過去
次の日、莉桜の祖母を見舞う。
別荘から30分ほどの場所にある療養所だ。
海を見下ろせる高台に立っている白い建物。
吹き抜けのホールを通り渡り廊下を歩いて居住棟に向かう。
「ここです」
大きな開き戸の前で莉桜は立ち止まる。
軽くノックをすると中から声がした。
莉桜が静かに扉を開けると車椅子に乗った女性が出迎えてくれた。
「あけましておめでどうございます。お祖母ちゃん」
「おめでとう。莉桜、元気そうね」
「とっても元気よ。あ、ごめんなさい。こちらが電話でも話した中野さん。祥子先生の弟さんです」
「初めまして、莉桜の祖母です。今回は莉桜を連れて来てくださってありがとうございます」
「中野裕也と申します。せっかくの時間に一緒にお邪魔して申し訳ありません」
「そんなことありません。莉桜によくしてくださって、とても感謝しております」
明るい談話室に移り1時間ほど話した頃、遅くなるからと帰るように促がされた。
「莉桜、本当に来てくれてありがとう」
「また来ます」
「無理をしないでね。貴女が元気で幸せに暮らせているのなら、それが一番なのよ」
「お祖母ちゃんも体に気をつけてね」
「中野さん、莉桜をお願いします」
と、深く頭を下げられた。
裕也も頭を下げて療養所を後にする。
車に戻りエンジンを掛けると莉桜が涙ぐんでいた。
「どうした?」
「会うと、おばあちゃんは私の姿にママの姿を重ねてしまう」
車を止めたまま裕也は莉桜の次の言葉を待つ。
「私のママは交通事故にあって亡くなったの。
お祖母ちゃんを送る途中にセンターラインを超えて走ってきた車とぶつかった。
その事故でお祖母ちゃんも脊椎を痛めて歩けなくなったけど、ずっと自分を責めているの。
いつものように電車で帰るからと言ってたらって」
重い事実に言葉もない。
「私も同乗していたけど、ショックが大きくて何も覚えてない。
気が付いたら体中が痛くて病院のベットの上だった」
裕也は堪らず助手席の莉桜を抱きしめた。
突然、肉親を亡くしたショックを思うと胸が締め付けられる。
まして幼い子どもにとって母親を亡くすことがどんなに辛いことか。
そして莉桜の祖母が頑なにここで暮す理由の重さを知った。
裕也は運命の残酷さを思う。
「中野さん、一緒に来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
「この前、来た時は二人で泣いちゃったの。だから、少し怖かった……」
時間が癒してくれることもあるだろうが、癒されない傷もある。
莉桜の言葉に抱きしめてやることしか裕也には出来なかった。
どれぐらい時間が経ったのだろうか、莉桜がようやく呟いた。
「もう大丈夫です。ありがとう」
至近距離にある莉桜の顔を覗きこむと、はにかんだ笑顔を浮かべる。
過去は変えれないが、未来は違う。
莉桜の過去を一緒に背負ってやりたいと裕也は思った。
「莉桜」
初めて名前だけで呼ぶ。
そして、静かに唇を重ねた。
東京に帰ると二人の距離は少しだけ変化していた。
一緒にいたい気持ちが行動に表れる。
もともと時間に自由の利く職業なので、裕也が莉桜を食事に誘う回数が増えた。
莉桜が料理を作って部屋に招くこともある。
一日に何度かメールをやり取りするようにもなった。
莉桜からのメールは最初は雪が降っているとか、友だちのこととか短い文章だけだったのが、いつしか写真付になり、裕也の楽しみとなる。
ある日、夕食を裕也の部屋で食べた時に、莉桜はスケッチブックを持ってきた。
前日に似顔絵の話が盛り上がって見せてもらうことになっていたからだ。
顔の特徴の捉え方を聞きながら裕也は自作のヒントになりそうだと思っていた。
莉桜は話している間に絵のイメージが沸いて来た様で、スケッチブックに鉛筆を走らせ始める。
その横でプロットを練る時に使うノートを広げる裕也。
同じ空間に居て小説を書き、絵を描く。
言葉を交わさなくても、そんな時間が心地よかった。
伊豆の別荘でピアノを弾いて再びピアノ熱が湧き上がり、裕也は電子ピアノを買った。
リビングに置かれたピアノを見て編集者達は驚いた。
「ピアノは5歳か習わされた。友達とユニットを組んでピアノを担当してたこともあるんだぞ」
ピアノを弾くことでストレス解消だと裕也は説明した。
でも本当は莉桜が喜んだからだ。
「ピアノが弾けるなんて素敵です。私、聴くのは大好きだけど自分では弾けないから……」
スラスラと何曲も好きな曲が出てくる莉桜。
裕也の好きな曲とダブり、ますますピアノが弾きたくなったのだ。
そして楽譜を二人で買いに行き、大人買いだと笑いながら大量に買って来た。
ピアノを弾き、音楽を聴き、絵を描き、小説を書く。
一緒に食事を作って食べ、洗い物も二人で行う。
誰かの小さな心遣いが嬉しかったとか、パン屋さんの新作パンを今度一緒に食べてみようとか、日常の些細なことを話す時間が楽しかった。
2月に入り、ニュースでインフルエンザが大流行だと聞いて裕也は心配になる。
初めて会った時の莉桜は肺炎に罹り苦しんでいたのだから。
だから時間がある時は大学へ送っていったり迎えに行ったり、昔の裕也なら決してしないことをした。
さすがにこれは過保護だと莉桜は怒ったけれど、理由など一緒にいる時間を作るための後付だと裕也は笑う。
こうして二人は、その冬の天候のように穏やかな日々を重ねていった。
キスから先に進むこともせず、ゆっくりと絆が出来ていく――不思議な関係のまま春が近づく。