ラウリオ・フェルトナー
「ユーリッ!」
僕と共に前衛を組んでいた女戦士が壁際まで吹っ飛ばされた時、思わず叫んでいた。いや、前衛を組んでいたというのは適切ではない表現だな。ケルベロスのブレスで一網打尽になるのを恐れて、四人全員が隊列を崩してその間隔を広げたのだから。
けど僕とユーリが崩されればパーティーが崩壊するのは事実だ。ディストとゲイルの防御力はたかがしれている。大人の牛ほどもある三つ首犬の魔物--ケルベロスに攻撃されれば一たまりもないだろう。
(だが......まさかこれほどまでとは!)
確かにユーリは重量級の戦士じゃない。女性なのでそもそも体力的に全身を覆うフルプレートなどは重過ぎる為、鎖で編んだチェインメイルを装備しているに過ぎないし、盾も持っていない。だがそれでもレベル20以上あるいっぱしの戦士だ。それがただの一撃で吹っ飛ばされるなんてどんな力なんだよ。
グルルと不気味な唸り声をあげながら、ケルベロスがこちらに向いた。全部で六つの目が全て僕を見ている。身がすくみそうになるがそれを押さえ込む。戦う前から気圧されていては話にならない。昨夜ウォルファート様に言われたばかりだろ、しっかりしろ自分。
「補助呪文頼む、ゲイル。ここで食い止める」
「分かった、頼むぞ」
後ろのゲイルに呼びかけながらユーリの姿を素早く視認した。ちょうどロリスらが拘束されている左の壁際近くに転がっていたけれど、立ち上がる姿が見えた。ダメージは受けているだろうが戦線離脱まではしていない。早いとこ回復してくれよ、と祈りながらケルベロスの動きを注視する。
こちらを軽く見ているのかすぐには襲ってはこない。その気になればユーリを攻撃してから僕に向かってくることも出来ただろうがそれをしない。並の犬とは違い人間と同じ程度には知能があると言われているケルベロスだ。こちらの出方を伺い不用意な接近を避けているのかもしれないが、いきなりユーリを叩いたにしては慎重過ぎる。
(それならそれで助かる)
三つ首がそれぞれ持つ鋭い牙を相手に文字通りドッグファイトに持ち込まれれば、成す術はない。数の利を生かし何とかこちらに有利な状態に持ち込まないと勝てない相手だ。まあユーリの回復まで待ってくれる程にはこのまま睨み合いはないだろうけど。
「防御強化をかけた、前で粘ってくれ」
ゲイルが僕にかけてくれた文字通り防御力を高める補助呪文が僕を包む。青い光が盾とハーフプレートに宿り、それだけでも気休めにはなる。いくらケルベロスの攻撃でもこれで一撃死はない、と思いたい。「俺にはあんまり期待すんなよ」というディストには「牽制だけでも頼むよ」と言っておいた。
もし勝機があるとするなら、僕やユーリが前で粘っている隙にゲイルが攻撃呪文を当ててダメージを重ねるという形しかないだろう。それも単発ではなく連撃でだ。そういう意味では、戦闘直後にウォルファート様が遠隔攻撃でケルベロスにダメージを与えてくれたのは幸いだった。致命傷ではないにせよ、背中や首からだらりと血を流している姿を見れば効果はあったらしい。
ケルベロスが一歩前に出る。
それに応えるように僕も一歩前に出る。
この時には全ての注意力を戦いに注ぎ込んでいる。敵がブレスを吐く様子がないことは、やや身を低くしていることから分かる。こちらを侮りはしていないものの必要以上に警戒はしていないことは、リズミカルに尻尾を振り目を爛々と輝かせていることから分かる。そうだろうな、リッチの言葉通りお前から見れば僕達なんか餌にしか見えないだろう。
だけど大人しく食べられてやるような趣味はないんだ。
間合いが詰まったと思った時には既にケルベロスの牙が迫っていた。予想以上に瞬発力がある。意外に首の筋肉が柔軟らしく、前に伸ばして獲物を捉えようとしてくる。人間の体とはその辺りが違うんだけど--
「チィッ!」
