アイラ・オーリー
「安静に寝ていなければ駄目ですよ」
そう声をかけて私、アイラ・オーリーは部屋を出た。ゆっくりとドアを閉める時にベッドを見ると、白いシーツに包まった男性の薄茶色の髪がふて腐れたように窓の方を向いたのが見えた。その左肩に巻いた白い包帯にはうっすらと血が滲んでいるのが痛々しい。
(何をどうやったらあんな酷い怪我をする戦いをするのかしら)
首を傾げながらドアを閉める。宿の女将さんに先程手当を施した男性--勇者様ことウォルファート・オルレアン公爵だ--の下着と古い包帯を渡す。「大丈夫そうかい、勇者様は?」という心配そうな女将に「ええ。傷の治りは速そうです」と答えた私は一旦自室に戻った。今はシュレンちゃんとエリーゼちゃんの様子は、アニーと兵士の方々が交代で見てくれている。少し休んでもいいだろう。
「数日間はこの村に滞在よね」
足首まであるスカートをズボン型の部屋着に着替え、私はベッドに滑り込んだ。目を閉じると疲労と共に、昨日の朝の情景が甦ってくる。
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勇者様の負傷。
私がこの事実を知ったのは昨日の早朝だ。不機嫌の果てに寝ても何回か夜泣きを繰り返した双子ちゃんが夜明け近くにようやく眠りにつき、私も崩れ落ちるようにベッドに倒れていたところだった。
秋も深まるこの時期の朝、宿の主人に無理矢理叩きおこされた私の目に飛びこんで来たのは、ラウリオさんに肩を支えられたウォルファート様だった。 全身怪我だらけで、特に左肩からは赤い血が滴るウォルファート様の姿に、私は狼狽してしまった。
「詳しい事情は後です。とにかくベッドへ、包帯、薬草、湯を用意してください」
もしラウリオさんが強く言ってくれなければ、私は叫び声をあげていただろう。動揺した自分を恥ずかしく思いながら彼の指示に従い、ウォルファート様に応急手当を施し終わった時にはのぼりかけの朝日が地平線から顔を出し、一日の営みが始まり始める時刻になっていた。
「一体何がどうなってるんです」
「わかりません、とにかく勇者様が目覚めてから話を聞かないことには」
ラウリオさんも、見張りの兵士の一人から傷だらけのウォルファート様が帰ってきたと聞いただけで、慌てて駆け付けたという。一夜明けて今日になったがまだウォルファート様は口を開かず、怪我の理由は聞けずじまいのままだった。
(顔色はよくなっているし、大丈夫だとは思うけれど)
不機嫌な双子ちゃんも心配だし、重傷のウォルファート様も心配だ。しかしだからといって、私に何が出来るわけではなく兵士の方々と交代で面倒を見るしかない。もっとも兵士の方々は本業が警護なのだ。子供の世話を一時的とはいえ依頼するのは心苦しいのだが、この際致し方ないだろう。
シュレンちゃんとエリーゼちゃんの症状は、軽度の風邪のようだった。たいしたことなくて何よりだが、こじらせるとまずいだろうとは思う。王都まであと十日ほどもある。無理して飛ばせる距離でもない。
ウォルファート様の怪我もあることを考慮すると、あと数日間は滞在ということになるのかなと考えているうちに、うとうととしときた。多分、一時間程は寝ても大丈夫だろう。今はシュレンちゃんとエリーゼちゃんは兵士の方が見ていてくれるし、何かあったら起こしにくるはずと考えてシーツに包まる。そんな私が眠りに陥るのはあっという間だった。
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夢の中だ、と夢を見ながら気づくことがある。
ごく浅い眠りの最中に時折発生するそれは、それほど珍しいことではない。だからこの日、ウォルファート様のお怪我の手当を終えた私がそんな夢を見てもおかしくはない。
夢の中でウォルファート様は笑っているような、困っているような顔をしながらシュレンちゃんとエリーゼちゃんの面倒を見ていた。機嫌のいい時は二人とも天使のようで、本当に可愛らしい。私も、乳母という立場を忘れて愛してしまうことがある。
だけど、ウォルファート様は満面の笑顔じゃなかった。嬉しいのは嬉しいのだけど、どこかやれやれというため息が聞こえてきそうな、そんな顔。シュレンちゃんとエリーゼちゃんには気づかれないように隠そうとはしているけど、一緒に子育てした私には伝わってしまう。
困ったな、というように整った眉をほんのちょっとしかめて、それでも笑顔を作ろうとする勇者様。夢の中と知っていながら、私は少しそんな勇者様がかわいそうになる。
そうですよね。皆が皆、子供が好きというわけでもないんですよね。まして十年もずっと、ずっと身を粉にして働き続けて、戦い続けてようやく解放されたと思ったら。
