとしても、奴が素直に応じるかは分かりませんし......」
「そっか。厄介だね。軍勢率いて王都攻めて皆殺しにしちゃうしかない?」
「それか王都にひっそり侵入して闇討ちですが、それも難しいんですよね。力を最低限に抑えて人間のふりをすれば侵入自体は出来ます。だが戦いとなれば、絶対に全力解放しなければなりませんから」
「必然魔族の姿に戻るし、勇者の護衛みたいな奴らがすぐにやってくるか......」
勇者ウォルファート・オルレアンに戦いを挑む日がきたとしても、乗り越えなければならない問題が幾つもある。それについて思いを巡らすのは中々しんどいけど、自分が大人になったみたいで嬉しくもある。義父さんも僕を子供扱いせずきちんと話してくれるし。
夜風が何度か窓の外の枝を揺らす音がした。どこかの窓を閉め忘れたのかな、と思い僕が床に降りた時に、ポツリと義父さんが呟いた。
「一度王都に侵入してみますか。敵情視察も必要ですし、奴の現状を知っておきたい」
「ほんと? うわ、ちょっと楽しみだな。この村何にもないから王都見てみたいんだよね」
「若様、遊びに行くのではありませんよ。それに今すぐの話ではないですからね」
義父さんにたしなめられてしまったけど、僕の心はまだ見ぬ王都に飛んでいた。人間最大の都市らしいし、きっと珍しい物もたくさんあるだろう。それに将来僕が攻め落として支配するかもしれないんだ。ちゃんとどんな場所か知っておかなければならないしね。
(双子共がどんな顔しているのか拝むいい機会だな)
もしかしたら、二人は僕のライバルになるかもしれない。そんな奴らの様子には興味もあった。
お前らも実の親がいないんだってことしか、僕は知らないんだ。どんな顔してるんだ? どんな生活してるんだ? 何を目標に生きているんだ?
聞けるとは思えない。だから、こちらから観察するだけにしてやるよ。




