おいおい、これってピンチなんじゃね?
あーあーという声が足元から聞こえてくる。目が離せないというのは、このことだろうか、シュレンとエリーゼがはいはい(四つん這いで歩くことだ)を覚えてから、ほんとにほっとくとどこまでも行ってしまう。
「待て、そこの青いのとピンクの。廊下に出ちゃ駄目だ」
居間にあたる一番大きい部屋で自由にさせていたのだが、隙を見つけては双子は脱走しようとする。好奇心旺盛なのはいいことだがこれまで以上に大変だ。今までは最悪ベビーベッドに寝かせておけば、二人の勝手な行動は阻止出来た。
しかし、もはや移動手段を取得した奴らをただ寝かせておくというのも可哀相だと考え、基本的に居間で見ているのだが......
「こら待てエリーゼ。何を食べようとしてるんだ?」
「あっ?」
赤ん坊が何でも口に入れたがるのは聞いていたが、まさかこれほどとは。あっ、別にアイラが綺麗にしていないわけじゃないぜ。いくら片付けても赤ん坊のいる状況では完璧は無理だろう。
俺が外から戻った時に片付け忘れた外套、俺がさっきつまんだ菓子の包み紙、俺が赤ん坊の薬草摂取の申請を書いた際に使ったペンなどなど......あれ、おかしいな。全部、俺が散らかしたやつばかりが床に転がってたんだな。
「危ないから床にほっといちゃ駄目ですよ、ウォルファート様」
メイリーンがエリーゼを抱っこしながら俺に注意する。その足元にはシュレンが"抱っこしてくれよ"といいたげな様子で「うー!」と叫んでいた。双子見るのって大変だな。
「あらあら、シュレンちゃんたら甘えん坊さんね。はい」
床に一旦座り、メイリーンがシュレンを抱っこした。母親だと思っているシュレンは、満足そうにキャッキャと笑い始めた。釣られたのか、エリーゼもニコニコしている。いい光景だ。
「たまにメイリーンがほんとの母親だったらいいのにな、とか思うよ」
「ありがとうございます。でも、出来ることをしているだけですからね」
俺の言葉に笑顔でメイリーンは答えた。濃い茶色の髪を後ろで三つ編みにしているので、それは赤ん坊二人のいい玩具だ。今も左右から引っ張られてその度に首ががくんがくんと揺れている。結構痛そうなんだがな、大丈夫だろうか。
「こ、こら! シュレンちゃんもエリーゼちゃんも引っ張っちゃ駄目よ、痛い痛い!」
「「うぶああ、あふあふ」」
やはり大丈夫じゃないらしい。笑いながらも痛そうなメイリーンの抗議に双子が笑った。困ったガキ共だな、と俺は苦笑しながら、エリーゼを抱き抱える。更に最近また重くなったエリーゼは、こうして笑っていると可愛らしい。泣き出すとやっぱりウンザリなんだが。
(けど、こんな関係もそろそろ終わりか)
ふとそんなことを考えて、俺は少し真面目になる。ちらりとメイリーンの腹のあたりに目をやると、やはり少し膨らんでいた。別に彼女が太ったわけじゃない。
(おめでたなんだから祝いたいんだが、あと二ヶ月だけか)
メイリーンがいなくなった後どうしようかと考える。しかしすぐに妙案が浮かぶわけでもなく、進展の無い俺は今度はシュレンを抱っこした。何も知らないこいつは遊んでもらえるのが嬉しいらしく、キャッキャと笑い始めた。
季節は春、シュレンとエリーゼが生後十ヶ月になる頃の話だ。
******
「え、辞めるの?」
「はい、今すぐではないですけど」
数日前の午前中、シュレンとエリーゼに離乳食をあげながら、メイリーンはサラッと爆弾発言をした。その顔は穏やかで、慌てふためく俺とは好対照だ。たまたまそばにいたアイラも、びっくりしたように振り返った。
「なんでだ。俺に何か不満でもあるからか?」
「いえ。そういうことは全然無くてですね......妊娠したんです」
「......なるほど」
メイリーンの言葉に俺は頷いた。頷くしかなかった。椅子に座った俺に気を利かせたアイラがお茶を持ってきてくれたので「すまん」と言いながら、それを受け取る。
