晩夏乃某日
驚愕の情報と共にアリオンテが王都にたどり着いてから、一ヶ月が経過した。この間、俺を初めとする有力貴族やその幕下の部下達が何もしなかったわけじゃない。当然ながらいつやってくるか分からない辺境伯の軍勢に探りを入れていた。
「おおっぴらに言えないのが辛い」
「仕方ない。下手に戦争勃発の情報だけが先走ると、民衆がパニックになる」
イヴォーク侯とギュンター公の会話を尻目に俺はじりじりしていた。ギュンター公の屋敷の一室から眺める庭は見事な造りだが、それが心を慰めてくれるわけでもない。焦り......一言で言うとそういうことだろうか。
「こっちから攻めてやれれば早いのに。もどかしい」
「ウォルファート様、待たされるのが嫌なのは分かるが今は我慢ですぞ。むしろ準備期間中と思わねば」
イヴォーク侯になだめられ、俺は不承不承頷く。そう、分かってはいる。まだベリダムが公式に叛旗を翻していない以上、こちらから攻めることは許されない。あくまで探りを入れつつ、迎撃準備を整えるだけに限定される。
探りの一つには、オリオス陛下の直筆署名がなされた親書が辺境伯へ届けられた。詳しい文面は俺も知らないがギュンター公曰く、"最近の辺境伯領からよからぬ噂あり。真偽を問う"という類の物だったらしい。こちらも無防備ではないよ、という警告と牽制だ。
これに対するベリダム・ヨークからの返事は無い。有力とはいえ地方貴族の一人に過ぎない身分で国王陛下の親書を無視とは、それだけで厳罰対象だ。だが必要以上にベリダムを刺激して暴発させるのは避けたい、という慎重論を重視した結果、これまで奴に下された処分は警告のみだ。
「ベリダムとの付き合いがある貴族達には手を引くように命令を出している。孤立しつつあることにベリダムが気がつけば、自ずから奴の方から攻めてくるさ」
「ま、今の状況で俺達がベリダムを討つ口実が無いですからね。仕方ないのは分かっているんですけど」
「水面下では緊張感が高まりつつある、というところですかな」
ギュンター公と俺の会話にイヴォーク侯が口を挟む。俺の目に映る二人は落ち着いてみえるが、内心はそう穏やかでは無いだろう。今回予想される大規模な戦争を前に、イヴォーク侯は貴族間の利害調整役を買って出た。ギュンター公は軍事府筆頭として、十分な説明が不可能な状況で国軍の編成と準備に苦心している。
どちらも神経を使う仕事だ。言ってはならないことだが、さっさとベリダムが宣戦布告してくれた方が楽は楽ではある。こそこそ裏で立ち回らなくて済むからな。もっともそれはそれで一時的な恐慌を招くだろうが。
「それでも--やっぱりちょっとずつ不穏な空気が流れてはいるようですよ」
「人の噂は止められないからな、私が使う間諜も同じことを言っている」
俺とギュンター公は心持ち声を低めた。町で裏を仕切っているような連中とのツテでそういう情報は流れてくるが、ベリダム辺境伯が何やら不穏な動きをしているのではという話が何件も舞い込んで来るのだ。軍馬の調達、物資の買い占め、村人の一時的な沿道整備などへの徴用......そうした平時には無い動きがあると何となく不穏な空気も漂う。
家主のギュンター公の許可を得てから、イヴォーク侯が窓を開けた。夏の終盤、夜の空気は熱の残滓を含みまだ暑く重い。それが今まさに王都と北方領の間に漂う関係を思わせ、不快感を煽る。それでも閉めきった部屋にこもった空気よりはましか。
あの会議以来、時折俺達三人はこうして私的な会議をしている。互いの顔を見ないと話せないこともあるし、重要案件を抱える責任を分かち合う為という感じでね。
ギュンター公がいつものように卓に供された酒杯を取る。俺もイヴォーク侯も俺に倣った。そろそろお開きという合図だ。
