セラ・コートニーのある一日の話 2
うう、卵は、茹で卵はしばらく見たくないです。白い卵の殻の色が襲ってくる。
その日の午後、私は案の定と言うべきかうなされていました。朝食で大量に出された茹で卵の山、それに無謀にも立ち向かった結果です。勇者様と双子ちゃんが見守る中、二十個までは頑張れたのですがそれが限界でした......
「セラ、うなってるねー」
シュレンちゃんが心配そうに覗きこんできました。椅子にもたれかけている私は力無く微笑むしか出来ません。ごめんね、シュレンちゃん。
「--卵、たりないの?」
エリーゼちゃんの問いに首をぶんぶん振って拒否します。断固拒否! あり得ない、あり得ません!
「も、もうお腹いっぱい過ぎて食べられないです。ありがとう、シュレンちゃん、エリーゼちゃん」
「もしかして」
双子ちゃんの後ろからウォルファート様が聞いてきました。
「--俺が言い出したから無理した?」
ぐっ、答え辛いです。まともに「はい」とも言えず、何となく曖昧に視線を逸らすことで気持ちを伝えます。あ、勇者様にはそれで伝わったみたいです。目だけで謝ってくれています。いいんです、お気持ちはとても嬉しかったですから。
「シュレン、エリーゼ。セラ、ちょっと卵で頑張りすぎたからさ。休ませてやろう。俺が代わりに遊んでやるから」
「うん!」「やったー!」
「それじゃ外で遊ぶか。暖かくしていけば大丈夫かな」
うう、すみません、ウォルファート様。せっかくのお休みなのに双子ちゃんのお世話をお願いしてしまって。ぐ、でもこの気持ち悪さじゃ無理です。ここは素直にご厚意に甘えてしまいます。
「すみません、双子ちゃんの外遊び用の服は子供部屋にあります。メイドさんに聞いてもらっていいですか?」
「分かった。とにかくさ、寝ろよ?」
「あ、ありがとうございますー」
ウォルファート様の暖かい気持ちが身に染みます。三人を見送った後、私はよろよろしながら自分の寝室へと戻りました。お腹が苦しいー。
******
「それでは二時間後に来ますね。気持ち悪くなったらそこの呼び鈴で呼んでください」
「はい、すみません」
そっと扉を閉めたメイドさんに答えつつ、素直にベッドに潜りこみました。横になると暴れていた胃がちょっとましになります。はあ......無理は良くないですね。
(でも贅沢な悩みですよね)
枕に顔を埋めます。だって満腹で気持ち悪くなるとか、昔だったらあり得ないですもの。今自分が寝ているベッドだって、双子ちゃんと三人で寝るからというのもありますけどすごく大きい立派な物です。清潔な白いシーツによく効いたクッション、ベッド周りの細工も凝っています。
もぞもぞと体をシーツに滑り込ませながら考えます。私、こんないい思いをしていいのかなと。形だけとはいえ、ウォルファート様の内縁の妻なんですよね。公爵様といえば貴族の最高位です。内情が双子ちゃんの世話係といっても、私で良かったのかしら......
(うーん、もう一つ分からないことがありますよね)
コロン、と反対側に体を傾けます。目の前のシーツをぎゅっと握りつつ考えるのは、ウォルファート様のこと。屋敷で雇ってくれるという話になった時、嬉しかった反面で内心は覚悟していたんです。何をって--その、男と女の仲というか夜のお話というか。
だって、若い女を召し抱えるっていったらそういうことも含むんだと思ってましたから。それに私は何も取り柄が無いし、それくらい仕方ないかなという覚悟は出来ていました。幸いにも勇者様は格好いいし、私なんかで良ければくらいの覚悟はしてました。
でも何にも無いんですよね。いえ、無いなら無いでいいんですが、拍子抜けしたというのもあります。メイドさん達にそれとなく聞いても「手出されたりしてないですよ」とあっけらかんと答えられてしまいました。
ご結婚もされてないし、周りの女性の召し使いにも手を出さない。特定の恋人もいらっしゃらない。時々女の子のいるお店に行ってくるくらいしか、浮いた話が無い。不思議な方だなあ、と思います。
昔、一度だけ私は勇者様に会ったことがあります。いえ、正確に言えば会ったというよりは遠くから見たですね。占拠していた魔王軍を追い払ってくれたウォルファート様の勇姿は今もはっきりと脳裏に焼き付いています。神々しい程に凛々しく、溌剌と指揮を取っていた勇者様。虐げられていた私達に激励の言葉と救援物資をくださり、勇気づけてくださいました。
「大変だったな。けど俺が来たからにはもう大丈夫だぜ。もう魔王軍の好きにはさせねーからよ」
そう言いながら皆に笑顔を向けてくれたのです。まだ小さかった私には--本当に戦神がこの世に舞い降りたようにしか見えませんでした。