落ち着いて考えようと、俺は茶を二口ほど飲んだ。僅かに渋味がかった豊かな香りが爆弾発言に動揺した精神に優しい。いつかはこんな日が来るだろうなとは思っていたが、いざ現実化するとやはり応える。ずっしりと腹に来る。黙ってしまった俺を見かねたのか、アイラが代わりにメイリーンに話しかける。
「おめでとうございます、アイラさん!」
「ありがとう、ほんとに嬉しいわ。きっと、シュレンちゃんとエリーゼちゃんがくれたプレゼントね」
「それであの、妊娠何ヶ月なんでしょうか」
「今四ヶ月ぐらいです。私、あまり悪阻が酷くないから、気づかれなかったんですね」
穏やかなメイリーンの様子を見ていると、確かに祝福したい気持ちにはなる。なるんだがしかし、手放しで喜べない自分がいる。あうあうと少し手が止まったメイリーンを急かすようにシュレンとエリーゼが声をあげた。
「あ、ごめんね。はい、次の一口ですよ」
「メイリーン、おめでとう。でだな、その......いつまで続けられる」
俺の声が曇りがちなのを敏感に感じたのか、メイリーンの手が止まる。また双子に急かされて慌てて離乳食をあげるが、やはり少し精彩を欠いていた。
「あと二ヶ月で妊娠半年なので、そこで辞めさせていただければ、と。勝手を言って申し訳ありません」
「いや。止められないよな、妊婦を働かせるわけにはいかねえし」
そうだ。理屈じゃ分かってる。俺だって知ってる、メイリーンが自分が産んだ子供を生後二ヶ月で亡くしたこと、その時にたまたま俺がかけた乳母の募集に応募してきたことを。ほんとによく、彼女はシュレンとエリーゼの面倒を見てくれた。彼女がいなけりゃ、俺は間違いなく双子を死なせていただろう。
だから。だから、心の底から感謝して送り出してあげたいと願っているのに。いるはずなのに......なんでこんなに心が軋む? あれか、いつからかメイリーンと双子を見ていると、本当の親子みたいに幻想抱いちまったからか。こいつら二人も慣れてくれたから安心しちまったからか。
(馬鹿か、俺は! いつかは乳母は出ていくもんだ、ましてやメイリーンは自分の子供を、今度こそ産んで育てるチャンスなんだ、何を勝手に期待してやがるんだ!)
そうさ、理屈じゃ分かってる。痛いほどに。だけど、今もメイリーンからがっつくように離乳食をもらってるシュレンとエリーゼを見ていると勝手に唇がわななき、いたたまれない気持ちになった。
「ウォルファート様? だ、大丈夫ですか、お顔が真っ青ですよ」
アイラの声が聞こえてくる。だがそれは、今の俺には残念ながら何の意味もなかった。気がつくと俺は家の外へ飛び出していた。一言「わりい、一人にしてくれ」とだけ言い残して。
どれだけ走っただろうか。分からない。
俺が分かっているのは、自分がリールの町から相当離れた野原までやってきてしまったことだけだ。家を飛び出してから春らしい暖かさが満ち始めた空気をぶっちぎり、街道から外れるのも構わずに、ひたすらまっすぐ駆けてきた。
ほとんど全力疾走、さすがの勇者といえども、全くのゼロ状態から動揺しきった心で十五分も走るとくたくたになった。心臓が爆発しそうなほど脈打ち、肺はいくら喘いでもまだ空気が足りないと、乱暴に俺を内側から殴りつける。
「ぜえっ、ぜえっ、ぜはっ......っ!」
もう無理だと手足がオーバーヒートし、さすがに動きを拒否した。荒れきった心は体が疲弊しきると少しは溜飲を下げたのか、どうにもならないほどには乱れていない。汗が額をつたい、顎からぽつりと垂れそうになるのを乱暴に拭う。そのまま、俺はごろりと地面に寝転がった。短い草の感触が背中に伝わる。
「ちっくしょう......何やってんだよ俺は」
自問。分かってる。俺は怖いんだ。今まで母親役を担ってくれたメイリーンがいなくなるのが。メイリーンが来なくなったら、シュレンとエリーゼがどんな顔をするか。そして、俺自身がこの事態を何より恐れていた。
