旅人の世界
第五章
白じんだ空の下、朝もやの中を並んで歩くのは、二つの人影。
「いいんだな。それで」
「はい。きっとこれが最善の方法だと思います」
迷いのない返事に、店長はため息をついた。
「そうやって水を差さないで下さい」
「だがよ。これじゃあ、エマソンの思い通りな気がしてな」
「大丈夫です。させませんよ、思い通りになんて。絶対に」
確証もないのに言っていた。
時間が経つほどに神経が高ぶっていくようで、でも、あの夜の森とは違う高揚の仕方だった。一歩進むごとハイネへと近づいていることが分かるのだ。この先に彼女が居ると思うと、それだけで澄みわたる湧き水のように、とめどない力が溢れてくる。
教会まで付き添うと、頑として譲らなかった店長と朝もやの中を行けば、まもなくして教会をのぞめる路地に入った。
うっすらと、もやがかったレンガ造りの教会はひっそりとして、何かが動き出す気配はない。まだ時間ではないと、そのまま路地の片隅で潜むことにした。
「…にしても。つまりは、やっぱりお前……見えてたってことだよな。エマソンには魂の識別は出来ないとか言ってたけど」
「ええ。まあ…」
「眼鏡はそのためか。度の入っていない眼鏡、子供の頃から肌身離さず持ってたろ」
「はい。こういうフィルターがあると見えなくなるんです。って言っても、人の姿に重なって何かが薄らぼんやり見えるだけですけど……あ、でも……」
「何だ?」
「無闇に見てはいけないもののような気がしてたので、しばらく直接見てなくて……最近色々ありましたから、もしかしたら、もっとはっきり見えるかもしれません」
言って、店長に意味ありげな視線を送る。
「試してみますか?確か姫君でしたね、前祖」
タマゴを丸ごと呑み込んだような顔をする店長に、思わず笑いが込み上げた。
「冗談ですよ」
「――お前、いつになく酸味がきいてるな」
「そうですか?……そうですね、ちょっと気持ちが浮ついてるかもしれません」
悪気もなく答えたせいか、店長はどこかふてくされた。
「でも店長、本当に姫君だったんですよね?」
「何だよ。本当にって」
「だって……店長、庶民派というか、せこいというか、短気というか、オッサンというか、おちゃらけというか、オッサンというか」
「いまオッサン二回言ったろ」
「けど、仮にもお姫様だったのに、ちょっと変わり過ぎなんじゃないですか?」
「あのな、あれからどれだけ世代を重ねたと思ってんだよ。いつまでも温室育ちでいられるほど世間はお優しく出来てないんだよ」
「だから心配なんです。騎士様の立場から言えば、別人のような気がして」
「だから、そんな昔の話にいつまでも色めき立ってるわけないだろ。そもそも今は男だ。あの時の話を持ち出されても、お伽話以外の何ものにもならねぇよ。ただ、アイツの魂を持った奴に会って、昔話ができれば充分だ」
なら何故、他の人と結婚したりしないのか。とは聞けなかった。
そこは店長の胸の内。さすがに踏み込めはしない。
「…まあ、はじめて男に生まれたときは、それなりに複雑だったけどな」
冗長なのは照れ隠しなのか、店長は腕を組み、誰も居ない場所を睨み付けた。
「エマソンが言ってたこと、頭に来るけど…分からなくはない。来世の濫用。あれには、返す言葉がなかった。オレもさ、昔が昔だから容姿に執着したことがあって、本気で考えてたわけじゃないが、来世に逃げ込むことも手だと思った」
そう告白する店長を、責められなどしない。
来世を知ってしまった人なら、きっと誰もが一度は考えてしまうのだろう。
「でも、生まれ変わりっていうのは永遠の命とは違う。永遠に続くようで続かない。不思議とな、体が変わると心も変わることがあるんだよ。以前は簡単に出来たことが難題になったり、難題だったことが簡単に出来たりするせいだとオレは思う。それに、人間を一番変えるのは回りにいる人間だから―――って何語ってんだか」
己の独白に気付いた店長は、その講釈を無かったことにするように口を押さえた。
「いえいえ、気にせずどうぞ。暇潰しに聞きたいです」
「暇潰しって……まあいいか。お前は、信じられないかもしれないけど、この町もな、昔はそれなりに荒んでたよ。まあ、治安を守ってた国を無くしたんだから当然なんだけど。でもオレはさ、その時はまだまだ箱入りのお嬢さんだったから、何も出来なくて。でも、その中で一人だけ声を上げる奴がいて、そいつのおかげで少しずつマシになってたんだよ」
「…じゃあ、店長と一緒にこの町は変わっていったんですね」
「ま、もともと町ってのは人が作るもんだからな。人が変われば町も変わるだろ。おかげで今じゃ、呼んでもねぇのにやたらと馬鹿なのが集まりすぎて、あの有様ってわけだ」
「…それは、きっとアレですよ。ほら、類は友を呼ぶ」
「ああ、なるほど。って、おい」
ついつい茶化してしまったが、店長の話は、とてもすご事のような気がした。
最初はたった一人だったのかもしれない。変化もほんの些細な事からだったかもしれない。でも、町は着実に変わっていったのだろう。
その理由は分かる気がした。もし、町が変わっていく様を何十年も何百年もその目にすることが出来るなら、それはいっそう町を変えていく力になったに違いない。
ふと思った。店長がこの町の変化を見続けてきたのなら、同じように見てきたはずのこの世界が、店長にはどう見えるのかと。だから、思ったままに聞いてみた。
「店長には、この生まれ変わりの世界がどう映りますか?」
「どうって……あー、そうだな。やっぱり、旅人の世界だろ」
「旅人の…?」
「長い長い時間をかけた人間の旅。男や女、色んな姿、色んな国、色んな立場に生まれて、育って、人を知り、自分を知る。そうやって生まれ変わり続け、いつしか行きついたその先で、最後に人の心に残るのは……何だろうな。って、何か良く分からんな」
そう言って、自分の言葉に頭をひねる。
店長のそんな様子をよそに、ついつい口元が綻んでいた。
「笑うなよ」
「違うんです。おかしかったんじゃなくて……店長は、ハイネと良く似ているなって。だから、すごく嬉しくて」
思ったことを素直に伝えただけなのに、どうしてか、店長は眉をひそめた。
「お前……何か変だぞ。熱でもあるんじゃないか?」
「……そうですね。あるかもしれません」
自分でもあっけらかんとした返事だと思ったが、潤んだ熱のような高揚感がどんどん強くなっていて、自分では抑えられず、抑えようとも思っていなかった。
その時、教会の周辺がにわかに動き出した。