アリオンテの語る裏切り
北方の大地とはいえども春は来る。突き刺すような寒気が和らぎ、人々の顔にも柔らかな物が混じり始める。そういう季節だ。僕とワーズワース義父さんが大陸中央から引っ越してきて凡そ十ヶ月。
(そう、あの日だって何ら普段と変わりない普通の日だった)
ウォルファートの顔を見ながら僕は話す。胸の内にどろどろとうごめく感情、それがもたらす痛みと怒りに突き動かされながら。
ウォルファートを頼って逃げてくるなんてな......とんだ茶番だ、お笑い草だ。何がどうなって、今僕はここにいるんだ?
「おい、無理なら明日話せばいい。顔色悪いぞ?」
「いい。話させてくれ」
そうだ。今、吐き出してしまおう。ぐるりと僕の目の前の景色が回転する。屋敷の一室から、明るい日差しの射す野外に変わる。
--ああ、そうだった。
--確か野外演習に出た時だったな。
--いつも通りの訓練が終わって、帰ろうかという時だ。
******
「なあ、アリオンテ君、ワーズワース君。聞いてもいいか?」
「何を?」
定期的に行っている軍事演習を終え、帰途に着いた時だった。辺境伯ことベリダム・ヨークに話しかけられ、僕は振り向いた。
演習ということもあり、ベリダムは完全武装だ。全身を覆うフルプレートに盾、それにロングソード。武器マニアな一面のあるベリダムは多数の装備を持っているので、今着けている装備がベストの物かどうかは分からない。
「北方での生活は楽しかったか?」
「それはもう......」
答えながら微かな違和感があった。その正体が分からないまま、僕は半歩後退した。あれ、何だろ。今さ、考えるより先に体が動いたんだけど。
「もう一度聞こうか。楽しかったか」
こちらを向いたベリダムの目、それが妖しい凄みを含んだ金色をしている。その時、僕は違和感の原因が何なのか気がつい--
た。あっ、と思う暇も無く、僕の体は凄い力で後方に引き戻されていた。ワーズワース義父さんが襟首を捕まえて、後ろに引いたんだ。
(ああ、そうだ。何で"楽しいか"じゃなくて)
見えているはずの光景が何故か霞む。一瞬前まで僕がいた空間を銀色の閃光が凪いだ。あれ、何だよ。ねえ、ワーズワース義父さん。あれさ、ベリダムだよね?
("楽しかったか"って、過去形なんだよ。まるで終わってしまったことみたいに)
違和感が晴れる、すぐに体の奥底から沸いてきたのは恐怖だった。引き戻した僕を後ろに庇うように、義父さんは前に出た。その全身から黒々とした殺気が立ち上る。
「ベリダム、貴公何の真似だ。戯れというには度が過ぎるぞ」
「戯れじゃないのは君も分かっているだろう、ワーズワース君。勿論、今の一撃は全力ではないが......狙ったこと自体は本気だ」
ベリダムが冗談を言っているわけではないのだけは分かる。でも何故だ。何故、ここにきてベリダムが僕達を殺そうとするんだ。
周囲を見回す。兵士達が退路を塞ぐように囲んでいることに今更気がついた。この辺りは灌木と茂みが適度に道を狭めている。周囲から見られる危険も低いのだろうか。
演習に連れてきた兵士は三十人くらいだろうか。腹心のビューローとネフェリーの二人も僕達を挟むような位置にいる。その二人には慌てたような素振りは無かった。仮面を着けたビューローはそもそも表情が分からないけど、ネフェリーも酷く落ち着いた顔だ。
「ちょ、ちょっと待って! ベリダム、何でだよ!? 嘘でしょ、冗談だろ!」
「残念ながら嘘でも冗談でもないのさ。私は今日この場で君達二人を始末する」
「ふざけたことを......」
僕より早く現実に向き合ったのは、ワーズワース義父さんだった。きっと義父さんも頭の中は混乱しているんだろうけど、早くもその手に愛用の魔槍を呼び出している。包囲している兵士達が緊張したのが伝わってきた。
「そうさな、理由も分からぬままあの世には行きたくは無かろう。冥土の土産に教えてやる」
対峙するベリダムが笑った。ゆっくりと剣を持ち上げながら「武装召喚」と呟き、己の周りに六本のショートソードを呼び出す。ゆらりとうごめく小剣の群れが更に恐怖心を煽った。
