So long
信じられない思いで俺はヒルダの顔を見た。最後に彼女と会ってから十五年近く経過している。それでもこうして思い出せるということは、それだけ彼女が俺にとって印象深い......深すぎる人物だったということか。
「また会えたわね」
「ああ」
「やだ、気の無い返事」
短い言葉のやり取りをしつつ、頬に触れた彼女の手をそっと外す。別段残念そうでもなく、ヒルダはそのまま少し距離を取った。俺の複雑な感情が分かったのだろう。
自分から離れていくのが耐えられないから、殺して永遠に手元に置きたい。ヒルダはそんな自分勝手で残酷極まりない所業に及んだ。仲間を殺されつつも何とかその魔の手から逃れた俺は俺で、ヒルダを自分の手で殺して復讐を遂げている。
先に原因を作ったのが彼女の方なので罪悪感は全く無いが......こうして再会すると居心地が悪かった。ためらいつつも口を開く。
「幽界って、確か死んでからそんなに時間が経過していない魂がさ迷う場所じゃなかったか。何でお前がいるんだよ」
「いきなりそれ聞く? まあいいわ、答えてあげる」
鼻白んだような顔になりつつも、ヒルダは素直に答えた。薄水色の世界は静謐に俺達を包んだままだ。
「私ね、今は冥府のお使いしてるのよ。普段はこの魂の階層のもっと下......現世から遠い場所にいるの。時々幽界に現れる魂を導くために出向いてくるってわけ」
「俺を見つけたのは偶然?」
その問いにヒルダは無言で頷く。悪戯っぽくその目が光った。
「たまたまよ。でも今日は何となくいいことありそうな予感はあったの。自分の勘を信じてうろうろしていたら、あなたに会ったってわけ。幸運だったわ」
「幸運ねえ。因果応報とはいえ自分を殺した相手に会うことがか?」
「ええ。だって私、本当にあなたのことが好きだったもの。今でも好きよ」
あの世で愛の告白を受けるとは思わなかったぜ。しかし別に嬉しくない。全然嬉しくない。こいつの愛情がどれほど危険な物か、俺は身に染みて知っている。
何とも答えられず黙る俺を見て、ヒルダは小さく笑った。寂しそうな笑みだった。
「......こんなこと言う資格、私にはないわよね。もっと普通の形で好きになれたなら、あなたもあんなに苦しい思いをしなくて済んだし。今更許してほしいなんて縋り付かないけれど」
フッと翻り、ヒルダがその背中を俺に向ける。死んだ時と変わらない優美な細い背中は--孤独だった。
「いらっしゃい、ウォル。ここから出たいんでしょ? 案内するわ」
******
ヒルダの誘導に従い、俺はゆっくりと沈んでいく。これは比喩じゃない。幽界の水色の世界を文字通り、下へ下へと降下していったのだ。世界の色が色だけに、水の中をゆっくり沈むように感じる。
どこに連れていくのか、と聞くと「もっと深い場所」としか言わなかった。今は答える気はないのかと判断し、それ以上は聞かないことにする。その代わり、ポツポツと俺は自分の話をした。ヒルダを殺してから今までのことだ。間がもたないということもあったが、自分なりに自分の人生を振り返りたかったというのもある。
自分の軍を持ったこと。商会を運営し、力を付けて魔王軍に対抗したこと。アウズーラを倒したこと。
「でさ、何故か子育てすることになったのさ。それも二人」
「あら、あなた結婚したの? おめでとうと言うべきかしら」
「違う」
そう、むしろ真の戦いはこれからだという奴だ。シュレンとエリーゼの世話をし、メイリーンからアイラへと乳母が変わった。アニーも連れて王都に引っ越しをする途中、ワーズワースとアリオンテに会ったな。
王都で四苦八苦した挙げ句、セラを見つけて双子の新しい母親役になってもらったことを話すと、「きっとその子、あなたのこと好きね」とヒルダに断定的に言われた。俺は何も言わなかった。女の勘という奴は鋭いし、多分当たっている。どの程度セラが好意を持ってくれているから知らないが、嫌な相手が傍にいるならもっと態度に出るだろう。
「でも手を出さないなんて。ウォルって度胸があるのかないのかわかんないわよね」
