たゆたう魂
--何処だ、ここは。俺は何をしているんだ。
目覚めた、と思う。思うというのは、今自分がどういう状態なのかよく分からないからだ。寝ぼけ眼で起きた時のように辺りを見回そうとするが、視界に飛び込む景色には見覚えがない。
ベリダムの念意操作で飛ばされたショートソードをかわしきれず、ぶっ倒されたところまでは覚えている。当然そこは戦場だった。むきだしの茶色い大地にところどころ草むらがあり、戦いに倒れた兵士達が血を流しながら重なる......そんなどこにでもある戦場の風景は覚えている。
--けど、ここどこなんだよ。あれか、天国ってやつか? それとも地獄の端っこか?
奇妙な空間としか言いようがない。青い空と茶色い大地の代わりに、俺の周囲に広がるのは薄い水色の空間だ。上も下も右も左も見渡す限り、澄んだ水のような透き通りかけた水色が続く......そんな奇妙な空間だった。
俺が生きているのか死んでいるのかは別として、水の中に沈められたのかと思ったが呼吸は出来る。目や口に水が入ってくるわけでもない。つまり水没したわけじゃない。
--さ迷う魂一丁あがり、か。ざまあねえな。
そこまで考えて気がついた。自分の体を見ようとしたが、それが分からない。視覚は働いているんだが、手足を見ようとしてもそれが見えない。試しに動かしてみようとしたが、そういう感覚もない。
どうやら本格的にあの世行きしてしまったというべきか。魂とやらがどんな形をしているのか分からないが、絵画に描かれるような球形をしているならば手足も無いだろう。少なくとも今の俺は......普通の肉体で普通の世界にいるわけではない、それだけははっきりしていた。
途方に暮れた。
太陽も無ければ月も無いこの空間、時間感覚が無くなる。意識を取り戻してからしばらく、俺はいろいろ動いてみたんだが(幸い動くことは出来た)、どこまで行っても何も見つからない。ただ水色の空間が広がり続けるだけだ。目印らしき物もないので、自分がどれだけ進んだのかも計れない。いや、知らない内に後退しているのかもしれない。
そう思うとバカバカしくなった。「あー、どうしろってんだよ」とぼやき--声が出ているのか分からないが、意識としてはだ--視界を遮断した。空腹は感じなかったが、おかしなことに眠気はあった。理由を考えるのは面倒だったからそのまま眠ることにした。
******
多分俺は死んだのだろう。
ベリダムとの一騎討ちに敗れ、地べたに叩きつけられたんだ。体から血が流れ、力が抜けていく不快な感触ははっきり覚えている。生きているとはやはり考え難い。
戦はどうなるのだろうか。
ラウリオ、ロリス、アリオンテは俺無しで何とかするだろうか。
エルグレイがあいつらをまとめてくれたら、まだ抵抗くらい出来るだろう。
ギュンター公も軍事の才覚はある。むざむざ負けはしないはずだ。
......そう無理にでも思い込む。
シュレンとエリーゼは悲しむだろうか。育ての親とはいえ、俺しか身寄りがいないんだ。もし死んだと分かったら泣くだろうな。そう思うと心が沈む。
セラはどうするんだろう。シュレンとエリーゼを抱えて一人で育てるような義理はあいつは無い。無いんだが、どうもそこまでやってしまいそうな感じはする。俺も鈍感ではない、セラが俺に好意を持ってくれているのは分かってはいる。だから俺が死んだら、悲しみつつも双子の世話は続けそうな気はする。
アイラとアニーの姉妹は悲しむかな。なんだかんだ言って、あいつらとはリールの町からの付き合いだもんな。今はもう俺が後見人ではなくなってるけど、アイラの結婚式には呼ばれてるんだよな。それに出られなくなっちゃ悪いとは思う。思うんだが、こんな状態じゃどうしようもない。
万が一のこと考えて、イヴォーク侯に遺言でも託しておくべきだったか? あの人なら嘆きながらもいいようにしてくれたろう、けれども後の祭りだ。俺は......戦死しちまったんだから。
畜生。畜生。畜生!
拳が振るえるならば、何でもいいからぶん殴りたかった。意識だけが暴れ、胸の奥が苦しくなる(あくまでイメージだが)。自分の人生がこんなところで終わるのかよ。まだやり残したことがいっぱい残ってるのにさ、俺はこんな王都から離れた土地で死ぬのか。死んだのか。
嫌だ、と初めて思った。
紐をかみちぎろうとする犬みたいに、ばたばたと走り回った。けれど景色は相変わらず浅瀬の中のような水色が続くだけ、何にもなりはしない。
ベリダム、お前が俺に勝ったのは認めてやるけどな......俺は、俺はまだ死にたくはない。くそ、この魂だか何だかが残っている内は諦めねえぞ。俺はしつこいんだ、勇者の意地舐めんなよ!
声を絞り出そうと、いまだ得体の知れない体になってしまった己をよじる。だがいくら頑張っても、出てきたのはユルリと揺れる風くらいだった。打つ手が無い。俺の他にこの空間には誰もいない。脱出する方法も見つからない。せめて他の人--変な言い方だが--がいれば、突破口くらい開けるかもしれないんだが。
「永遠にこのままってのはぞっとしねえな」
独りごちた。言葉が緩いさざ波になって空間を跳ね、ふわりと消えていった。お、さざ波になったってことは、外に響くってことか? 物は試しとばかりに思い切り叫ぶことにする。
ワアアアアン......ワアアアアン......