ウォルファート・オルレアン公爵。
私は今、幸せです。
辛いこともたくさんありましたが、二度もあなたに助けてもらったのですから。
--本当にありがとうございます。
******
「セラ様、セラ様。起きてくださいな」
「ん、んんー......はっ、寝過ぎました!?」
メイドさんの声に思わず跳ね起きました。まだ卵のせいでお腹が張っていたせいか、呻きそうになりますがそこは我慢です。ベッドの横に立っていたメイドさんが驚いたような顔をしています。
「いえいえ、お約束通り二時間経過したので起こしにきたんですよ。寒くなりましたからこれをどうぞ」
メイドさんが渡してくれた肩掛けをもらった時、小さくクシャミが出ました。
はて? 今はお昼前になりますよね。朝よりは暖かくなっているはずなんですが。おかしいです。
肩掛けを羽織りながら静かにベッドから出ます。ほんとだ、部屋の空気が朝より冷たいです。
「あ、雪ですか」
「はい。先程から降り始めまして。ほら、あちらにウォルファート様と双子ちゃんがいらっしゃいますよ」
閉じた窓の向こうをメイドさんに言われるがまま見てみると、本当です。天からチラチラと降る白い雪の中、シュレンちゃんとエリーゼちゃんが喚声をあげながら走り回っています。雪の白がシュレンちゃんの黒髪にコントラストを描き、エリーゼちゃんの金髪には彩りを添えています。
窓越しなのではっきりとは聞こえませんが、キャーという元気な声がします。あら、でも二人とも風邪ひかないでしょうか。心配です。
「あ、何かなさるのかしら」
冷たくなった窓に額を押し付けて見ていると、勇者様が手を自分の前で合わせました。何か唱えているようにその口が動きます。あ、オレンジ色の光がその手から溢れました。それがふわりと広がって、遊ぶ双子ちゃんの周りを包んでいきます。あれってもしかして--魔法?
「何だか暖かそうですね」
「魔法なんでしょうねえ。私達には無縁ですが」
羨ましそうな顔でメイドさんも呟きました。そうなんだ、あれが魔法なんですね。今まで魔法って火の玉をぶつけたり、雷を落としたりする恐い物だと思ってましたが......こんな優しい魔法もあるんだ。
時々強めに風が吹いているのに、全然双子ちゃんは寒そうではありません。空気を暖める魔法なのかしら。やっぱり凄いなあ、勇者様は。
私もああいう魔法が使えたら便利なのですが。
そう思いながらウォルファート様の方を見てみます。面倒くさくなったのか、ポケットに手を突っ込んで庭木にもたれていらっしゃいます。あは、でもああしていると本当にお父さんみたいですね。子供の遊びに付き合うのにちょっと疲れたとでも言いたげに、でも言い出せずに不器用に黙ってらっしゃいます。
うん、私もこうしてはいられません。双子ちゃんの面倒を見るのは私の仕事なのですから。
「私も外に行きますわ。外套をお願いいたします」
******
結局雪はその日ずっと降っていました。ドカ雪というほど激しくもなく、ただ静かにシンシンと降ってくる雪は地面をうっすらと白く染めています。明日の朝には積もっているでしょう。
ようやく胃も普通になった私は午後は双子ちゃんと遊んでいました。流石にずっと外にいるわけにもいかないので、屋内でお遊戯したりが中心です。しょっちゅうどこかへ行きたがるし、お手洗いに連れていったり。大変ではないと行ったら嘘になるでしょう。けれど二人の小さな柔らかい手に触れると、何だか幸せな気分になれるから不思議ですね。
「ゆきまだふってるねー」
寝間着に着替えさせている時、エリーゼちゃんが私に聞いてきました。背中には私によじ上ろうとするシュレンちゃん。お、重い。
「そうね、きっと明日には積もってますよ」
「ゆき、ゆきー!」
「ゆきだるまつくろー」
シュレンちゃんとエリーゼちゃんが声を合わせます。二人とも元気ですね。勇者様が魔法で暖かくしてくれるので、余り寒くもないようです。
「そうですね、じゃあねんねしましょうか......よいしょっと」
双子ちゃんをベッドに運びます。結構重いんですよ。育児って力仕事です、世のお母さん達が逞しくなるのも分かります。
自分もベッドに潜り込み、双子ちゃんを寝かしつけます。もう赤ちゃんではないのでずっと一緒にいなくてもいいのですが、寝入る時にはしばらくいなくては不安みたいです。これで私に家事をする必要があったら"早く寝てほしい"と思うのでしょう。でもメイドさんが代わりにやってくれるので、そういう心配はありません。恵まれているなあ、と思います。