こちらも全くのど素人じゃない。その警戒はしていたから体が勝手に動く。左手のラウンドシールドで相手の顔面を払うように殴りつけ、そのまま回りこみながら剣を振るった。これは残念ながら外れ、ケルベロスの反射神経が上回った。だけど相手の返しの一撃は鎧の肩の部分を掠めたに過ぎない。手傷にはなっていない。
やれるか。いや、やるんだ。ここで僕が粘らなくてはほんとに全滅しかねない相手だぞ。
"お前は自分に自信持てよ。努力したんだろ"
ウォルファート様がかけてくれた言葉が不意に甦る。ここ一年、確かに燻っていた。いくら修練を積もうと、イヴォーク侯の私兵として荒事をこなそうとレベルははほとんど上がらない。そりゃあ生活するだけならレベル28は十分に過ぎる。別に上に行かなくても全然大丈夫だからという見方だってあるし、周囲の人もそう言ってくれる。
(だけどそれだけじゃ)
咆哮しながら噛み付いてきたケルベロスの牙を必死でかわす。ナイフばりの大きな牙が強靭な顎の力で刺さればどうなるか、子供でも分かる理屈。ゲイルの補助呪文があっても軽視出来ない。
(--何の為に剣を振るってきたのか)
僕だってなれるものならば勇者様みたいになりたかった。いや、今でもなりたい。現実的にもう限界値が見えてきた今でも、僕はまだ初めて剣を握った時の興奮を忘れられない。いまだに夢の途上にいる子供、英雄譚に憧れる少年と笑われるかもしれない。
何度も諦めようとした。でもそれが出来ないまま、自分にどう折り合いをつけていいか分からないまま僕--ラウリオ・フェルトナーはここにいる。夢と現実の両方を飲み込めないまま、仲間の命を背負っている。
ゲイルの攻撃呪文、火炎球が飛ぶ。ケルベロスは身を捻ったがかわしきれず、その身を焦がした。ギャアギャアと汚い吠え声が耳に突き刺さる。ここで攻めるか、と僕はロングソード+3を構えた。
"お前はもっと自分を誇っていい"
ウォルファート様の声に僕はどう応えればいいんだ? 自信は......ない。だけど、ウォルファート様があの時まっすぐかけてくれた言葉は。あの言葉は誇りに思っていいんじゃないか。少なくとも人類最強の勇者様が言ってくれたのだ、信じなければ罰が当たるだろう。
「ぃいいいいやあああああああっ!!」
思いきり固い床を蹴った。右手を引いた構えから繰り出されるのは突き。自分の剣術の中では一番自信のある攻撃だ。まだ床から立ち上る轟々と燃える火炎球の余波を隠れ蓑にして、全身全霊で全速の攻撃を刃に込めて突きを繰り出した。
「ギィィィアァァア!」
「やった!?」
明かりに舞い散る赤い血飛沫、そして何とも表現しがたい魔犬の悲鳴。手応え、殺った、いや馬鹿、ただ三つある首の一つをまともに切り裂いただけ。避けろ、自分!
手傷を負わされ怒りに燃えるケルベロスが突進してきた。全力で放った突きの直後で体勢が崩れていた僕には回避する暇はない。胸の辺りに二つ残った頭から思い切り当たられて、軽々と持って行かれた。
「ごっ--」
自分の体ってこんなに軽かったか。防御強化をかけてもらったのが信じられないくらい強烈な打撃が鎧の胸部を通して体に通り、息が詰まり心臓が止まりそうになる。後ろが一瞬見えた。ディストが何か叫びながらこっちに向かってこようとしている。ダメだやめろ、あなたがどうにか出来る相手じゃあないんだぞ。
床に激突しそうなところを必死の受け身で回避する。靴の底が焼け焦げそうな摩擦音、足首にかかる負荷、いやだが考えるな。もしケルベロスに倒されたらあの体重差だ。一気に首に噛み付かれて終わるだけだ。
大打撃にもかかわらず倒れなかった僕に驚いたように、ケルベロスは追撃を止めた。そこにタイミングよく起き上がったらしいユーリが割って入る。長尺武器であるハルバードを振り回しケルベロスから僕を遠ざけるように牽制してくれているのか。
「ラウリオ、あたしが壁になるからあんたは早く回復薬飲んで! 早く、長くはもたないよ!」
「っ......!」