「半分以上お前のせいだよ」
「え、何か言った?」
「--何も」
ヒルダのことがあってから愛情が怖くなり、ずっと誰か特定の恋人を作るのを避けてきた。けどそうさせた本人を前にして言うのは......ちょっと情けないからな。言えるかよ。
そんな俺の気も知らず、ヒルダは俺の話を聞きながらどんどん沈んでいく。時折ちらりと振り向くことはあっても、基本的には彼女はずっと背中を向けている。正直ホッとするよ。どんな面して話せばいいのか、分からないからな。
「でもウォルがお父さんしてるなんて驚きね。私が知ってるあなたってそんな感じしなかったもの」
「俺も驚いてるさ。父親なんて柄じゃねえと自分で思ってる」
「そっか。でも......私が普通にあなたに恋出来てたら、私、あなたの子を産んでたのかもね」
ほんの少し、ヒルダの声が湿った。俺は頭を振り、それを否定する。あんな経験をした後だ、想像さえ出来ない。けど一つだけ彼女に聞きたいことはあった。
「なあ、ヒルダ。お前、俺を自分の元につなぎ止めたくて殺そうとしたって言ったよな。あれは本心か? あんな真似しなくても、多分俺はお前をずっと......好きでいたのに」
裏切りの形があまりに鮮烈で忘れそうだが、確かに俺にも愛情はあったと思う。だからこの言葉は本心からだ。長年の疑念が口に出たってやつ。
「本心だったわ。自分でもよく分からなかったの。あなたが自分から離れていくことを想像したら気が狂いそうになってね。ああ、ダメだ。絶対どんな形でもウォルが欲しいって思っちゃった。他の人には好感は抱いても......あんなに狂おしく思わなかったのにね」
「......今更どうしようもねえだろ。やっちまったもんはさ」
苦い。心からはみ出た苦さが口に溢れた。あの時パーティーを組んでいた連中は、俺に巻き込まれて死んだようなものだ。その悔恨の念が消えず、ヒルダの寂しい背中に重なる。
魔がさす、という言葉がある。何故そんなことをしたのか、自分でも説明出来ない理不尽な行動を取ることだ。ヒルダもあの時俺への気持ちが深くなりすぎ、魔がさしたのかもしれない。結果それは俺に消えない傷を残し、彼女にも跳ね返った。彼女の胸に突き刺さった俺の剣は、今もその暗い事件を心に縫い止めている。
俺達二人が普通に愛することさえ出来たなら。
死後の世界で、お互いこんな形で会うこともなく。
真っ当に想いを重ねられたのだろうか?
その仮定を口にするのは躊躇われ、俺はただ黙ってヒルダの後をついていった。しばらくの間、殺しあった元恋人達は沈黙を抱いたままだった。
どれほど沈んだろうか。周囲の景色が徐々に変わっていることに気がついた。薄い水色が広がった空間は、その色を青みがかった灰色へと変えていた。それに水のようにただその色が広がるだけじゃない。建物か通路の壁面のように、黒い影が自分の周りを包んでいた。俺とヒルダはその影の中を歩いているわけだ。
「様子が変わったな」
「幽界の終わりね。そろそろ次の階層に着くわ」
「へえ。そこでいよいよ天国行きか地獄行きか決まるわけだ」
さすがにぞっとするが、減らず口だけは止められなかった。万が一地獄行きなんてことになったら、どんな責め苦を受けるのか知れたもんじゃない。
だがヒルダの「まだ分からないわよ」という言葉に拍子抜けした。
「え? だってもうそれしかないだろ。魂の行き着く先ってその二つじゃねえの?」
「あのね、ウォル。あなたはまだ死んだって決まったわけじゃないの。こうして幽界をさ迷っている魂の中には、まだ命の残数がある魂もあるのよ。そういう魂は--」
最後まで待てなかった。ヒルダに詰め寄る。
「--生き返る可能性があるってことか!?」
「そう。100%とは言わないわ、でもまだあなたは......あなたの魂は死に染まってはいないのよ。それはあなた自身の命への執着心もあるし--」
ふわりとその細い腕を伸ばし、ヒルダは空間を弾いた。水の波紋のような跡が広がり、そこに何かが写る。ガラス越しのようなぼやけた姿だが、それは俺がよく知っている者の姿だった。