部屋の隅のランプが柔らかい光を投げかけます。ぎりぎりまでランプの灯は落としているので、私達が寝るベッドの辺りは薄暗くなっています。その光と闇が混じった世界の中で、私は双子ちゃんに話しかけました。
「むかーしむかし、あるところに--」
寝物語として話すのは私が昔聞いたお話です。まだ私に両親がいた時に母がよく話してくれた--たわいもないお話です。双子ちゃんに話しながら私は同じように小さな私に話してくれた母のことを、そして父のことを思い出しました。二人はもうこの世にはいません。そういう意味では私と双子ちゃんは同じ境遇なのかもしれません。
懐かしいような、悲しいような気持ちに浸りながらゆっくりと私は語り続けます。窓の外は雪、冬の夜を白く染める夜が広がっているのでしょう。
「--そうして王子様とお姫様はいつまでも仲良く暮らしました」
あら、お話が長かったのでしょうか。私が話し終わった時には、双子ちゃんはすっかり夢の国の住人になっていました。小さな、けれど深い寝息が聞こえてきます。もう大丈夫みたいですね。
少し迷った末、私はベッドから抜け出ました。まだ眠くはありません。ガウンを羽織り居間に向かいます。
「ああ、セラか」
「まだ寝付けなくて。入ってもよろしいですか?」
居間に入るとウォルファート様がいらっしゃいました。窓辺に陣取り、お酒を召し上がっています。お顔が少し赤いです。無言で手招きされるので、近くに寄ります。
「一杯やる?」
「いえ、私はちょっと。あの、お酌くらいなら出来ますのでよろしければ」
ウォルファート様は「じゃ、いただこうかな」とグラスを持ち上げました。私は傍らの大きなボトルを取り、お酒を注ぎます。コポリ、コポリという深みのある音と共に濃い飴色の液体がグラスを満たしていきます。
ふとウォルファート様の顔を見ると、その視線が窓の外に向かっていることに気がつきました。私がお酒を注ぎ終わってもまだじっと外をご覧になっています。そこに見えるのは夜の闇とふわりと降ってくる雪だけです。さっきに比べて雪が激しくなったように思います。
「雪、お好きなんですか」
ふとそんなことを聞いてしまいました。でもウォルファート様のお返事は--
「--どっちかといやあ嫌いかな」
かさついたような声でそうおっしゃいます。うなだれた時に薄茶色の髪がその横顔を隠してしまいました。
「ちょっとさ、思い出しちまうことがあってさ。あの日もこんな雪の夜だったなあって」
ポツンと。独り言みたいな言葉がその口から漏れました。低い声は感傷的な響きを帯びています。何か答えなくては、と思うのですが気の利いた言葉の一つも沸いてきません。結局、私は黙っていました。
「......ダ」
上手く聞き取れなかったのでしょうか。ダだけでは分からないのですが、ウォルファート様がフイと視線を逸らしてしまったのでそれ以上は聞くのは憚られました。何となく声をかけづらい、そんな雰囲気が漂います。
何も言わず、ウォルファート様はぐいとグラスを空にしました。カラン、とグラスの中の氷が音を立てます。それを眺めるように目を細め、ウォルファート様は「生きてりゃ色々あるよなあ」と呟きました。
「......すみません」
「何でお前が謝るんだよ」
「何だか勇者様が辛そうに見えたのに、私は--何も出来ることがなくて」
そう、今のウォルファート様はとても辛そうです。普段の陽気さは影を潜め、幾ばくかの悲しみと怒りが顔を強ばらせています。そういう感情を無理やりお酒で飲み下してるように見えました。どこか投げやりな悲しい目をしています。
「--いいんだ。たまにさ、俺も感傷的になる時もある。それは俺自身の問題だからセラが気にすることじゃねえ」
勇者様はまた窓の外に視線を向けました。窓に当たった雪が溶けて水滴になっています。それを硝子越しに指でなぞりながら、勇者様は目を閉じました。
「俺の現在にはもう関係ないことだしな」
「そう、なのですか」
ああ、もっと私が気が利いたなら。きっと何かウォルファート様の心の重荷を軽くする事が言えたと思います。でも実際は何も思いつきません。歯がゆいです。悔しいです。
あの日以来、私のウォルファート様を見る目が少し変わりました。欠点なんかどこにもなくて、いつも前向きで強い皆の勇者様なのは確かです。でもやっぱり人間なんですよね。時には悲しそうな顔もするし、痛みだってどこかに抱えているのでしょう。でなければあんな寂しい目はなさらないでしょう。
私は。
セラ・コートニーは。
そんなウォルファート様の支えになりたいなと強く心に誓いました。
あの方にあんな寂しい目は--もう二度とさせたくないです。