聖人の横顔2
「人間というものは得てして、己の範疇を大きく超えるものを前にすると、それを拒絶するか、屈服するかの二択を取ってしまうものです。そして、ハイネを前にした多くの人々は、その後者を取っただけにすぎない。しかし、それを屈服だとは思っていないでしょうね。何しろ相手は聖人です。皆が皆、仰ぎ見ることに疑問すら持たず、ハイネの意に沿おうとする。言い換えれば、この世界はハイネへ畏怖によって維持されてきたと言えるでしょう」
「維持……」
「ただ、誤解してもらいたくないのは、それが不当だと私は思わない。急激な変化による国家の失墜や滅亡も、ヘルゲンバーカーがハイネを押し立てたからこそ、あの程度で済んだのです。前世の記憶を持って生まれ変わり続ける限り、世界を巻き込む混乱はいずれ起こったことでしょう。しかも、それは誰も経験したことのない災厄です。何かの導きなし迷走すれば、世界は立ち直るのに何百年も――いいえ、立ち直れたかすら不明です。ヘルゲンバーカーは、ハイネへの畏怖をもってこれを抑えた」
ハイネへの畏怖。それをオギは知っていた。毎日、目の当たりにしている。
旅人が自分の足だけで旅路を行くのは、自分の足をないがしろして旅路を行けば、世界をその足一つで歩いたという、聖人ハイネの加護を失うと信じているからだ。
「混迷した世界も、ハイネの畏怖によってひとまず鎮められました。しばらくは平和だったといえるかもしません。しかし、時が経ち、人々は生まれ変わることに慣れてしまった。ハイネの畏怖に翳りが見え始めたのです。そのために、様々な弊害が生じ始めた。例を上げるまでもないでしょう。先日ハイネが騙されたではありませんか。トルトゥーガを騙った男に」
「仕向けた本人が言いますか」
「しかし、前世の偽称が跡を絶たないのは確かです。いえ、その程度のことはまだ些細なこと。だだの偽証ならば本人同士で予防できますから。問題は、来世の濫用です」
来世の濫用―――聞きなれぬ言葉に当惑した。
「前世で結ばれた縁というのは、けして良いものだけではない。中には来世を跨いで復讐を行う者や、歪んだ野望を成し遂げようとする者もいる。それどころか、そうした犯罪者が己の罪から逃れるため、来世に逃げ込むケースが年々増えていっているのです。いいえ、犯罪者だけではない。中でも最も悪質なのが、自分の望む人生を生きるため、望む容姿や性別に生まれるため、何度となく自殺を繰り返すことです。これが、ゆゆしき事態なのは、貴方にも理解できましょう」
理解―――理解なら、している。
この世界は、死への恐怖が薄く、縁の色が濃い。
誰に教わったわけでもないのに、それを知っていた。
それはきっと、俺だけ限らない。おそらくは誰もが漠然と理解していることだろう。
縁の色が濃いということは、良縁の色も濃ければ、悪縁の色も濃いのだと。
死の恐怖が薄いということは、自己の消失を死の中に恐れる意識が薄いことであり、同時に、生命には伴わなければならい、死の尊厳もまた薄いのだと。
皆が知っていながら、あえて口にはしないのは、それが人道にもとる行為だと漠然と理解し、己を戒めているからだ。そう思っていた。そう思っていたのに―――来世の濫用。そんな名が付くほど、すでに世の中にのさばっている事実にショックを隠せなかった。
「それなのにハイネはどうです?自分で言った百年先の未来で何が起こっているのか知っていながら、負うべき責任を放り出し、自由気ままに旅をして遊びほうけている」
脳裏に浮かぶのは、ここ数日の奔放なハイネの振る舞い。けれど―――
「私はハイネが嫌いです。だからこそ、聖人の威光に屈しない。だからこそ、ハイネが無責任にも放り出した、この世界に払うべき責任を正面からつきつけられる」
感情の発露をエマソンは抑えているように見えた。エマソンの言い様は、終始淡々としていたが、その心中はふつふつと煮立っているような気がした。
「罪には罰が肝要です」
エマソンの冷たい瞳に青い炎が揺らめく。
