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HEINE  作者: ふみづくえ
第四章
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聖人の横顔


 丸一日、何も起こらなかった。

 あえて上げるなら、ハイネが泊まっていた宿を引き払い、教会に居を移したらしく、安静が必要だと進言した療医の意見も聞き入れられなかったそうだ。

 そうした動きを、頼んでもいないのに店長が仕入れてくれた。

 他にも、聖人ハイネとヘルゲンバーカーは古くからの仲たが、ずいぶん昔に仲違いしたとの噂が流れたことも教えてくれた。

 理由は分からない。ただ、聖人ハイネの方から突然とヘルゲンバーカーの元を去ったのだという。聖人ハイネに最も近しいトルトゥーガならその理由を知っているだろうに、今の俺には人伝いに聞いた他人事でしかなかった。

 他人事のように、何もしなかった。

 ハイネときちんと話す機会を邪魔されて、宙ぶらりんの状態で、落ち着きようがなくて、店と私室を何度も行き来しただけだった。

 店長はそれを咎めるどころか、見かねて手を貸してくれた。

 今日だけでも五往復したカウンターの前に、こうして立っていても何も言わなかった。

 店番のように何をするでもなく、硝子の陳列棚から垣間見える旅人を眺めていた。そろそろ店にいるのが息苦しくなり、二階の私室に戻ろうとかけたとき、

 「――!」

 黒い姿が視界を横切った。

 それは見間違いではなく、その証拠に、店の扉から入ってきた。

 教徒の装束である、あの黒い外套にフード姿のエマソン・ガーライルが再びこの店を訪れた。わざとなのか、突然の来訪に慌てて身構えるのもお構いなしに、エマソンは、あたかも初めて入る店のように、とぼけた様子で店内を見渡していた。

 ハイネが後に続いて入ってくるかもしれないと、ちらりと思ったが、その気配はない。

 扉の鐘の音を聞きつけ、奥から店長が顔を出した。

 店に誰が来たのかを知ると、俺と入れ替わるようにカウンターの前に立った。

 「何しに来た」

 「そう形式ばらないでください。本日の用件は、ご覧の通りです」

 「……?」

 「お客様ですよ、靴屋の。靴を新調しに来たんです」

 エマソンは、こともなげに言った。

 「何でも、ハイネに靴を作っているそうですね。ですから、私も一足こしらえてもらおうかと。もちろん、オギさんにお願いできますか?」

 店長が口を挟もうとしたのを、エマソンが見計らったように付け加えた。

 どう考えても、靴を作りに来ただけのはずがない。ハイネの忠告通り、用心するなら断るべきかもしれない。

 だが、そう言った本人は、丸一日たっても連絡を寄越さないではないか。必ず収めてみせると言っておいて、こうしてエマソンが再び店に来てる。

 ハイネは何をやっているのか……ハイネの安否が知りたかった。

 「…分かりました」

 「オギ」

 「大丈夫です。何が目的かは知りませんが、俺に力ずくなんて通用しませんから」

 その台詞に、エマソンがふっと笑った。

 それが負け惜しみかどうかは分からないが、とにかくもう後には引けなかった。

 カウンターを迂回して、エマソンを客用の椅子に座らせる。

 杓子定規な説明をしながら、足のサイズを測るため、足を乗せる台を用意し、自分もその向かい側に座るが、足台に乗せられたのは靴を履いたままの足だった。

 大抵の人なら自分から脱ぐものだが、エマソンにそんな気はないらしい。

 こういう人間はエマソンだけではないと自分に言い聞かせ、黙って作業に取りかかる。

 まず、靴の汚れを落す必要があった。けれど、手頃な布が近くになく、奥に取りに戻らねばならなかったが、機を読んでいたように店長が手拭いを投げてよこした。

 店長は、どうやら事の顛末を見届けるつもりのようで、でも、あからさまな仏頂面をひっさげており、そうやって代わりに苛立てくれているおかげか、こっちは妙に落ち着いた。

 改めてエマソンを一人の客として、その足下に膝を折る。

 「ハイネ・ガラドリエルは教会におられます」

 靴を拭い出すのとほとんど同時に、エマソンが言った。

 「差しでがましいかと思いますが、一応お知らせしておこうかと」

 「…………」

 「実は今日、ハイネと会談する予定だったのですが、気乗りしなかったので、すっぽかしました。今頃、彼女が部屋で待ちぼうけていると思うと、へそで茶が沸かせます」

 「…………」

 「もうお気づきでしょうが、私はハイネ・ガラドリエルが嫌いです」

 挑発しているつもりなのか、エマソンは棘だらけの言葉を降らせてくる。

 だが、その程度の悪態など苦にもならず、汚れを払い落として、靴紐をほどき出す。

 「ですが、ヘルゲンバーカーは、常に私をハイネのお目付役に選ぶため、迷惑きまわりないのです。これほど損な役割回りもありません。何故なら、ハイネを嫌っている私なら、ハイネが持つ聖人の威光に屈しないからと、ヘルゲンバーカーがお考えだからです」

 愚痴めいてきた話を聞き流しながら、ふくらはぎを持ち上げて、靴を脱がす。

 「戒杖をハイネから取り上げること。それが任務の第一です。それに異論はありません。戒杖トルトゥーガはしかるべき場所で管理されるべきのものですから。しかし、ハイネは頑としてそれに従わず、トルトゥーガもまた我々を拒み続けた。私には分かりません。なぜ彼はハイネを良しとするのか」