赤い葡萄酒を満たした三つの酒杯が軽く触れ合った。チリン、と高く澄んだ金属音が晩夏の空気をうっすらと貫く。ピリピリした緊張感がほどけ、俺は酒に視線を落とす。そこに映る自分の顔は赤に揺れてよく分からなかった。
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シュレンとエリーゼを見ていると、たまに思うことがある。黒髪黒目のシュレン、ピンクがった金髪と茶色の目のエリーゼが何故双子なのかと。いや、確かにシューバーの血が濃く出たのがシュレンなんだとは分かる。エイダの血が濃く出たのがエリーゼなのだろう。しかし、これほどまでに分かりやすい違いが双子で出るなんてな。
「にも関わらず、お前ら似てるんだよなー」
「ん?」
そろそろ秋になりかけたある日、俺はしみじみと呟いた。シュレンが反応する。窓の外では小雨がポツポツと音を立てている。
まじまじと見てくるので、頭を撫でてやった。俺の身長の半分よりは高い位置にある。赤ん坊の頃から比べたらまるで別人だ。
「いやな、シュレンとエリーゼは髪の色も目の色も違うのに、顔を見るとやっぱり双子なんだなあってな」
「そうだよ! だって双子だもん!」
ニヒ、と音がしそうないい笑顔でシュレンが笑った。すっかり男の子だな。全く、俺みたいな不良大人に育てられた割にはまっすぐ育ってやがる。
俺は別に子供に特別に優しい人間では無い、とは思う。だが子供に全く触れずに人生を送るのは、何かしら大事な物に触れる機会を失うような......そんな気はする。いや、確かにさ。言うことが通じない相手と付き合うのは大変だ。俺だってシュレンとエリーゼが小さかった時には、放り出そうと何度思ったか分からない。
"落ち着いて、勇者様!"
"嫌だ、俺はもう実家に帰らせていただきます!"
"そんないびられた嫁じゃあるまいし、何を言ってるんですか!"
あー、思い出した。メイリーンになだめられ、それでも逃げだそうとする俺をアイラが引き止めたんだっけ。あれはまだ双子が十ヶ月くらいの時だったなあ。
俺がしみじみ昔を思い出す一方で、シュレンは部屋の床に腹ばいになり、最近始めたお絵かきを再開した。床にデーンと広げた羊皮紙に、木の皮から取った染料を塗るという中々ダイナミックなお絵かきだ。しかも筆なんか使わない。自分の手を染料に浸し、それをベタベタと紙に叩きつける。
幼稚園で習った、と嬉しそうにシュレンが言う一方、エリーゼは余り興味を示さなかった。「服が汚れちゃう」としかめっつらをする辺りは、小さくても女の子なんだろう。
現に今日はセラと一緒に買い物に出ている。雨だがこの程度ならば、エリーゼはむしろ雨の中の散歩を好む。
何故か、と俺が聞いた時、エリーゼの答は中々考えさせられた。「町が生き生きして見えるから」と言ったのだ。確かに雨に濡れた町並みは、普段とは違うしっとりとした雰囲気をまとう。それを生き生きと表現するとは、六歳児と言っても馬鹿には出来ない。
案外子供の方が違う世界を見る目があるのかもしれない、と思う。大人になると、どうしても損得勘定を多少は混ぜて物事を考えちまう。それが無く純粋に興味だけで世界に相対することが出来るのは、子供の特権だ。俺がとうの昔に無くした、そんな感覚がシュレンやエリーゼにはあるんだろう。
子育てのいいところってのは、そういう自分には無い世界の見方に驚かされるとこじゃないかな。ほら、人間さ、新鮮な経験が無いとぼけるじゃん? 少なくともその点は満たされるんだよなー。
「よーし、両足も使って描くー」
「え......」
うん、だから染料のボトルを傾けて自分の足をベタベタにしているシュレンにも--違う意味で新鮮な気持ちにさせられるんだよ。
「ちょ、止め、絶対床までびちゃびちゃにするだろ、お前!」
「え、大丈夫こぼさないから!」
って言ってる傍から、赤や青の色鮮やかな染料が羊皮紙の防壁を越える大洪水じゃないですかー、ヤダー!
