前祖の記憶
話があると、持ちかけたとき、店長は何とも言い難い顔をした。
店長を待っている間に日は暮れて、深刻な面持ちで帰ってきたところに直撃したが、返ってきたその表情に、ただでさえ高ぶった気が余計に緊張した。
作業場に席を設け、面と向かい合った。
店長が戻るまでに何を話すか色々考えた。ハイネは明朝に行ってしまう。時間が無いと、なるべく整理したつもりだったが、いざ話すとなると幼稚な言葉に思えて、ためらわれた。
「あの…店長には、思い出すのが辛い前世の記憶はありますか?」
「……お前は、オレに前世の話を聞きたくて、わざわざ待っていたのか?」
回りくどい言い方が気に障ったのか、店長はいつになく重い口調だった。
「いえ…いえ、違います。その……これからどうすればいいか聞きたくて……俺は、俺なりに考えました。それこそ、教会を襲撃してしまおうかとすら考えました」
店長が、かすかに眉根を寄せた。
「俺は、自分が分かりません。ハイネを恨んでいると俺は思っていました。でも、同時にハイネを助けたがってる自分がいるんです。だから、教会を襲撃してでも、ハイネを連れ出して、そのまま町を出ていこうと思ったんです」
「…………」
「今も、その考えが捨てられません。でも、それは褒められた事じゃない。結局ダメなんです。ハイネを助けるか、助けないか。この町を出て行くか、行かないか。俺には決められない。前世なんて思い出さなければ良かったんです。そうすれば動けたかもしれない。せめて、前世と決別できる方法があるなら、それが知りたい」
いっきに言葉が出ていった。途中からは思いのままに喋っていた。
店長は静かに聞いていてくれたが、眉を動かしただけで表情を一切くずさなかった。
「……わかった。オレの前世がお前に少しでも役に立つのなら、お前に何かを決めさせてくれるタシになるなら協力する。確か、思い出すのが辛い前世の記憶だったな。あるよ。っていうか、オレの場合は前祖の記憶で、いわゆる“最期の時”を迎えた瞬間があまり良いもんじゃなくて……思い出すのは、今でもしんどい」
すみません、と聞いてしまったことを謝ろうと思ったが、店長は気に止めなかった。
「ただな、お前は“今”を生きている。前世なんか気にするな。とか、言ってやれたらいいが、でも、オレには無理だ。オレ自身が前世を切り離すことが出来ないから」
「…………」
「オレの言葉で言えば…そうだな。生まれ変わりってのは、誰も自分を知らない場所に流れ着いたようなものだ。そこで人生をやり直すことになる。もし、そうしたいなら、前世と全く違う生き方をするのは、そう難しいことじゃない」
「なら――」
「でもな。違う人生を選んだところで、前世は消えない。過去の記憶を、体験を、無かったことには出来ない。いいか、オギ。記憶を思い出せないお前にこう言うのは酷だが、過去の記憶は、自分が誰かを教えてくれる唯一の手がかりだ。だからオレは、思い出すのが辛くとも、失いたいとは思わない」
きっぱりと断言した店長に、諭そうとする気持ちはひしひしと伝わった。
でも、自分を否定される言葉が、これほど受け入れがたいものだとは思わなかった。
「じゃあ、俺にどうしろっていうんですか」
挑戦的な言い方に、すると、店長はその目に鋭い光りを走らせた。
「…なあ、オギ。教会を襲撃するっていう話、オレは反対しない」
一瞬、自分の耳を疑った。
「お前にはハイネが必要だ。だいたい前世と決別しようにも、まずハイネと話し合わなきゃ何にもならんだろ。いいじゃねか。お前とハイネが町を出れば、あいつらがこの町にいる理由はない。だが、それでも居座るつもりなら、こっちも黙ってられるか。この町の連中が、マナーのなってねぇ旅人のあしらいに、どれだけ慣れてるか教えてやる」
不適に笑う様は、暗い陰を落としていた。
はたして店長は、冷静な判断でそんなことを口走っているのか、不安になった。
エマソンの言動に一番腹を立てていたのは店長かもしれない。ああした理不尽な振る舞いに、よほど頭に血が上りやすい人だった。
止めるべきか迷っている間に、店長はどんどん話を進めていく。
「いいか、攻めるならもっと夜が更けてからの方がいい。それからお前らは、遠くに逃走するフリして近くに潜んでろ。そうだな、白の公国跡地が一番適してる。まだ知られてない非常用の地下通路が城内につながってるから、それを使え。待ってろ。いま場所と城の見取り図を描いてやるから」
言って、近くの棚から紙とペンを取り出すと、滑るようにペンを走らせていく。
「城のほとんどは、一般に公開されてないから、よほど動き回らなきゃ見つかないはずだ。ただし、三階以上には上がるな。慣れてない奴はまず迷う」
店長はまるで、そこで暮らしていたことがあるように言った。
暮らしたって……あの公国は何百年も前に滅びたのに?