荒い息を吐きだしながら助かったという気持ちのまま、すぐにポケットを探り回復薬を取りだし一息に飲み干した。空の瓶を放り出しながら戦況を見るとユーリが何やら呪符のような物を取り出して、ケルベロスに叩きつけていた。あれは確かロリスが使っていたものじゃなかったかと気づいた時にはまばゆい閃光が闇を駆け抜け、バチバチッという音を立てながら電撃のような屈折した光がケルベロスの体に絡み付いていた。
時折激しく明滅する光の源は、ケルベロスの胸の辺りに張り付いた白い紙だ。あれをユーリは投げつけたのか。何やら呪文のような文字が書かれているのが見えた。ウウウ、とそのまばゆい光の網に捕われたケルベロスが憎々しげに唸る。ダメージを受けたというよりは動きを阻害され上手く動けないように見えた。
「はあはあ、やってやったよ」
ユーリが荒い息を吐き出す。一瞬壁際で拘束されたままのロリスを見ると少し首をもたげながら笑ったように見えた。そうか、ユーリがさっきあっちに飛ばされた時に自分の持っていた術式を書きこんだ呪符を渡したのか。不死者に対するスペシャリストと思われがちな退魔師だけど、こんな手も持っていたとは。
「よし、絶好の機会だ。この隙に」
僕の言葉は最後まで続かなかった。動きを封じられたケルベロスがその残る二つの首を揺らし、ぐいと後ろに引いたのが見えたからだ。コ......コオオオと空気を震わせるような呼吸音が奴の牙の隙間から聞こえてくる。まずい、あれは間違いなく。
「ブレスだ、避けろおっ!」
ディストの叫び声が聞こえた。反射神経に任せて僕は右に、ユーリは左に跳ぶ。まだ完治していない傷が痛むがそんなの庇っていられるか。ケルベロスの口から放たれる高熱ブレスなんかまともに喰らったら重度の火傷は免れない。
「間に合え、水刃!」
ケルベロスのブレスがほとばしるのと後方からゲイルが呪文を撃ちこんだのはほぼ同時。その名の通り、水を刃のように超圧縮し敵を切断する攻撃呪文が僕とユーリが回避したその空間に殺到する。人の身長程もある青白い水の煌めきが怒涛の勢いでケルベロスを飲み込もうとするが、二つしかない口から魔犬が吐き出したブレスはこちらの想像を超えていた。
ケルベロスを飲み込む勢いで殺到した水刃だがブレスの熱にはまさに焼け石に水だった。牙の隙間から放出された真っ赤な火炎が押し寄せる水と拮抗した時間は数秒程度、それを全て白い水蒸気へと変えて赤い火炎の奔流はこの部屋を舐め尽くさんとばかりに伸びていく。
炸裂する火炎が見えた。二人の姿はそれに飲み込まれたのかよく分からない。熱がここまで届く。火炎球何発分なのかという熱量に背筋が凍りそうだった。
「ディスト! ゲイル!」
あの射線なら二人はまともに直撃しているはずだ。ケルベロスからの距離が離れているから多少は熱もましになっているだろうが、それでも回避してでさえ頬が焦げそうなこの高熱の火炎ブレスを喰らえば無事であるわけがない。だが心配している暇があるなら動け、と己を叱咤する。
限界の壁? 自信がない? 剣を握る理由?
何だっていい、何を悩んでもいい、だけどそれも全て生き残ってこそ意味があるんだ。考えろ、そして動けラウリオ。今は僕の指示と剣に全てがかかっているんだぞ!
「ユーリ、ディストとゲイルの二人を回復させろ! ここは僕がやるから!」
「止めても無駄みたいだよね、任せるよ!」
僕は前に、ユーリは後ろに。もうロリスの呪符の効果も薄れかけたケルベロス目掛けて走る。二人の無事を願いつつ後方に走るユーリからケルベロスの注意をひくように。奴の視界へ横からスライドして入り込むように。それを認めた魔犬の赤い目が煌々と輝くのが見えた時には僕は思い切りロングソード+3を振るっていた。
行け、と魔力を込めた刃に全てを乗せて振り切る。フェイントすらしないただ叩き切るだけの一撃は僕の動きを見ていたケルベロスに避けられ宙を切り裂いたのみだが諦めない。前に出て圧力をかけ続ける、それだけ決めて更に二段目、三段目の攻撃を仕掛けていった。
やってやるさ、魂の最後の一滴まで!