黒い髪に黒い目の活発そうな男の子がしゃがみ込んでいた。地面に何か書いているようだ。それを脇から覗き込んでいるのは、ピンクがかった金髪の女の子だった。間違いない、シュレンとエリーゼだ。
そのまま視点が下へとずれた。シュレンが地面に書いている絵が見える。子供が棒で書いた絵だ、上手いはずがない。だがそれはどんな名画よりも俺の心に響いた。
中心にいるのは成人の男なんだろう。乱暴に描かれた髪が短い。その左隣にいるのは髪が長くて小柄だ。ああ、これはセラか。二人は手をつないでいる。その大人二人を囲むように、小さな人の姿が二つあった。そうか、こいつはシュレンとエリーゼか。
上手いわけがないこんな絵が。
なんでこんなに--胸を熱くさせるんだ。
じっと映し出された双子を見ている俺に声をかけることもせず、ヒルダはただ沈黙したまま、また軽く空間を弾いた。視点が双子の後ろを見るように移る。
シュレンとエリーゼを驚かせないように、そっと近づく女の姿が見えた。女の長い銀髪はその左目を隠し、青い右目が双子を見つけた。セラだ。そのままゆっくり近寄りシュレンの描いた絵を覗きこんでいる。
やっぱり俺の留守は彼女がちゃんと守ってくれているんだな。双子とセラは笑いながら、地面に描かれた四人を囲んでいる。話し声は聞こえないが、きっと「パパ早く帰ってこないかな」とか話しているんだろう。
この光景が今まさに現世で展開されているものなのか、あるいは観念的なものなのかは分からない。だが自分が現世にいない立場から見る三人の姿は......暖かく、また同じくらい切なかった。
「--この人達があなたを強く想っているから。本当に早く帰ってきてほしい、生きて帰ってきてほしいと願っているからよ」
「......分かるよ」
「ねえ、ウォル」
ヒルダは腕を軽く振るう。三人の姿は消え、俺と彼女は向き合った。再会した直後を除けば初めてだな。真っ正面からこうして話すのは。
「--私ね、あんな形ではあったけどあなたが好きよ。大好きだった」
俺は答えない。答えないことが、きっと彼女に応えることになると思うから。
「だから......魂だけの今からでも、あなたと一緒にいたいの」
俺は答えない。何故か、彼女が次に何というか分かっていたから。声で分かる。今ならお前を理解してやれる。
「でもね、それ以上にウォルには、ううん、ウォルファート・オルレアンには生き返ってほしい。まだあなたには果たさなくちゃいけないことがあると思うし、私以上に......あなたのことを想ってくれる人がいるから」
「......わりい」
「謝らないで」
ふわりとヒルダは俺に近寄った。気がつくと彼女は俺を抱きしめていた。互いの髪に顔を埋める形になる。
「きっとあなたなら、生き返れるわ。そう信じてる」
「そうだな。お前と会うにはまだ早すぎるさ」
それは多分、別れの言葉で。
それは多分、いつかの再会を誓う言葉で。
あの時偶然会ってから初めて......俺とヒルダはわかり会えたのかもしれない。たったこれだけの言葉を交わすのに十年以上もかかったけれど、不思議と後悔は無かった。
別れを惜しむように、ヒルダの手が俺の頭を一度強く抱いた。されるがままになっていると、額に柔らかい感触があった。暖かで指先よりも柔らかい。
「唇にしたら怒られちゃうでしょ? あなたの可愛い子に」
「すげー怒るだろうね」
セラはああ見えて焼きもちやきだからな。つねられたことなどは無いが、朝帰りなどすると時折視線が痛い。
ヒルダの体が俺から離れた。彼女の役割はここまでということか。
「俺さ、お前に会って何か色々言いたいことは湧いてきたんだけど。もうどうでもいいや」
「そうなの? いいの、次いつ会えるか分からないのに」
「いいんだよ。お前と会って......色々酷いこともあって、恨んでないって言ったら嘘になるけど。そういうのも含めて、やっぱりお前は特別だったんだなって分かったから」