「あの、店長……」
「心配するな。籠城に必要な物資は、ほとぼりが冷めた後にでもオレが届けてやる」
「そうじゃなくて……なんで、お城の見取り図とか…地下通路まで知ってるですか?」
「なんでって――…」
店長が、いかにも「あ」と言う顔をした。
それは図らずしも、店長の盲進を止めるために覿面の効果を発揮したようだった。
その変貌ぶりに、小さな好奇心がつい口を動かした。
「店長の前世って…どういう人なんですか?」
店長は止まったまま動かなくなった。
聞いてしまったものの、前世の話をしたくないのなら無理に聞くつもりはなかった。
むしろ、落ち着きを取り戻した店長と、もっと談じるべき事があるではないか。
「……あの」
「話しても、いい」
不意にこぼされた一言に驚いた。
「ただし覚悟しろ。聞いたらお前は恐ろしい思いをすることになる」
「…え」
「実はな、前世で…いや、前祖でオレは、すぐそこの公国で王家の末裔やってたんだ」
王家の、末裔…?ずいぶんと持って回った言い方に、いまいちピンと来なかった。
確か、あの国の末裔は―――瞬く間にある言葉が駆け抜ける。
悲劇の死を遂げた、公国最後の姫―――
「……………………え?」
「だからな、ちょっとした公国で、ちょっくら姫様的なことやってたんだけど、そこの大公が愚鈍でよ。あまりの暴君ぶりに自分とこの兵隊にクーデター起こされるわ、城に乗り込まれるわで、てんやわんやだったんだけど、先陣を切った騎士がたまたま姫様の恋人で、たまたま現場に居合わせて、たまたま父親をかばって恋人の剣に倒れたわけよ。で、今や誰もがご存じ。白の公国は、恋人たちの聖地として崇め奉られるようになってる……お前にこの恐ろしさが分かるか?人の恋路を散々ほじくり返されたうえ、城内の庭にはな、騎士様と手と手を取り合う銅像がそびえ立っているんだぞ」
「…………」
「…………」
落ちてころころと転がっていくような沈黙だった。
そして、その転がりが止まった瞬間、自分でも驚くほど唐突に噴き出した。
けして笑っていいような内容ではないのに、それでも、そのオソロシイ銅像を前に、ぽかんと突っ立っている店長を想像してしまうと、笑いが込み上げてきて止まらなかった。
「……すみません。笑って」
「いんや、いっそ笑われた方が救われる」
うんざりした様子で言う店長は、まだ笑いが止まりきっていない俺を見ながら、にやりと笑った。
「でも、確か……その騎士様も、その場で大公に殺されたって話でしたね」
「…らしいな」
姫君をその手にかけたことで騎士の心は折れてしまい、大公に凶刃に無抵抗だったという。そうして、流す必要の無かった二つの人血を最後に公国の歴史は幕を閉じた。
「もしかして、今も待ってるんですか、その人を」
「……というか、待ってるって言っちまったからな」
店長はどこか空を見つめた。哀惜を滲ませた遠い目だった。
「よりにもよって“来世で待っている”って最期に言い残したんだよ。いま考えれば、まるで呪いのように思えてな。人殺しをさせたうえ、待ってるなんて言ったせいで呪縛にさせたかもしれない……自分を許せていないかもしれない。だからさ、会って色々と言ってやりたいんだよ。オレは」
「…まだ、会えてないんですね」
遠くを見つめる目に、自嘲めいた笑みが重なった。
「生まれる時代が合わなかったり、生まれた場所が悪かったりとか。まあ、今世は偶然にもこの町の靴屋の息子に生まれてよ。もしかしたらとも思ったけど、もうすぐ四十越えちまうし……生まれ変わるのも、難しいよな」
「…まさか、ずっと、この町で待ってたんですか?」
店長がこちらを見向いた。
「ここは待ち人の町だぞ。誰かを待つには申し分ないだろ」
そこには、いつもからかう時のしたり顔があった。
何と言えばいいのか、そう言ってしまえる店長に舌を巻いた。
してやったと、店長はしばらくほくそ笑んでいたが、ふとしてひと息つくけば、背もたれに深く寄りかかった。
