アリオンテ 1
「アリオンテ。しばしの別れだ。なに、心配するな、すぐに勇者を蹴散らして戻ってくる」
父さんはそう言って、たくましい腕で僕を抱きかかえてくれた。僕と同じく四本の腕がある父さんの抱っこは普通の抱っこより安定感があるらしい、と知ったのは物心ついてからだ。
でも、いつも僕を抱きかかえてくれた腕は、その時微かに震えていたような気がした。
「やだ、やだよ! 父さん、僕も行くよ!」
嫌な予感がした。服の裾にしがみついて、僕は父さんから離れまいとした。けどそんなささやかな抵抗も虚しく、僕は父さんから引き離された。引き離した張本人は僕もよく知る魔族の男--ワーズワースだ。
「ワーズワース、息子を......アリオンテを頼んだ」
「......ハッ、この身に代えましてもお守りいたします」
父さんとワーズワースが頷く。父さんは力強く。ワーズワースは幾分無念そうに。父さんから離れたくなくて僕は暴れた。だけど僕を引き取るように抱き抱えた彼の力は強くて、ちっとも動けやしなかった。
平原を駆け抜ける風に乗り、戦場の音が運ばれてくる。武器がぶつかる音、悲鳴、魔法がぶつかり合う破壊音。五感を刺激したのはそれだけじゃない。
生臭い血臭もまた風に乗って、僕の傍を流れていく。まるで空気が紅く濡れたような嫌な気分がした、と思った時には父さんは僕に背を向けていた。
「止めて! 行かないでー! 離してー、ワーズワース!」
「若様、御免!」
長い黒髪をなびかせてワーズワースが僕を抱えて走り始めた。その方向は父さんがいる方角とは逆。
戻れ、と叫ぶ僕の悲鳴に込めた願いとは裏腹に、見る見るうちに父さんの背中が僕の視界の中で小さくなってゆく。
金属鎧に包まれた背中はいつも僕の傍にいてくれたのに、もうあんなに小さくなってしまった。剣や槍や斧や魔法杖を握る四本の腕はいつも僕を守ってくれたのに、もうあんなに遠くなってしまった。
悲しさが胸を満たし、悔しさが涙を流させ、嫌だと渦巻く感情は僕の全身を揺さぶる。抱えられた不自由な姿勢から無理矢理僕は叫んでいた。全身の力を意志でかき集めたような声が、喉からほとばしる。
「とおさああああん!! やあだああああぁああ!!」
--さらばだ、アリオンテ--
戦場の風に乗って聞こえてきた父さん--大魔王アウズーラの声は今も僕の耳にこびりついていた。
******
「!」
自分の喉からヒュウと細い呼吸音が漏れていると気づいたのと、起きたんだなと気づいたのはどちらが先だっただろうか。羽織っていた毛布はいつのまにか粗末なベッドから滑り落ちており、秋の夜の冷たい空気に僕は晒されていた。
(ああ、またあの時の夢か)
暗い天井を眺めながら僕は考える。何度夢に見ただろうか、最後に本当の父親と別れた時の光景を。
何度も何度も見ているうちに、本当に正しい記憶は修正されて細かい部分は違ってきているのではないだろうかとすら思う。
薄目を開けて左を向いた。少し離れたベッドで眠るワーズワース義父さんは幸い起きなかったようだ。僕がこの夢を見て起きたことに気がつくと、いつも義父さんは心配する。それが申し訳なく、僕はまだ子供なんだと思い知らされるから嫌だった。
(気持ち悪いな。顔だけでも洗うか)
秋だというのに顔や脇に冷たい汗が流れていた。義父さんを起こさないように気をつけながら、僕はそっとベッドから離れた。
さくり、さくりと土を鍬で耕していく。最近雨が降っていないからか、僕と義父さんが持っている畑の土は軽い。時折ミミズが顔を覗かせるのは土中の栄養が豊富な証拠だ。
通常状態なら四本の腕も、人に見られては面倒なので二本は隠している。パッと見たところ、僕は人間の子供にしか見えないだろう。
秋も盛りだ。本来なら収穫だけしておけばいい季節の今、こうして耕作に精を出すのには訳がある。