押し付けられた形で双子の赤ちゃんを預かって。右も左も分からないのに、一生懸命子育てされて。
ほんとに偉いですよ。だから素直に可愛いなんて思えなくても、誰もウォルファート様を責めないですよ。ほんとに頑張ってらっしゃるのを--私、知ってますもの。
ああ、これは夢なのだと、私は現実感のない感覚の中で考えていた。だからだろうか、私は素直にウォルファート様を称賛出来た。夢だから。本人を前にしては恥ずかしくて言えない言葉を、思いの形のまま夢の中のウォルファート様に届けよう。
斜に構えたがって、強がって。言葉遣いも乱暴で、ちっとも勇者様らしくなくって。たまに行くお店の女の子と遊ぶ時が一番楽しそうな、そんな勇者様だけれど、私は知ってますから。
貴方が責任感が強くて、シュレンちゃんとエリーゼちゃんのことを真剣に考えてること。ぶちぶち文句いいながらも、二人がお腹壊して夜泣きしてた時は徹夜してでも看病して、私には「こんなんで倒れるわけねーだろ、戦場なら徹夜なんか当たり前だ」と隈が浮いた顔で嘘ぶいたこともありましたよね。
シュレンちゃんとエリーゼちゃんを連れて私が外に遊びに行ってお花を積んで帰ってきて、「あい、パパ」と二人が小さな手から勇者様にお花を渡した時なんか。「あ......ありがとな」てぎこちなく笑いながら、お花を受け取って、どうしていいか分からないままポケットに突っ込んで。夜、二人が寝てからその小さな白い花を取り出して「ちっ、粋な真似すんのは十年はえーんだよ」て憎まれ口叩きながら、顔をほころばせたりもしていましたよね。
それに自分だって余裕が無いのに、私の将来まで考えていただいて......ほんとに嬉しかったです。自信を無くして故郷に戻ってきた私が、今こうして王都へ向かおうとしているのは、貴方が背中を押してくれたからです。誰が何と言おうとそうなんです。
勇者様、私に勇気をくれた人。だから、願わくば勇者様にほんとにお似合いの方が現れて、身体だけの愛じゃなくて心も含めた愛を交わせるようになれますように。他の方の幸せの為に尽くした貴方だから、きっとそれだけ幸せになれる資格があるはずなんですから。
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ポツン
ポツポツ
(ん......)
ポツポツポツポツ
サアアア......
(ああ、雨か......)
夢を見ていた、と実感したのは、頭を振りながら半身を起こしてからだった。私がウォルファート様の包帯を替えてから休息の為にベッドに潜りこんだのは、確か昼過ぎだったと思う。
だけど、どれくらい時間が経過したのだろう。窓の外には細かい秋の雨が降り始めており、冷たい銀色の滴が窓ガラスを這っている。無意識の内にそれを目で追っていると、一匹のカタツムリが窓に張り付いているのが見えた。
夏ならともかく、寒さが増しつつあるこんな秋に活動していて大丈夫なのだろうか、とふと思う。
ああ、だがいつまでもベッドにいるわけにはいかない。私は部屋着をさっさと脱いでいつものロングスカートに履き変えると、部屋を出た。双子ちゃんも心配だし怪我を負った勇者様も心配だし、それにアニーも心配だ。現状無事なのは私だけだ、宿のご主人やラウリオさん達に甘えているわけにはいかない。
階段を下りて一階に着く。雨の湿った匂いが宿の壁を通して鼻に届く。ご主人には悪いが、あまり高級な宿ではない、風邪を引いているアニーや双子ちゃんにはあまり良くないのではないかと、余計な心配をしてしまう。しかし一階に下りた私を出迎えたのは、その心配の対象だった。
「あれ、お姉ちゃん起きた? お腹空いてたらお昼の残りあるよ」
「アニー、あなた起きていていいの? 体調は?」
「ま、ぼちぼちかな。さすがに全快じゃないけどね、動けないほどじゃないから」
アハハ、と笑いながら妹のアニーが椅子に座り直す。確かに彼女が言うように全快にはほど遠いようで、まだ顔は白っぽいしハシバミ色の目にはまだ力が無い。だけど、二日前に村に着いた時に比べたらだいぶましだ。あの時は返事をすることすら億劫な程ダウンしていたのだから。
「シュレンちゃんとエリーゼちゃんが微熱出してたから、兵士の人と一緒に汗拭いたりしてた。で、別の人と交代してきたところよ」
「熱、やっぱり出しちゃったか。仕方ないわね。頑張らないと」
ふう、と一つため息をついて私は額を手で抑えた。風邪のよくある症状だ、薬草を煎じて無理矢理にでも与えながら治るのを待つしかない。ただ、風邪で収まってくれれば、それはそれで幸運というべきだった。変な言い方だが双子ちゃんが体力が落ちた今、もっと危険な病気にかかる可能性もあったからだ。
「うん。あたしもだいぶましになったからさ、出来る範囲で手伝うよ」