背もたれから真っ直ぐに見返す目には、もう鋭い光も、哀惜の色も見当たらなかった。
「ただ、さ。オレの場合、待つことに慣れすぎてたのかもな。たまにはあの子みたいに向かっていかないと。待ってるだけじゃ、そいつのためにならないこともあるって学ばされた……ハイネには感謝してる。オレには出来なかったことを、お前にしてくれたから」
「…………」
「悪かったな。せっかく相談してくれたのに、ちょっと頭に血が上ってたっていうか、自分本位な考えを押しつけてた」
「あー、いえ……」
改めて言葉にされると、どうにも気恥ずかしく思えてくる。
「でも、今度はこっちが聞いてもいいか?どうしてオレに相談してくれる気になったのか。少し前のお前じゃ考えられないだろ」
少し複雑そうな顔で言われ、とたん申し訳なさが募った。
店長は、きっと、俺が自分から言い出すことを待っていてくれた。俺が普通の人間ではないと知っていたのに、待っててくれた。
でも、俺は、ただひたすら壊さぬよう、触れぬよう、いつしか手放すものなら、何の痕も残さないようにと、そうすることしか考えていなかった。
そこに、土足で踏み込んできたのはハイネだった。
俺はハイネにも距離を置こうとした。
けれど、ハイネは大手を広げ、逃がしてはくれなかった。
しぶしぶ捕まった。しぶしぶと手を引かれていった。
そして、小さいはずの彼女の手は、本当は大きくて、温かいことに気が付いた。いつしか、その手を自分から握り返しているのことに、気が付いた。
「…ハイネが教えてくれたんです。最初の一歩を踏み出せるように手を引いてくれて……ハイネは、俺みたいに前世で迷っている人に、より良い道を示すのが身上だそうです。たぶん、ずっとそうして世界を回っていたんだと思います……」
目の前の無愛想な男が、かつての友だと知るはずがないのに、ハイネは初めて会ったときから、俺のことを心にかけてくれていた。
魂を識別できる戒杖がなくとも、そうしてくたのは、ハイネの為人に他ならない。
「俺にはエマソンの言葉が信じられません。ハイネが無責任だなんて思えない。ハイネはハイネの遣り方でこの世界への責任を取っている……ハイネは、無責任なんかじゃない」
それなのに―――
「なのに、何で俺は、そんな人を恨んでいるんでしょうね」
喉から込み上げてくるものを抑えようと、口を覆っていた。
「……お前は、これ以上ハイネを恨みたくないから、自分の前世を思い出したくなかったんだな」
「……はい」
「お前は、自分が分からないと言ったが、それは、現世のお前が、この数日のハイネを知っているから、ハイネを恨んでいるという前世の自分が信じられないからだろ」
「…はい」
「なら、やっぱり、取り返しに行かないとな。ハイネこそがお前の前世なんだから」
「はい」
いまやっと、いや、きっと生まれて初めて、心から自分の前世を取り戻したいと思う。
店長の言う、前世の記憶が自分を知るための手がかりなら、前世が過去の俺を教えてくれることだろう。
そして、戒杖から人間に生まれ変わった今なら、過去の自分を違う視点から見ることができるかもしれない。
そして、ハイネを恨んでいた自分すら、違う視点で見られたら、いつか彼女を許せる日がくるかもしれない。
だとしたら、俺は、たとえ思い出すのが辛くても前世の記憶を取り戻したいと、思った。
「うんじゃあ、やっぱり、ここはいっちょ襲撃でもしにいくか」
「いえ、それは最後の手段にしましょう。下手をして、町の人を巻き込むことになったら、目も当てられません」
景気よく切り出した店長をすかさず諫める。いつの間にか、いつもの調子が出ていた。
「まあ、エマソンを人質に取れば、町の皆には手出しできないと思いますが…あくまで最後の手段です。それに、ハイネの意志もあります。ただ、彼女にはこれまで色々と強引なことをされましたからね。こっちが強引な手段を取っても、おあいこです」
「おお、言うね。さらりと」
「別の方法がなければですよ。あくまでも」
