靴職人
翌朝、開店まもなくハイネが店を訪れた。
かぽかぽと足を鳴らす姿を見て、他の仮靴を用意するのをすっかり忘れていたことに気付く。
正直にそれを謝罪するも、横から出しゃばった店長が、抜け目なく真新しい靴を彼女に差し出した。しかも、例の宿屋に並んだ靴を買ったらしく、その小さな黒のローファーは、もともと怠け者という意味があるのだから、何ともいやみたらしい。
「こういう愛らしい靴は、久しく履いておらんの」
言いながら、ローファーの爪先をとんとん鳴らすハイネは、昨日の旅人らしい格好から、ブラウスにループタイ。サスペンダーといったラフな着こなしで、靴ととても良く似合っていた。それをそのまま口にしたら、ハイネは嬉しそうにはにかんだ。
ひやかす店長は放置して、仕事にとりかかろうと、まずは彼女の足と靴のサイズが合っていない事を伝え、都合がつくならここでの製作を申し出る。
「そうか……ならば仕方ない。靴のことは靴屋に任せるのが一番ゆえ、新調してもらうおうかの。なに、丁度よい。私も旅の骨休めが出来る。一週間ほど待てばよいか?」
「ええ。充分です。じゃあ店長、引き継ぎおねがします」
「お。そうだな……てかオギ。お前、やってみるか」
「…は?」
店長の軽すぎる一言に、本当にただ聞き返していた。
「どうですかお客さん。もちろん俺がちゃんと監督しますけど。こいつに任せてみませんか?そうですね、料金はお客さんが付けてくれてかまいませんから」
「あの、店長?」
「まだ客から直接注文を受けたことはないですけど、腕はオレが保証します」
ようやく店長が言っていることを理解して、言葉を失う。
「そうか。つまり、私がおぬしの初めての客になるわけだな。それは光栄だ」
光栄なのはこちらの方だと、思わず返してしまいそうなほど心が浮き立っていたが、そこまで手放しに喜べるほど、自分が素直じゃないと知っていた。
そっけない態度で頷き、すると、ハイネが嬉々として手を挙げた。
「せっかくだ。おぬしが靴を作るところを見てみたい」
「でも、町の案内をするはずじゃ…?」
「なに、また明日でよい。町の滞在は一週間も延びたしな」
こちらとしては、見られて作ることに気恥ずかしさを感じるが、ハイネの押しの強さはこちらの事情などお構いなしに、カウンターを迂回してくる。
店長に目をやれば、店長は店長で率先して彼女を店の奥へと案内していた。二人の後に遅れて続けば、奥の作業室では、ハイネが手当たりしだいに工具を触りたおしていた。
「…靴を作るところなんて、今までも見たことあるんじゃないですか?」
「もちろんあるぞ。だが、何かが人の手で作り出される様はいつみても面白いものよ」
そう言われては、そういうものかと納得するしかない。
「確か、なめし革の裁断をするために紙型を作るのだろう?」
「いえ、まずラスト(・・・)を作らないと…足に合わせた木型を作るんです。普段は各サイズの基準となる木型から足に合うよう削りだしていくんですが、お客さんの場合、基準サイズ自体がウチにないので、最初から切り出さないといけません」
「そうかそうか。それはひと苦労かけるの」
「それに、紙型ですが、まずデザインを決めてもらわないと。棚にいくつか見本があるので、その中で良ければ選んで下さい。そうだ、製甲の革も選んでもらわないと。ウチでは爪革はお客さんに選んでもらってるんです。革靴の顔は飾り革ですけど、旅人の靴で重要なのは機能性ですから、やはりバットとミドルかのどちらかですね。もちろん飾り革の方もお客さんが銀面を見て決めてくれて構いません。あと、表底ですが、個人的にはゴム革をすすめます。革底は確かに通気性に優れてますが、雨水などの浸水がどうしてもネックですし、それに、最近は頑強なゴム材も多く出てるんです。たとえば―――」
言いかけるが、店長の笑い声が割り込み、気を取られた。
「まあ、オギ。いいから落ち着け。そんなに言っても、素人さんにはちょっと難解だ」
そうたしなめる店長に、ようやく自分でも気が付いた。これではお祭りの前日にはしゃぐ子供と一緒だと。
とたん顔が熱くなるが、お客相手の靴が作れることにどれだけ浮かれているかなど、もはや歴然で、店長のみならずハイネからも微笑ましいものを見る眼差しで見られていた。
「――っ、ラスト作ります」
羞恥にたえきれず、その場から逃げるようにして木型の材料を集めにかかった。
木型の原木と、それを削る型違いののみ一式。固定用のクランプなど、一通りを作業台の上に広げると、オギはハイネを呼んだ。
足の測量は昨日に測ったが、靴を一から製作するからには他に、両足そのものの型を鉛筆で紙にかたどらなければならない。それからどういう歩き方をするかを見て、足の付け方や、体重のかけ方。それらを考慮してはじめて木型の造型が決まる。
靴作りは、この冒頭の木型で善し悪しの全てが左右されるため、妥協は許されない。
オギは淡々と作業をこなしたが、それでもどこかふて腐れた態度が出てしまい、ハイネに終始くすくす笑いを止めなかった。