「凍土之窪地より採掘された希少な金属、それを魔力付与したことによる武装強化。これらが成されたことで我が軍は大幅に強化された」
ベリダムの声が朗々と響いた。
「既に君達の助力が無くとも、王都に戦いを挑むことは可能なんだよ。そうなるとだ、異分子たるお二方は邪魔となるわけさ」
「邪、魔? 嘘、だろ」
愕然とした。それは僕達が魔族だからか。仲良くしていたといっても、所詮は違う種族だからか。いや、それならそれでいいよ。寂しいけどそれでもいいよ。
でもさ、協力関係を結んでいたんじゃないのか。打倒ウォルファートの為にさ。それすら、嘘だったのか。信用するに足らぬ--幻だったのか。
「君達をつなぎ止めた場合のメリットも考えたんだが、それよりも私はこの場で君達を殺す方を選んだ。理由は色々あるんだがね」
「聞くに値せず、下郎」
自分に酔ったように話し続けるベリダムの言葉を義父さんの声が遮った。殲滅騎士ワーズワースの二つ名通り、敵を前にしては容赦ない苛烈さがその声にある。
「貴様の思惑などどうでもいい。良かろう、今この瞬間から私達と貴様は敵同士だ。食うか食われるか、ただそれのみ」
「話が早くて助かるよ、ワーズワース。ああ、勇者の前に君を血祭りにあげるのも悪くはないな」
義父さんとベリダムの間に一瞬火花が散ったように見えた。しかし戦うと言ってもどうする? 完全に包囲されているんだ、兵士数人くらいは道連れに出来てもなぶり殺しにされるのがオチ。
ベリダムは勿論、ビューローとネフェリーの二人も侮れない。何故こいつらの考えを事前に察知出来なかった、と唇を噛むも後の祭りだ。
「殺れ--と言いたいところだが、このままでは一方的過ぎてつまらないな。アリオンテ、ワーズワース。チャンスをやろう。今から100数える間、精々逃げ惑え。その後は言わずとも分かろう」
「ベリダム様、おたわむれが過ぎます」
ビューローが諌めるが、ベリダムは己の言葉を翻す気は無いみたいだ。屈辱的だが仕方ない。兵士達が退いた隙間へと僕達は後退する。その時ネフェリーと目が合った。多分、僕と一番仲良くしてくれたのが彼女だ。でもそんなネフェリーも魔法杖を油断なく構え、いつもの陽気さは陰を潜めていた。
「ネフェリー・カーシェン」
「--何、アリオンテ」
すれ違いながら言葉を交わす。僕達には馬はくれないらしく、徒歩での逃亡となる。馬上のネフェリーを見上げる形になった。
言いたいことならたくさんあった。もっと話したいことや、遊んでほしいこともあったし。少なくとも彼女は僕を魔族だからって特別視してなかった......と思う。
だけどやっぱり違うんだな。ネフェリーは僕の友達じゃなくて、ベリダムの部下なんだ。
「さよなら」
「--楽しかったよ、坊や。楽に死なせてあげる」
さよなら、ネフェリー。
感傷をちぎり捨てる。涙は喉の奥に閉じ込めた。ベリダム達との距離が十歩ほどになってから振り向いた時には、冷静になっていた。
「カウント開始だ。1、2......」
ベリダムの声をそれ以上聞く余裕は無かった。僕と義父さんは逃走を開始した。全速力で、後ろは振り返らずに。裏切られたという怒りが心臓を跳ね上げ、この一年の思い出に胸を引き裂かれながら。
「逃げて逃げて逃げまくるしかないです」
分かってるよ、義父さん。こんな、こんなところで--殺されてたまるか!
******
逃げる。逃げる。逃げる。どこへだ。決まっているわけがない。とにかくだ、ベリダムのこの悪趣味な鬼ごっこから何とか逃げ切らないと明日がない。
低い灌木を飛び越える。川の浮き石を蹴って一気に渡った。あいつが100数える間にどこまで距離を稼げるのか。
噴き出す汗を拭う。どうしても後ろが気になる。全速力で逃げなくてはならないが、こんなペースでいつまでも走れるわけがない。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ! く、くっそ、息が切れるっ!」
「若様!? しっかりなさい!」
どれくらい走っただろうか。一時間以上はこの逃走劇を続けていた気もするが、実際のところは分からない。焦りが普段より体の動きを鈍くしている。くそっ、今走らなくていつ走るんだ!?