「聖人ハイネは、道徳にもとる行為を行った者の魂を裁くべきだった。その罪業の魂を白日の下に晒し、罪に値した罰を下すべきだった。少なくともハイネにはそれが出来た。彼には、戒杖トルトゥーガがあったのですから。私の知る限り、トルトゥーガはその前祖にはじまってあらゆる世代の姿を読み取れました。そればかりか、どんな人生を歩み、どんな行いをして、どんな行いをしなかったかを詳細に読み取ることが出来たのです。前世に犯した罪を裁量し、現世において償わせるには、これ以上のものはない」
言い様のない感情に襲われた。
自分のことを言われているはずなのに、何の感慨も浮かばなかった。
ただ疑念があるだけだった。この生まれ変わりの世界で『死』は何の罰にもならないのに、現世でどう償わせるというのか―――どう償わせるというのか。
「もちろん戒杖一本では、全ての魂を裁くことは難しいでしょう。しかし、たとえわずかでも見せしめになればいいのです。その魂が根こそぎ暴かれるということ、裁かれるということが重要であり、前世に犯した罪が現世にも引き継がれるのだということが世に知らしめられればいいのです」
「…………」
「しかし、この期に及んでトルトゥーガは死んだという。その上、生まれ変わった人間に以前の力がないのであれば、もうそれは望めない。ならば、ハイネ自身にツケを払ってもらうほかありません。幸い、ハイネにはまだ影響力がある。その昔、一国を滅ぼしたほどの畏怖をやりくりすれば、それなりの発言力はまだ捻出できるでしょう。まあ、彼の使い道はおいおい考えるとして、とにかく今は何よりも、ハイネにはまず、あのくだらない旅を終わらせてもらい、ヘルゲンバーカーの元へ戻ってもらわねばなりません」
「――そんなこと、出来るわけ……」
「出来ますよ。ハイネは約束してくれましたから。貴方の自由を確約する代わりに、自分を好きにしてよいと」
「――っ」
裏切られた。ハイネの言った必ず収めるという意味が、こういう事なら、それは紛れもない裏切りだった。
「ですが、貴方にはあまり関係ないことかもしれませんね。だってハイネを恨んでいたのでしょう?ハイネから逃れるために人間になった。彼女にそう告げたと聞きましたが?」
「…………」
「ハイネはずいぶんと打ちのめされたようですね。確かに、大切な友人を失ったのだから仕方ないのかもしれません。まあ、聖人ハイネ・ガラドリエルにとって、友と呼べるのが戒杖一本だけというのも、とんだお笑いぐさですが」
ばぎっ、と不快な音がした。足の計測器をへし折っていた。
静まりかえる店内に反して、高波のように押し寄せる感情は、この鼓動を何度も打った。
「…明朝、ハイネを連れて、この町を立ちます」
―――明朝っ。
「まさかとは思いますが、激情にかられて愚かしい真似などしないで下さいね」
「誰が」
「貴方を、力ずくで従わせるのは確かに賢いやり方ではない。でも、私はそれよりもう少しだけ賢いやり方を知っているのですよ」
エマソンは上体を反らし、ゆったりと椅子に腰掛けた。
どこか勿体ぶった様は、いっそう人の癇に障った。
「ハイネを監視していた者たちは、いま別の任務にあたっています。いえ、監視自体は続けてもらっています。ただ、対象がハイネから別の人たちに移っただけで」
「…………」
「こういう旅人のための町は、旅人(よそ者)を潜り込ませるのにとても好都合です。まさか、見も知らずの旅人に、それも大事なお客様に監視されているなんて誰も思いはしない」
その瞬間、エマソンに向かっていた感情の波は、岩壁の前にちぎれて粉々に飛散した。
「どういう意味か、お分かりですね?」
「てめぇ…」
店長の低く唸る声が、遠くに聞こえた。脅迫だった。この町の人を、人質に取られた。
「実に感動的なお話です。だって、そうでしょう?ハイネは彼のために、彼は町の人のために、手枷、足枷を自らに課ねばならないのだから」
少しも笑っていない目が見下すように細められる。
その目で、何も言い返せず、何も出来ない二つの顔を、ぞんぶんに眺め回していた。
「さて、やはり靴を作るのはやめておきましょう。今の貴方では、うっかり足の骨を折られかねませんから」
言って立ち上がり、脱いだ靴を拾い上げる。
あたかも見せつけるように靴を履き、靴紐を結ぶにも座っていた椅子を台にしていた。
エマソンは、自分勝手に話を終え、そのまま店をあとにした。