台に戻り、サイズを確かめながら荒く削り出すと、ハイネが傍らでその様子を眺め出した。けれど、黙々と木を削るだけの作業に彼女はすぐ飽きた。
「…今日は一日中これですよ。確か店長の方は裁断するはずなんで、そっち―――」
言い終わるより早く、ハイネは店長の方へ駆けていった。
むっとするような、ほっとしたような、厄介な気持ちに挟まれつつ手元の作業に戻る。
すぐ横手では、革を手作業で裁断していく店長にハイネが歓声を上げている。裁断機を使う店もあるがウチはもっぱら手作業で、厚く固い革を切るのには技術がいった
だからこそ、たいてい子供には革ではなくフェルト地の靴を履かせる。すぐ大きくなる足に、手間も手入れもお金もかかる革はそぐわない―――と、子供の靴で思い出した。
昨夜に整備した、ハイネの靴の奇妙な点。
「…あの、ちょっといいですか。お客さんが頼まれた昨日の靴なんですけど……」
「おお、そうだったな。そちらで引き取ってくれてかまわぬぞ。不備な点がなければ、今度来る客の仮靴として使ってくれ」
「いえ、そうじゃなくて……実は、不備な点を見付けられなくて。もちろん、昨日聞かなかったこっちが悪いんですが、それで、もし良かったら参考までにどこを損じていたのか教えてもらえませんか?」
店長の目が気になったが、なるべく見ないようにした。
「なに、私は寄る町寄る町で、靴の点検を頼んでおるのだ。靴は旅人にとっての命だからな。目に見えた故障が無くても、内に重大な損傷があるかもしれぬ。だからいつもプロの目を通しておくのだが……すまぬな。最初に言うのを失念しておった」
ハイネは詫びるが、詫びる必要など一つもなかった。
きっと店長も同じだろう。それは靴職人にとって、最大の賛辞。
靴を靴屋に預けるという、ごく当たり前のことが、ハイネにとっては職人からの安全を保証してもらうことだという。そこまで靴に対してこだわりを傾けてくれるうえ、靴の保証が命の保証と同義のように言われては、嬉しくないはずがなかった。
「いやあ、職人冥利に尽きる言葉だね。良かったなオギ、いいお客さんに恵まれて。でも逆に、このお客さんに出しても恥ずかしくない靴を作らないとな。オギ」
人事だと思って、変なプレッシャーをかけてくる店長に腹が立つ。
それでも確かに、彼女のひたむきな信頼には応えたいと思った。
浮ついていた気持ちが、引き締まる思いで再びラストの作成に取りかる。
木目を荒く削るのは同じだが、削る音と感触が手の平に心地よく響いた。
それから何十分が流れたか、手元に集中するあまり、ハイネがすぐ横に戻っていたことに気付けなかった。
ハイネはじーっとこちらを見ていた。靴ではなく人の顔を…目を凝視していた。
「……どうかしたんですか?」
「気にするな。おぬしの目の色が好きなのだ。赤を成す色の度合いが実に郷愁をそそる」
はあ、と本気でどう答えればいいのか分からない。
「だが、オギ……おぬしホントは目が悪くないであろう。眼鏡に度が入っておらん」
しまったと、今さら遅いのに彼女から体ごと離していた。
すると、ハイネがむっと頬を脹らませた。
「いくら私が子供でも、おぬしから無体に取り上げたりはせぬ。私はただ、目が悪くないなら作業の邪魔でないかと思っただけだ」
「あーいえ、これがないと落ち着かなくて」
「そうなんだよ。そいつ、やたらと眼鏡にご執心で、風呂にはいるときも外さなくてね」
何気なく入った店長の合いの手に、全身の毛がそそけだつ。
「何で知ってるんですかっ。いま心の底から店長が気持ち悪いと思いましたっ」
「……あのな。ガキの頃、腕を怪我したお前の頭を洗ってやったのは誰だ。そん時、意地でも眼鏡を外さなかったヤツは誰だ」
「あ…」
「そういや、その頃のそいつときたら、しょっちゅう怪我をこさえてきてね。それも擦り傷といったカワイイもんじゃなくて、骨折とか脱臼とか肉離れとか、どこで何をしたらそうなるのか……とにかく、オレは毎日気を揉まされてきたわけよ」
「見かけによらずワイルドな少年時代だったのだな。今のおぬしからは想像もつかぬ」
「そうそう。今じゃ逆に大人しくなりすぎて、今度はそっちの方が心配なんだよ」
「そうだの。男の子はもう少しはつらつであって欲しいの」
「お。わかってくれるかいお客さん」
なにやら意気投合しだした二人は、それから人の人格を話題に盛り上がる。
人の気も知らないで、ずいぶんと遠慮なく言ってくれる。
俺だって、別に怪我をしたくてしていたわけではない。ただ昔はちょっと力加減というものが上手くいかず色々と失敗しただけだ。
こうして大人しく暮せることが、どれほど骨身を削って得た結果か。
それを思えば無難な生活に執着したくなったし―――そして、そのためにも眼鏡を外すわけにはいかなかっただけ。
そんな口に出来るはずもない言い分は、ため息という形で口から出ていく。
せっかく目前の務めに意気込んでいたのに、外野がぎゃあぎゃあとうるさいせいで、すっかり集中力に欠いてしまった。このまま続けたところで作業に身が入るはずもない。
仕方なく、息抜きをかねた昼休みをもらうことにした。
それなのに、もれなくハイネが付いてきた。