ヒルダ・ヌーノバイツと会わなければ、もっと俺の人生は楽だったと思う。けれどそれも含めて俺の人生だ。否定しちまえば、あの時確かに交わした愛情も俺は無かったことにしちまう。それはアンフェアだ。
「ありがとな」
そうだな。きっと、この一言が言いたかったんだ。過去も、わだかまりも全部こめた一言が。
苦笑しながら俺は離れていくヒルダを見る。灰色の空間を彼女は上昇していく。まるで天に召されるかのように、と言ったら変か。死んでから相当時が経過しているんだ、今更天に召されるもないだろう。
「あのね、最後に伝えておくわ。あなたに会いたいという人がもう一人いるの。だからそこで待ってて」
遠くなりつつあるヒルダの声に、俺は眉をひそめる。話の流れから何となく、この場で俺が生き返るのか、あるいはやはりあの世行きかが自然に決まると思っていたんだが。
「それ誰だ? そいつが俺がどうなるか決めるってことか」
「ある意味そうね。でもね、最後はあなたが決めることよ。さよなら、ウォル。しばらく現世で生をまっとうできるよう祈っているわね」
最後の方はほとんど聞こえなかったが、教えてくれただけましだろう。急上昇して離れていくヒルダに、俺は色々な気持ちを込めて手を振った。
なあ、ヒルダ。俺はまだお前と会う段階じゃないんだ。お前の分まで生きて、それからまた会いに来るよ。だからそれまで--ここで待ってろ。
******
ゴゥゥゥン
ゴゥゥゥン
気配を感じた。ヒルダのそれとは違う。もっと大きな気配だ。それに荒々しい。
多分これがヒルダの言っていた"もう一人俺に会いたい人"なのだろう。
しかし、この気配は何だ。俺が気圧されそうになるほどの--強烈な存在感と獰猛さがある。だが俺には待つしか出来ない。ほとんど物理的な圧力さえ伴うその気配を探りつつ、黒い壁面にもたれかかる。
(誰だ、こんな威圧感がある気配を放つのは)
自問。魂が放つ気配が生前の強さと比例するとは限らないが、しかしこの強烈な圧力はただ者じゃない。少なくともヒルダのそれとはまるで違った。
一つ心当たりが無いわけじゃない。
だが、それはあってはならないことだと自分で否定する。
もしそいつの魂がまだこの冥府の入口--ヒルダの口ぶりだと深いところじゃない--あたりにいるなら、それはダンジョンの浅い階をダンジョンボスがうろついているようなもんだ。物騒で敵わない。
十分ほど我慢した。
沈黙を保っていた空間が、いきなりひび割れた。ちりちりと背中の毛がそそけ立つような感覚がある。危険を察知した証拠だ。二歩ほど大きく跳び退く。俺の視線の先、黒い深淵が空間に裂け目を作っている。その底は茫洋として見えない。
心臓が跳ねる、少なくともそれに近い感覚があった。
手が震えかけた。必死で押し止める
--ウォルファート・オルレアンか。まさか貴様が敗北しようとは......分からぬものだな--
闇の淵から響いた声は、人の言語ではある。だが隠そうともしないその気配は......明らかに人のそれじゃない。どんな悪人でもこんな魔の気配は生み出せないだろう。
--久方振りだな。勇者--
黒い淵の内側からヌウ、と手が出てきた。見た感じは人の肌の質感だが、その色はやや青白い。その手の指が力強く淵の端を掴む。己を引き上げるかのように。
淵を掴む手が......一本。二本。三本。四本。
「はっ、てめえとだけはサシで会いたくなかったな」
ちっ、声が震えちまう。空間の裂け目から現れた長身の男、その全身があらわになった。
紫色の髪はザックリと肩まで届き、男性的な力強さを秘めた赤い双眼がこちらを睨む。顔自体は端正と言っていい。だが生前の姿そのままなのか、魔族の正装らしき凝った礼服と金属鎧を着たその体はあまりに猛々しかった。みっしりと筋肉がついた四本の腕を組み、男は俺を見下ろす。2メートルは優に超えているだろうか。
「私を倒してからたった六年で殺されるとは......運命とは分からぬ物だ」
深く、低い声で男は呟く。俺は男の名を返すのが精一杯だった。
「大魔王」と。