「あ。じゃあ、お前の靴はどうだ?まだ未完成だろ。出来上がるまで待ってもらえば、それだけ時間が稼げる」
「そんなことでエマソンを足止めできるとは思えません」
「何言ってんだよ。旅人の祖であるハイネの靴だぞ。いい加減に扱うはずがないだろ、ハイネ本人がそう言って―――」
「ですからエマソンの目的は、ハイネの旅を終わらせることなんです。靴なんて旅人の象徴、かえって疎まれるだけです」
とはいえ、完成間近の靴をハイネに渡せないは悔やまれた。
店長は、納得いかないように難しい顔をしたまま考え込んでいたが、今は靴よりもハイネ自身を優先しなくてはならない。
「店長。店長の気持ちはわかりますが」
「わかった……」
「ええ、ですから」
「違う。そうじゃなくて……お前がこの町の靴屋を選んだ理由がわかった」
「……?」
いきなり何なのか。なぜ脈絡もなく、そんな話に飛躍してしまうのか。
「子供の頃、お前は靴屋を選んだ理由はないなんて言ったたけど、本当にそうなのか?言ってたろ。ハイネは、寄る町で寄る町で必ず靴屋を訪ねると」
「…………」
「お前、分かっていたんじゃないのか。靴屋にいればハイネ・ガラドリエルが、いつの日にか訪ねてくることを。魂があるところで……待っていたんじゃないのか?この町で…この待ち人の町で、お前はハイネ・ガラドリエルを待っていたんじゃないのか?」
投じられた一石は、瞬く間に沈み込んで、ずぐりと重い痛みを走らせる。
ハイネを…待っていた……?
ぐらりと揺れた。めまいのような一瞬は、波紋の速さで全身を浸食していく。
でも違う。店長が意味した事が、この波を揺らすのではない。
違う。違うのだ。
もっと、もっと、もっと―――私は、ハイネを、待っていた―――
「――っ」
今にも吐露してしまいそうな、むせびが押し寄せる。
同時にわき出す恨みがましい感情を必死に抑えた。
―――待っていたのだ。俺はずっと待ってた。ハイネを待っていた。
―――じゃあ、何なのだ。この思いは。この恨みがましい想いは。
まるで、形の合わない入れ物から抜けだそうとする魂のもがきは、誰かを呼ぶように、ののしるように叫んでいた。
「――――」
店長が何か言っている。でも、わんわんと鳴る頭のせいで、うまく聞き取れない。
不意に床が抜ける感覚に襲われた。
驚き、顔を上げれば、机を挟んだその先に、それはいた。
黒い柄に赤い宝玉の戒杖が、棺のような漆の箱に横たわっていた。
机から飛び退き、とっさに見渡せば、そこはもう作業場ではないかった。
いつの間にか、知らない場所に―――知っている場所にいた。
あれほど煩かった耳鳴りは、嘘のように消え、静まりかえった音しかしない。それもそうだろう。ここは地下室なのだ。音はきわめて稀少な存在だった。
ハイネしか知らない秘密の地下室であり、ハイネが一つの人生に寿命を迎える刻、いつも俺を、私を、置いていく場所。
だからこそ、ハイネは、出来るだけ良い環境を地下室に作ってくれた。
冷たい地下室に暖かみのある装飾を施し、一面の壁を様々な絵画で埋め尽くしてもくれた。棚という棚もまた、これまでの旅路で手にした思い出の品を一つ一つ飾ってくれた。
だが、足も手もないこの身に、それが何の足しになるだろう。
ひとときの変化ももたらない空間で、ただ待つだけの部屋。
何年も、何十年も待ち続けるだけの時間。あの鉛の扉を再びハイネが開けてくれる日まで、ひたすら独りで待つことしか出来ない、この体。
―――でも、俺は、私は、戒杖だ。持つことに何も感じはしなかった。
いつからだろう、待てなくなったのは。
ハイネのせいなのだ。
ハイネによって育てられた心は、共に生きるたび深層を重ねていった心は、私に、俺に、耐え難い苦痛を与えた。
「俺がハイネを恨んでいた……?」
―――ああ、恨んでもいたさ、どうしようもないほどに。
「どうしようもないほど……」
仕方ないではないか。
「これは――」
これは、千年の恋。