なんだかんだいって、一度は自分の子を腕に抱いただけあって、メイリーンはまるで面識がない双子の赤ん坊を怖じけづきもせずによく可愛がってくれた。母乳をあげるだけではなく、母性をきちんと持った上で、シュレンとエリーゼに向き合ってくれたんだ。そのことには、金では評価できないくらい感謝している。
だが、だからこそメイリーンがいなくなるのが怖かった。彼女無しでどうやって二人を育てていけというんだ。あと二ヶ月でようやく一歳、まだまだ母親役が必要な年齢だ。いなくなったらかなり不安になるだろう、というのは容易に想像出来る。
けれど向き合わなくてはならない。いつかはこういう事態が来ることは......分かっていたのだから。
(落ち着け、今すぐじゃない。それに幸い、メイリーンは近所に住んでいる。双子が会いたいとあんまり騒ぐなら、俺が連れていってやることくらいは出来るだろう)
ようやく呼吸も心臓の鼓動も落ち着いてきたので、俺は努めて好材料を探した。あと二ヶ月はメイリーンは乳母をしてくれる、その間に具体的にどうするかを考えよう。メイリーンも双子に対する態度から考えると愛情は持っているみたいだから、無下に“もう関係ないから“などとは言うことはないだろうし。
そこまで考えてから、寝転がったまま空を見上げた。春らしい空なんてものがどんな空かなんて俺は知らないが、青い空にぷかぷかと白い雲がところどころ浮かんでいる情景は穏やかで悪くない。不安感はまだ残るものの(当たり前だ)、もう何も手がつかなくなるほど動揺している程ではない。
メイリーンが乳母を辞めても近くに住んでいる。
アイラも協力してくれるだろうし、必要なら人も雇うだけの金銭的余裕もある。
シュレンとエリーゼには申し訳ないが、これはまだましな試練だと乗り越えてもらうしかないだろうな。
そこまで考えたところで身を起こした。走ったから喉が渇いたので、近くの水場を探そうと思ったんだ。だが、上半身を起こしたところで俺はすぐに身を伏せた。さっきまでみたいに仰向けじゃない、地面に腹ばいになるような姿勢で。
(魔物がいやがるな......なんだ、そんなに強い気配じゃないが、数が結構いる?)
ここは野原ではあるが、緩やかな起伏がある丘陵地帯の外れだ。ちょうど、斜面の端っこの草が茂った部分に偶然隠れる形になったのが幸いして、俺の姿は周囲を取り囲むようにしている魔物からはまだ発見されてはいないようだ。
多分、取り囲むようになったのは偶然で、ここらがそいつらの領域なんだろう。
数を読む。全神経を張り巡らせた俺の探知能力ならば、十分読み取れる距離......俺を中心として半径30から40メートル程度の円を描くように魔物がいる。そこで気づいたんだが、恐らく俺が草などを薙ぎ倒した跡を見つけて不審に思ったのだろう。自分の不注意に舌打ちしたくなる。
(正確には何が来てやがるのかわからねえが、どうせこの辺りなら豚鬼かホブゴブリン程度、まあいてもオーガが数匹か。はっ、ムシャクシャしてたところだ、殺ってやるよ!)
俺に騎士道精神なんぞない。どうせ魔物なんて人間に仇なす存在だ、やるなら徹底的に駆逐してやるさ。
僅かずつだが魔物の集団はその包囲網を縮めてきている。願ったりだ。馬鹿だぜ、おまえら。誰に喧嘩売ろうとしてやがる?
メイリーンの去就問題は頭の片隅に留め、俺は敵に意識を切り替えた。魔物が俺を捕捉する前に先制攻撃だ、ならばやはり攻撃呪文。早口で詠唱、選択したのは広域を攻撃するこれだ。
「悪く思うなよ! 火炎弾!」
草むらからいきなり飛び出す。かざした俺の手から、紡錘形に火炎を圧縮した紅蓮の弾丸が全方向に撒き散らされた。派手な開戦の合図だって? へっ、今荒れてんだよ。これくらいは大目に見てくれ。