人間界の野菜には、通常冬を越すことができる種類はない。だが義父さんが持つ魔族が食べる野菜の種は厳しい冬の季節でも育ち、春先に収穫の時期を迎える種類だ。この小さな村の外れに土地を持ってから、一年に一回しか収穫出来ない他の農家とは異なり、僕達は一年に二回の収穫を実行してきた。
だから秋は普通の野菜の収穫と並行して、もう一つの野菜の種まきの時期でもある。そしてその耕作の動作自体が僕の体力作りに役に立っている......らしい。
(武芸の訓練の方が楽しいんだけどな)
内心はちょっと不満だったりする。アウズーラ父さんから引き離されそれから間もなく戦死の報を聞いた時、僕は僅か三歳だった。今は七歳になった。
二年程前からワーズワース義父さんが僕に武芸や魔法を教えてくれるようになり、着実に実力はついてきている。その自負はあるのだが、日々の仕事を怠るわけにはいかないのがもどかしい。
(勇者と会ってからちょうど二年になるのかな)
鍬を持つ手を止めて汗を拭いながら、僕は別のことを考えた。魔族でありながら、いや、魔族だからこそまだ人間界に留まり続けている元凶の人間のことを。
ワーズワース義父さんの話では、僕達魔族は元々は人間界とは別の世界である魔界に属する生き物らしい。「これも勉強ですから」と言いながら、義父さんは僕に丁寧に教えてくれた。
魔界は大きく分けて三つの国から構成されるのだそうだ。
灼熱の王国たるイーズメラ、深森の民が住まうキュイオーン、黒水の公国と呼ばれるザクセロウの三つの国、それらがいつ出来たのかは今ではよく分からない程昔のことらしい。魔界の空は紫色で常に黒い太陽が中空に浮かんでいると聞いた時には驚いた。
"お日様は夜になったら落ちて代わりに月が出てくるよね? 人間界と違うの?"
"若様は人間界生まれですからご存知ないのですよ。私は初めて魔界から人間界に来た時、空の色も太陽の色も昼と夜という概念があることも全てが驚きでした"
義父さんが言うように、僕は魔界のことを知らない。母は純血種の高位魔族だったらしいが、僕を産んですぐ病で亡くなったらしい。だから母の顔も知らない。「それは若様が悪いわけではないのです」と義父さんは慰めてくれる。そして慰めながらまた話し始めるんだ。
魔界の三つの国はそれぞれ仲が悪く、長年に渡り争ってきたそうだ。戦いというものは一度こじれると元の原因などどうでもよくなり、遺恨が遺恨を呼び戦い自体が目的となる。その説明をした時に、ワーズワース義父さんは渋い顔をしていたな。そしてアウズーラ父さんが自分が生まれ育った灼熱の王国イーズメラを出て人間界を欲した理由も、その長年の戦争らしかった。
"人間界を統合し彼らの持つ技術、資源を取り込み魔界の戦争に終止符を打つ"
そうぶち上げたアウズーラ父さんは、自分の意見に賛成した魔族と共に人間界へ飛び出した。
敵対するキュイオーンやザクセロウの国からも少数だけど父さんに賛成する者はいて、それぞれの国を裏切りついてきたらしい。もしこれが成功したならば、本当にアウズーラ父さんは魔界統一を成し遂げていたかもしれなかった。
だが、その夢は勇者と呼ばれる一人の人間の忌ま忌ましい活動によって潰えた。父さんがせっかく掌握しかけていた大陸全土の大きな都市や街も、勇者とその解放軍により奪還されていった。凡そ十年に渡る大魔王率いる魔王軍と勇者率いる解放軍の戦いは、スーザリアン平原の決戦で父さんが討ち取られることで決着を見たんだ。
魔王軍の敗北。それ即ち生き残った魔族にとっては地獄の開始だ。
魔界に戻ろうにも国を捨ててきた以上、人間界を制圧しない限り合わせる顔がない。おまけに人間界と魔界の移動にはその領域が異なる。だから、かなり特殊な条件下で転移魔法を使うしかなく、それを実現させるのが難しいのだ。そうした技術的な意味でも、戻れない魔族がかなりたくさんいた。