鐘を全力でどついたような、鈍い反響が広がった。水色の空間が揺れたように見え、何か変化が起きるかと期待した。そりゃするだろう、こんな軟禁状態のような場所だ。何でもいいから出たいんだよ。
「何にも起きねえな」
がっくり来た。あれか? あの世とこの世の狭間のような場所か、ここは。俺以外は誰もおらず、誰も見つけてくれない場所なのか。
それはひどくないか。怒っても仕方ないんだが。
--あら?
ポツンと水溜まりに滴が落ちたような、そんな感じの声が。
意識の隅っこに引っ掛かった。ハッと気がつき、聞こえてきた方角を探す。上下左右の位置関係すら怪しい水の中のようなこの空間だが、どうも上から聞こえてきた気がした。
嬉しいという感覚はある。
だが、どこか記憶を刺激する声だった。かなり昔に聞いたような--よく覚えているのに、思い出したくないような声だ。
戸惑っている内に、頭上が明るくなった。水色の空間がさっと白い光に照らされる。ちょうど太陽が差し込んだ水中のように。光の帯が俺を照らし、また声が聞こえてきた。
--ウォル? ウォルじゃない。あら、懐かしいわね。
ウォル......ウォルだって? その呼び方をする人間を俺は一人しか知らない。
リッチに呼び起こされた記憶が高速で甦る。ああ、そうだ。雪の街角で俺が復讐の剣を突き刺したこと。エウハウシャの谷で俺達のパーティーを殲滅されたこと。本当に偶然、彼女と出会い......つかの間の恋に落ちたこと。
忘れたくて、忘れられず未だに俺がしがみついているただ一度の本気の恋は。
甘く、そして余りに苦い思い出だ。
「ヒルダ・ヌーノバイツ?」
「久しぶりね、ウォル。また会えて......嬉しいわ」
白い光の帯を伝うように降りてきた声が染みる。心に、記憶に、俺の全てに。それは喜びなのか、怒りなのか、恐怖なのか、恋情なのか。自分でも分からなかった。
******
「声はすれども姿は見えず、か。隠れんぼか、ヒルダ?」
声の感じからして、ヒルダはかなり近くにいると思う。慎重に言葉を選びつつ気配を探るが、どこにいるのかまるで分からない。ちっ、肉体がある時とは感覚が違う。歯痒くて仕方がない。
「あら、すぐ近くにいるのに分からない? うふふ、そっか。まだこっちの世界に来て間もないものね」
耳元で声がして驚いた。振り向いたが、何も見えない。そんな俺をからかうように、またヒルダの声が響く。
「見ようとしちゃダメなのよ、ウォル。肉体の論理に囚われたら、いつまでたっても見えないわ。感じるのよ」
「感じる? 何をだ」
「あなたなら分かるはずよ。ここでは記憶が全てなの。幽界においては、記憶の保持、立証化が全て。現世の理は忘れなさい」
ヒルダの声が近くから聞こえ、また遠ざかる。記憶の保持と立証化だと? 何だそりゃ。ただ幽界という単語には聞き覚えがあった。肉体を離れた魂がさ迷う階層だ。冥府へ降りる前の踊り場と呼ばれることもある。あの世の玄関か。このままゆっくりと魂は深く深く、冥府へ降りてゆくのだろう。
死んだ実感が急に強くなった。そりゃそうだよな。でなきゃヒルダの声がするわけがない。こんな場所で再会するとは複雑な気分だが--今は彼女に接触するしかやることがない。放っておいても何か変化はあるかもしれないが、もう退屈に堪えられそうもなかった。
それに......十年以上の時間の経過が、俺の感情を上手くなだめてくれていた。
ヒルダの言葉の意味を考える。要は現世での目は全くこの世界では意味をなさないのだろう。死者に未来は無い、だから全ては記憶にかかってくる......過去の堆積だ。
「飲み込み速いわね。さすがウォル」
「うるせえ、ちょっと待ってろ」
軽く毒づき、視覚を遮断した。記憶の中から俺はヒルダの姿を呼び出す。赤みがかった金髪に、ちょっと釣り気味の緑の目。勝ち気な整った顔の彼女の姿はいまだ俺の心の深い場所に刻まれている。立証してやるよ、ヒルダ。お前の姿を、存在を記憶から掘り起こして--現実へと。
俺の過去に確かな足跡を残したお前は......この幽界にいるんだな。
最初に感じたのは、手だった。
柔らかい手の平が俺の頬に触れている。奇妙なことに、俺は現世での姿を取り戻していた。鎧はつけていないがちゃんと肉体はある。簡素な麻製の短衣、革のズボンとブーツは生前によく着ていた服装だ。
ああ、だけどそんなことよりもだ。
今、俺の視線は自分の目の前の人間に釘付けになっている。
記憶の中のままの姿。目の色と合わせたような翡翠色のドレスを着た若い女だ。彼女はふわりと俺の前に浮き、その右手を俺の頬に当てている。桜色の唇がたおやかに笑みを作った。
「また会えたわね、ウォル。ふふ、変わってないわ」
猫科の獣を思わせる艶のある微笑、それがさざ波となって俺の心を叩く。ヒルダ・ヌーノバイツ......俺が愛して殺した女が薄水色の世界にたゆたっていた。