いやあ、違う意味で世界が変わるわあ。こう、何て言うのか、一瞬たりとも安心していられない緊迫感というか。悪い意味でドキドキしちまうぜ。
そんな感じでバタバタとシュレンが遊び、俺が後片付けをしている時間は色んな意味で鮮やかな時間なんだろうよ。ま、その時は大変だったけど。
「ただいま」
「ん、おお」
「ンー、ンンー」
アリオンテ--屋敷ではリオンで通している--の声に振り返った。遊びを終え、ちょうどオヤツの時間のシュレンが口をもぐもぐさせているのはご愛敬だ。
今日はアリオンテは朝から外出していた。セラの許可が得られた、とホッとした顔で言う姿に俺は僅かに同情を覚えた。普段、どんな使われ方をしているのだろうか。
「お疲れ様ってやつか。雨の中、ご苦労さん」
「......好きでやってるからね」
濡れた髪を拭きながら、アリオンテは無愛想に答える。その体から僅かに魔力の残滓が立ち上っているのが分かった。どうやら魔法の特訓をしてきたらしい。
アニーを通して、俺はアリオンテを冒険者ギルドに仮登録させていた。人間の子供と身分を偽ってだが、とりあえずそこはごまかせたからいい。中にはもっと素性の怪しい人間が登録することもあるらしい。それに比べたら、公爵位持ちの俺が仮の保証人であるアリオンテは安心な方だろう。
冒険者ギルドに併設された訓練所、そこを使わせてもらう為の処置としてアリオンテを仮登録させたのだ。何もクエストの発注とその成否判定などだけがギルドの仕事では無い。
アニーによると「腕を上げる為に訓練所にしか通わないマニアまでいるの」ということすらあるという。
俺に言わせれば、クエストにも出ずに鍛えるなんて金にもならない行為なのだが世の中には色んな人がいるのだ。とやかくは言うまい。ましてそういう訓練所のおかげで、アリオンテがこうして腕を磨けるのだから。
(多分、火炎系の攻撃呪文の訓練してきたんだろうが......何だ?)
疲れた、と言い残し自室に帰るアリオンテを見送る。微かな魔力の残滓から使ってきた呪文の種類が読み取れたのだが、正確には分からない。そして一瞬だけだが俺は見た。人間に溶け込む為に二本腕に偽装したアリオンテの指先、そこに付着していたのは黒い燃えかすだった。
一通り彼が使える呪文については見せてもらったが、火炎球と落雷の二つが主力らしい。火炎弾の習得は後回しにして、まずは基礎的なことだけ鍛えてきたという。
とりあえずその二つは結構上手く使えていた。発動までのタイムラグも長くないし、威力もそこそこだ。九歳という年齢を考えれば出色の出来だろう。
だが......それだとあの焦げたような黒い指先の説明がつかない。火炎球と落雷の二つについては発動は完璧だ。あんな跡を残すことは無い。だから考えられるのはただ一つ。
新しい攻撃呪文に取り組んでいる。これしかないだろう。
ベリダムとの戦いは恐らく近い将来に発生する。それに備えての準備といったところか。アリオンテにしてみれば、八つ裂きにしても足りない相手だろうからな。
「パパー、セラ達帰ってきたよー」
シュレンがパタパタと寄ってくる。袖を引っ張られて玄関まで行くと、なるほど、雨避け用の外套を脱ぐセラとエリーゼの姿があった。
「パパにお土産だよ!」
喜色満面でエリーゼが手を差し出す。拳だ。何か握っているのだろうか。
「はい、手を出してー」
「おう、ん、何これ、花かな」
「エリーゼちゃんが池に咲いていたのを見て、ウォルファート様にあげるって。一輪だけいただいてきましたわ」
俺の手の平に載せられたのは、細い赤い花びらが十も二十も開いた花だった。ああ、王都にある公園内の池か。確かにこんな花が咲いていたような気もする。
「今度ね、あたしが連れてってあげるよ!」
「そりゃ、楽しみだな。ほら、着替えておやつにしろよ。セラも早く」
「あの、私子供じゃないんですけど!?」
エリーゼとセラの二人をメイドに任せた。こうして晩夏の一日が終わっていく。多分、こんな何でもない一日の有り難みというものは失わないと分からないんだろうな。
そして、俺はまだ閉まりきっていない玄関を閉めた。小雨に濡れた外の風景は平和そのものの静けさだ。
この静寂が破られる日も近いかな。
ふと、そんなことを考える。手の平に乗った赤い花は、俺の秘めた問いに何も答えずに艶やかに咲いていた。