スーザリアン平原から命からがら逃げ出しても、血眼になって捜し回る人間達の軍隊から逃げ切るのは難しい。戦いの傷も癒えない内に引っ捕らえられ有無を言わせず処刑された者、問答無用で見つかりしだい殺された者がほとんどだと、ワーズワース義父さんは無念そうに語ってくれた。
「勝った者が全てを奪い負けた者は全てを失う。それが戦いです。一度刃を交えたらそれは不可避」
「じゃあ父さんは負けたから勇者に殺されてしまったの? 弱いのが悪いってこと?」
僕の問いに対して、義父さんはすぐには返事をしなかった。その緑色の目を一度閉じて、どう答えるべきなのか考えこむような表情になった。
「アウズーラ様は弱くありませんでした。恐らく一対一なら勇者より上だったはずです」
「じゃあ何で負けちゃったのさ。僕ずっと信じてたんだよ。さよならって言われても父さん帰ってくるって。僕を、一人ぼっちにしないって......信じてたのに」
「若様......」
その時何故義父さんが何も答えようとしなかったのか、何故言葉を濁しただけだったのか。今なら分かる、それはそれを言っても、僕が救われないことが分かっていたからだ。
いくら一対一で強くても、勝負には時の運というものがある。それに多勢に無勢ということもある。
あの時、父さんが義父さんに僕を預けたのは、魔王軍が圧倒的に不利な形勢に追い込まれていたのが分かっていたからだ。魔族の方が基本的には人間より強いけど、鍛えた人間はそれなりの力を身につける。そんなのが百人や二百人もいたら、いくら父さんでもかないっこない。
だけどその時の僕はまだ小さくて、そこまで考えが至らなかった。どうあっても父さんにはもう会えないんだ、もう抱っこもしてもらえないんだと痛感した時、僕の目からはぽろぽろと涙がこぼれてしまった。
(うわ、恥ずかしいな。僕はアリオンテ、大魔王アウズーラの息子なんだ、泣いてなんかいられないのに)
そう思い必死で涙を隠そうとした。けれど僕の赤い目からこぼれる水滴はどこから沸いてくるんだろう。不思議な程に拭う袖に染みを作る。
こんなことじゃあの世に行った父さんに笑われてしまうと思っても、いや、思えば思う程に袖の濡れた箇所は広がってしまった。
「若様、及ばずながら、私がアウズーラ様の代わりになれるよう努力します。もし勇者が憎いのならば、お父様の敵を取りたいという願いが折れぬならば、共に強くなり勇者の首をこの手で取りましょう。私には......非力な私にはそれしかお約束出来ず申し訳ない限り......!」
ワーズワース義父さんの声が聞こえたと思った時には、僕は義父さんに抱きかかえられていた。身長が2メートルあった父さんよりも義父さんは小さいけど、それでも180センチは軽くある。少なくともまだ小さな僕の体を包み込むには十分過ぎた。
義父さんの胸に顔を押し付け、僕は涙をこらえようとした。義父さんの愛用の黒いマントがふわりと肩にかかる感触があり、戸惑い気味に僕の頭を掌が撫でるのが分かった。
父さんとは違うけど、でもその掌から伝わる熱に少しずつ少しずつ僕の気持ちが鎮まっていく。嵐がそよ風になるように、荒れた海が凪ぐように。
「辛い時は泣いて下さい。そして涙を糧に強くなって下さい。私がアリオンテ様の杖となり剣となり、お側におります」
ぎこちないけれど精一杯のワーズワース義父さんの優しさが僕を救ってくれたんだな、と今なら思える。だから僕は--強くなりたい。
アウズーラ父さんの敵を取る為に。
ワーズワース義父さんの気持ちを無駄にしない為に。
勇者を倒せるくらい--強く。
「しかしこの農家みたいな生活していて、勇者に復讐なんかする日が来るのかな」
回想から現実に意識を引き戻し、僕はもう一度鍬を持ち上げた。土がぽろぽろと鍬の刃からこぼれ、それが落ちない内にガツンと耕作地に叩きこむ。単調で疲れる作業だが、こうやって土を柔らかく掻き混ぜ空気を送りこまないと良い野菜は育たない。手は抜けない。
(人間の村にこんな形で入りこんでもう三年目になるのか......)