もつれそうになった足を叱咤する僕を見て、義父さんは少し歩調を緩めた。脇道に僕を誘導し、岩の上に腰を下ろす。多分、敵の気配は無いのだろう--少なくとも近くには。
差し出された水筒から水を飲んだ。刺々しいまでに乾いた喉に染みる。ただの水なのに驚くほど美味い。
「......大丈夫ですか」
「うん、ごめん。僕のせいで足を止めて」
「構いません。ちょっとは撒いていると思います、それにいつまでもあのペースでは走れません」
そう言いながらワーズワース義父さんは少し身を屈めた。低く繁った木の間から後方を観察しているようだった。僕達魔族はかなり目はいい。場合によっては、多少障害物があっても集中力次第で視認することだって出来る。
「--チッ、しぶとい」
「そう簡単には逃がしてくれないんだね」
僕の淡い期待は打ち砕かれた。最初にもらったアドバンテージは、奴らの方が地理は詳しい点と騎馬であることで帳消しになってしまったようだ。それに多分、ネフェリーは僕らの気配を掴む魔法を知っている。あれを使われたら逃げ切るのは難しい。
「どれくらい離れてるの」
「600から700メートル、ベリダムは最後尾です。先頭にビューローですね」
「......受けて立とうか」
義父さんの返事に腹をくくった。どうせこのまま逃げても、一日か二日が限度だろう。じわじわこちらが消耗していくのに対し、相手は食糧や回復薬を持っている。持久戦は不利だった。
それならばこちらが惨めに消耗しきる前に--望みは薄いけど大逆転を狙うか。そう考えて前に出ようとした時、肩に手を置かれた。
「若様。お逃げください。私がここでベリダムを止めます」
顔を見上げた。見慣れた緑色の目は落ち着き払い、捨て鉢にはなってはいない。「何言ってるんだよ、それなら二人で逃げようよ。あるいは僕がのこ--」と言いかけたけど、止められた。
「逃げるのもここまでです。二人で逃げてもいずれ追いつかれます。しかし私が奴らを止めれば、少なくとも若様は逃げきれると思います」
「な、なんで!? 嫌だ、義父さんが残るなら僕も残るよ! 二人で戦えばきっと!」
「なりません、最後のお願いです、アリオンテ様」
聞いてくれない。それどころか、義父さんは僕に背を向けた。見慣れた広い背中、そこに垂れる長い黒い髪が風に舞う。愛用の黒いマントを肩にかけつつ、義父さんはちらりと僕を見た。
「......六年前になりますか。アウズーラ様からあなたをお預かりしたのは。私は最後まであなたをお守りする義務があります」
止めろ、と言いたかった。だけど言えなかった。
「だからここであなたを危険には晒せない」
静かな言葉だった。
だけど。
重かった。優しくとも厳しさを含んだ、まるで岩のような重さがあった。
聞くしかないのか。いや、だけどそうしたら僕は--あの時、実の父親の背中を見送ることしか出来ず、今また同じことを繰り返すことになるのか。
「い、嫌だよっ! なんで、なんで皆、僕の周りから勝手に消えていくんだよっ!?」
勝てる勝てないの問題じゃなく、今ここで逃げたら僕は......二度も父親を見殺しにすることになる。耐えられない、もう嫌だ、そんなのは。
だけど義父さんはぐいと僕の背中を押すだけだった。無言、唇を噛み締めたままの顔。
一歩、二歩と僕は離れる。そうさ、分かってるよ。今の僕じゃ......まだ、足手まといにしかならないってことくらい。
「そろそろ見えてきます。お早く」
「分かったよ。でも追いつくって約束してくれ」
無理矢理強張った笑みを見せる僕に、義父さんは少し戸惑ったような顔をして。「......必ずや」とほんの少し笑った。その右手には再び呼び出した魔槍がきらめく。
「先に行く! 王都で!」
返事は聞かなかった。聞く必要も無かった。だって、だってさ。あの義父さんが負けるわけないんだ。
元魔王軍副官のワーズワースだぞ。ちょっとやそっとで倒れるはずが--
「--あってたまるもんか」
胸に沸き上がる不安を無理矢理押し殺す。ひたすら木から木をつたい、奴らが追跡しづらい道を辿る。不思議と涙は出なかった。あるいは胸の中で凍えてしまったのかもしれない。