 「…………」

 ―――そうか。この人は、当時の俺とハイネの仲を知っているのだ。

 はっとした。手がおろそかになっていた。

 足の測量に取りかかる。指先に伝わるのは、ほとんど歩いたことがないような足。

 「まあ、しょせん持ち物ですから、何かを考える脳みそもない状態では、持ち主の考えに同調するしかなかったのでしょう。だからこそ、一刻も早く引き離すべきだったのです。トルトゥーガはどんどん俗物的な考えを持つようになった。まっさらだったその魂に、あのハイネが与えた影響を思うと非常にいたたまれません」

 いくら聞き流そうとしても、エマソンの言葉は、冷気のようにぴりぴりと頭に凍てつき、離れようとしなかった。

 「…なるほど、確かに似てますね。戒杖の宝玉と貴方の眼は」

 気付けば、エマソンの顔が間近にあった。測量中の足を支えに頬杖をつき、いかにも愉快な仕草でのぞき込む青い瞳は、冷たい泉の底だった。

 「何でも、前世の記憶に中々目覚めなかったそうで。無理もありません、持ち物から生き物になったわけですから……もし、本当に貴方が戒杖トルトゥーガの現世ならば」

 「…………」

 「そうですね。せっかく人間になったのですから、そのご立派な頭で考えてみて下さい。この世界において、魂の識別が出来ると言うことが、どれほどの価値を持つか」

 足を測量するが、その数値はまったく頭に入ってこなかった。

 このあと、数値を記入しながら足形を鉛筆で紙にかたどり、それからどういう歩き方をするかを見なければならない。それを頭ではわかっている。同じ(ばしよ)のことなのに、両者には埋めようのない隔たりがあった。

 「では、その前に少しおさらいをしましょうか。この世界につて」

 エマソンの口調は、明らかに小馬鹿にしたものを含んでいた。話を飲み込みやすくしてやるのだと押し付けがましさが目に見えた。

 「これはご存じでしょうが、ハイネが世界を前世に目覚めさせたのは、百年先を歩けるようにするため――要するに、百年先の未来に責任を持てない人間たちのためにした、ということです。確かに、それまでの人類は、血筋で選ばれただけの短絡的な為政者のために戦争が起こり、命が奪われ、国が荒らされることを何度も繰り返してきました。それは百年先の未来が自らに関わってこないからこそ、その行動に責任を持てなくなるのであり、もし、自らが再びその世界を生きることになったら、必ず行動を戒めるようになるだろう。と、まるで超越者のごとき考えを抱いたハイネは、人々の前世を目覚めさせたそうです。まあ、私としては、あのハイネに本当にそんな力があったのかどうか、今でも疑問なのですが……実際にそうなっているのだからその辺は納得するしかないでしょう」

 言いながら、軽く肩をすくめた。

 「しかし、ハイネの思惑とは裏腹に、人は自らの変化を受け入れることに時間がかかったといいます。魂に刻まれた記憶をもってしても、血統による差別意識は根強く、そうそう簡単にひるがえることはなかった。いや、むしろ、いらぬ報復心をかきたて、いたずらに万民を苦しめることすらあったそうです。そこに現れたのがヘルゲンバーカーだった。ハイネは、彼の助言を得て、権力の座にあぐらをかく王侯貴族をハイネの前で屈服させたことで、人々はようやく本当の意味で前世に目覚めた。変化の波は加速度的に世界を巻きみ、中には、あおりを受けて決起した民衆に革命を起こされ、滅びた国もある」

 教会で目にした一節がよみがえる。

 前世の目覚めは、まず何より身分を破壊した。

 王族だった子が庶民に、庶民だった子が王族に生まれれば、血の色を問うための身分に価値を見出すものなどいなくなる。血統のみで君主制を正当化してきた国は、ことごとくその権威を失墜させた。

 「この町の人ならよくご存じかと。前世の目覚めによって、その余波をまともに受けたのがこの町の先にある白の公国ですから。あの国はハイネのせいで滅びたようなものです」

 「違うだろ。あの国が滅びたのは大公が世の流れを見抜けない馬鹿だったからだ」

 そう口を挟んだのは、店長だった。

 「生き残る術もあったのに、それを受け入れようとしなかった」

 「そんなことは知っています。そうやって論点をすぐ履き違える者があまりに多いということが問題なのだと、私は言っているのです」

 店長の切り返しなど、ものともせずエマソンは切り捨てた。

 「どうして気付かないのでしょうね。いいですか、ハイネは頼まれていもいないのに勝手な思いこみによって前世を目覚めさせたんですよ。その結果、王家の威信は失墜、あるいは革命によって滅亡した。統治する機関を失い、多くの国は困窮し、世界は混乱の渦に突き落とされた。しかし、多くの人はハイネを責めませんでした。何故だと思います?」

 「それは―――」

 「ええ、それは、ハイネによって支配と死が取り除かれたからです。支配からの解放が魂という自己を確立させ、そのうえ生まれ変わりという、永遠の命にも似た甘美な目覚めを手放したがる人などほとんどいなかった。そして、もうひとつ」

 ―――もう、ひとつ?そう、聞き返すようにオギはエマソンを見ていた。

 「ハイネの意志に逆らえば、二度と前世の記憶を持って生まれ変わることが出来なくなるという、恐怖のためです」

 「…………」

 「それは、奇しくも死と同じ恐怖を与え、そしてそれこそが、国を動かし、国を滅ぼすほどの畏怖をハイネに与えたのです」


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