そう、父さんが知ったら目を剥きそうな状態で、ワーズワース義父さんと僕は暮らしているんだ。勇者を監視できるように、あまり離れた場所には住んでいない。あの忌ま忌ましい王都から西へ歩いて三日程の距離にあるこの小さな村に、僕達は住んでいる。ほんとは人間なんかと一緒に住みたくないけど、ずっと岩山や森の中にいるのも窮屈だから仕方ない。
「アリオンテ様の生活と教育の為ですからね。致し方ない、勇者に復讐を遂げるまでの辛抱です」と義父さんは渋る僕に言ったものだ。こういうことを大人の言葉で必要悪というらしい。幸か不幸か、魔力を極限まで抑えこみ尖った耳を隠せば、魔族は人と見た目はほぼ一緒だ。僕の四本腕も普段は二本しか生やしていない。便利なことに、使わない二本の腕は体内に取り込むことが出来るんだ。
まず義父さんが持っていた貴金属を換金した。そのお金で空いていた農地と空き家を買った。
母のいない親子を装った僕達二人に、村の人間達は親切だった。事あるごとに野菜や肉をくれたり、農作業の知識を教えてくれる。うん、まあ......嫌だけど、それはそれとして享受しているんだ。
敵ではあっても恩は恩です、と義父さんに真面目くさった顔で言われたら従うしかないじゃないか。
迷いを振り払いながら、持ってきた水筒を開けて口の中に水を注ぎ込む。農作業で疲れた体にただの水が甘露のように染み込んでいくのが嬉しい。
大魔王の息子でありながら僕の生活は平々凡々だな、と自嘲するけど仕方ないじゃないか。復讐の前にまず生きなければならない。それが出来なければ野垂れ死にするしかないんだ。
そんな拉致もないことを考えていると、畑の向こうから二人の男がこちらに向かって手を振ってきたのが見えた。農作業用の粗末な服がよく似合う日焼けした彼らに愛想笑いを返しつつ、僕も手を振る。
「おーい、リオン。精が出るなあー。よかったらうちで取れたジャガ芋少し持ってけー」
「秋梨がようけうちで余っとるから後で持ってったるわー。甘いぞー、うちの梨はー」
「いつもありがとうです、おじさん」
リオンという仮の名で呼ばれることにも、作り笑いでやり過ごすことにも慣れてしまった。僕が本気になったらお前ら人間なんかイチコロなんだぞとは思うのだけど、一応今は村の一員として生活している以上それは思うだけに留めている。
「いっつも礼儀正しいなあ、リオンはー。うちの馬鹿ガキ共とは全然違うのお」
「そらおら達と違ってウェインに学があるからじゃろうよ。男手一つで立派なもんじゃー」
うん、ワーズワース義父さん(ウェインと今は名乗ってるんだけど)を誉めてくれるのはいいんだけど、もうそろそろ帰ってくれないかな。僕、畑仕事残ってるしさ。そろそろお前らの相手する忍耐切れそうなんだけどなー。