「無理しないで、アニー。あなたまだ治りきってないんだから」
私の言葉にアニーは神妙な顔をして頷いた。いつもは生意気なこの子にしては珍しいこともある、と思っていたらちょっと顔を背ける。
「それはそうだけどあたし、足手まといにはなりたくないもの。勇者様が怪我して大変な時だし、ちょっと体調悪いくらいで泣き言言ってたら、父さんや母さんに馬鹿にされちゃうよ」
驚いた。どうやら私の妹にも意地というものがあるらしい。確かにうちの両親はアニーの王都行きにいい顔はしていなかったが、アニーはそんなこと気にしていないと思っていた。だが、彼女なりに思うところはあったらしい。
(意地っぱりなところは私そっくりね)
リールの町を飛び出した時の十六歳の自分を、今のアニーに重ねる。十九歳か。まだ子供だと思っていたけれど、自分の意志を通す為の責任感はしっかり培ってきたようだ。いつも私の後をついてきていた妹はいつの間にか自分の足で立ち、その頭で考えられるようになっていたらしい。それが素直に嬉しくなり、私はアニーの頭をぽんと叩いた。
「よっし、それだけ言えるなら大丈夫かな。じゃあアニー、ウォルファート様の様子見てきて。包帯の替えはまだいいから、お水だけ差し上げてね」
「お姉ちゃんは?」
「双子ちゃん見てくるから。兵士の皆さんにも悪いし、ここは頑張らないとね」
「ですよね、お義母さん」
ずびー、と鼻をかみながらアニーが笑う。そうだ、王都に着くまでは私があの子達の母親なんだからちゃんとしないとね。改めて思う、きっとこの体調不良は私が、シュレンちゃんとエリーゼちゃんとじっくり触れ合う最後の機会なんだと。
ウォルファート様に誘われて何となく家事手伝いとして働くようになって。彼とメイリーンさんと一緒に、一年間頑張ったあの日々は忙しかったけど楽しかったな。
そしてメイリーンさんが妊娠されたのをきっかけに私が乳母になって、双子ちゃんの面倒を見るようになったこの一年四ヶ月。
それは、自分の人生を見直すいい機会になっていた。理解のある勇者様に励まされ、双子ちゃんと一緒に遊んで笑って、アニーと協力してきたんだ。大変だったこともあるけれど、私は幸せ者だと思う。いつも私の周りには、いい人達がいたから。
「先に二階行くわね。勇者様をよろしくー」
アニーの方は振り返らずに、私は二階への階段を上った。至らないところだらけの母親役だったけど、せめて最後まできちんと努めよう。それが私に出来る唯一の恩返しなんだから。
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「いやー、アイラさんいなかったら詰んでましたよね。ほんと」
「そんなことないですよ。ラウリオさん達にもたくさん助けていただきましたもの」
あれから四日、私達はようやく回復した私達は村を出発した。双子ちゃん達が馬車に閉じ込められているのは良くないということで、時々兵士の方がおんぶ紐でどちらか片方を背負うことにした。
私もたまには馬に乗りたいので兵士の方に貸していただいた馬に乗っている。馬上から見る風景は視点が違うから新鮮だ。
「おんま! おんま!」
「あっ、危ないから暴れないで!」
私の前を行く兵士の方の背で、秋仕様の暖かい幼児用の服を着たシュレンちゃんが騒いでいる。すっかり元気になったようで先程からやかまし......いえ、賑やかです。キャッキャと笑うシュレンちゃんの声に周囲の兵士さん達は時折笑顔になっているけど、背負っている方は大変そうだなあ。
「まあ我々の本来の仕事ではないですが、勇者様とそのお子様達の体調不良とあればね。万が一があっては大変ですから」
私の少し前をゆくラウリオさんは、そう言いながら馬車の方を見た。今は片方にアニーとエリーゼちゃんが乗って、もう片方にウォルファート様と私が馬を借りた兵士の方が乗っている。元気になったエリーゼちゃんがこちらに手を振るのが見えたので、私も笑いながら手を振った。
「不思議ですね、人生って」
「急にどうされましたか?」
私の呟きにラウリオさんが反応した。馬上は基本暇だ。少しくらい話してもいいかもしれない。
「十六歳でリールの町を飛び出した時には、五年後に世界を救った勇者様と一緒に王都を目指しているなんて想像もつかなかったです」
「ああ、それはそうでしょうね。差し支えなければ、少しお互いに昔語りなどしませんか。今更な感じですが」
「いいですよ、じゃラウリオさんからどうぞ」
「いえいえ、レディーファーストで」
ポクポクという軽い蹄の音、そこに私達の会話が混じる。王都までの街道はひたすらに前に伸び、草原の中を突っ切っているのが見えた。王都まで約十日間だ、旅が無事に終わりますように。




