エマソン
まるで熱に浮かされるように、ざわつく心と、気怠い体をベットに横たえ、何もせずに何時間も私室で過ごした。
昨夜の反動なのか、あれほど鋭敏だった感覚の全ては沈み込んでいくように重く、何かを見るのも億劫で、眼鏡をかけてまま目蓋を閉じていた。
もしかしたら何も聞こえなくなってしまったのかもしれないと、耳が何も聞き取らない静寂の中をただよっていたとき、店長が部屋まで呼びに来た。
「…彼女が、下に来てる」
その一言を、たぶん自分は待っていたのだろう。
やけに冷静な気持ちでベットから起き上がり、店長に付き添われながら一階へと下りた。
作業場を抜けて店内に入り、カウンターから少し距離を置いたところに彼女はいた。
ハイネは、まるで寒さに震えるように、しかと両手を握りしめいた。
体のあちこちに及ぶ擦り傷や、痛々しい包帯の巻かれた頭はうなだれ、泣き出しそうな怯えた目が、何度も上と下を行き来していた。
「……すまぬ。今朝は取り乱した」
今にも消え去りそうな、震える声。
良心が痛まないわけではない。
でも、彼女を見るだけで胸の奥から込み上げてくる熱が、それを許さなかった。
また感情的になってしまうかもしれない。だから、何かあれば店長にも聞こえるよう、作業場で話すことにした。
カウンターからハイネを招き入れようとして、すると、涼やかな金属音が響く。
店の扉が開き、全身を覆うような黒い外套にフードを被った小柄な客が来店した。
店長が応対しようとしたが、それを拒むように黒フードの客が口を開く。
「ハイネ・ガラドリエル」
突然の名指しに、店にいる全員の視線が注がれた。
小柄な客の視線は、真っ直ぐハイネを捉えていた。
被った黒フードで、ずいぶんと印象は変わるが、銀糸に縁取られた黒い外套は、いつか教会で見た教徒の装束と酷似していた。
十四、五歳くらいだろうか、少女…声変わりしていない少年かもしれない。
ばっさりと短い銀色の髪は、けれど、磨き抜かれ銀製品のようにどこか危ない色をして、性別を判然としない顔立ちは、無表情に冷たかった。
「…誰だ?」
「今世では、はじめてお会いしますね。お久しぶりです。エマソン・ガーライルです」
名乗られた名に、ハイネの反応は過剰だった。さっきまで怯えていた人とは思えないほど素早く取って返し、それ以上入るなと言わんばかりにエマソンの前へ出た。
「何用だ」
「ご挨拶ですね。貴方が戒杖トルトゥーガの死を触れ回っているという、ふざけた報告を受けたので、参上いたしたしだいです」
「報告などしておらぬ」
「監視の目が、常に付けられていることをお忘れのようで……ああ、いえ、監視者を見付けるのは、トルトゥーガの役目でしたね。どうりで、こんなにも簡単に背後を取らせてくれたわけですか……トルトゥーガが死んだ。あながちデマでもないようで」
エマソンは表情を一つも変えることなく皮肉めかした。
ハイネは何も言わずエマソンを睨み、彼の目的が何なのか見定めているようだった。
「それと、本日こちらへうかがったのはお詫びもかねてです。先日、私の手の者が貴方に大変なご迷惑をかけてしまったようで」
意味ありげに、その視線がハイネの包帯に移る。
「どうやら人選を間違えたようですね。ですが、彼も腕の骨を砕かれたのですから、まあ、それでおあいことして下さい」
思わずカウンターから身を乗り出した。
動くな、とハイネに視線で制されていなかったら、きっとハイネの腕を引いていた。
エマソンに対して過剰に反応した理由が分かった気がした。
不意に、前に立つハイネの背が、公園での姿と重なった。いま気が付いた。あの時もこうして自分は守られていたのだ。
胸が軋んだ。自分自身が分からなくなった。恨んでいると言いながら、一方では助けようとしている。現に、こうして今も、ハイネをエソンから引き離したくてたまらなかった。
「今さらでしょうが、戒杖をお渡し下さい。私どもとしては、トルトゥーガが死んだかどうかは、こちらで確認させていだきたい」
「断る」
「…何故です?戒杖が死んだというなら、最早ただの亡骸に過ぎないでしょう」
「帰れ」
にべもないハイネに、機嫌を損ねたのか、エマソンはをじっとハイネを見据えた。
「……いいえ、まだ帰るわけにはまいりません。実は、貴方を襲った男から中々興味深い報告を受けました。何でも、一度は戒杖を手に入れたそうなのですが、奪い返されたそうです。眼鏡をかけた、赤毛の青年に」
その、底冷えするような青い目が、こちらを向いた。
「あの男は、ずいぶん恐ろしい目にあったようです。言うことが実に支離滅裂で、まるで、戒杖を奪い返しに来た者が人間じゃないような言い様をしまして……他にも、貴方を監視している者からも奇妙な報告が―――」
「何が言いたい」
かすかに語気を荒げたハイネに、エマソンの口角が上がった。
「貴方は、そこに居る赤毛の青年をトルトゥーガの生まれ変わりだとお考えのようで」
「…………」
「荒唐無稽な話です。戒杖が人になるなど」
「なら――」
「ですが、もし、万が一にも貴方の言うとおりなら、こちらとしては確認をざるおえない。結論から申しましょう。要点はただ一つ、彼に魂の識別が可能か否か」
はっと息を呑んだ。ハイネに向けられたはずの言葉が、心臓を鷲づかむ。
「もし仮に、彼がトルトゥーガの生まれ変わりだとしても、ただの人間に用はありません。戒杖トルトゥーガの能力を受け継いでいないのなら、用などない」
エマソンは続けざまに言いさした。
「では、ここは本人にお伺いいたしましょう。いかがです?貴方のその赤眼には、人と違うモノが…魂が実像が見えていますか?」
エマソンに集まっていた視線が、こちらに注がれた。
けれど、質問に答えることが出来ず、場に長い沈黙を落としてしまう。
青い瞳から逃れるように、緑の瞳を見た。
ハイネの瞳は強く語りかけてきた。喋るな、と。
「――…いいえ」
ただ、そう答えるまでに、かなりの時間を要してしまっていた。
エマソンは凝視した。その瞳の青が、ひたひたと冷気を注ぎ込んでくるようだった。
「……まあ、いいでしょう。無理強いしたところで、こちらには嘘を見抜く術がありませんから。今日のところは、この辺で引き下がりましょう」
納得など、まるでしていない口振りだった。
「ただし、これだけは言っておきます。もし本当にトルトゥーガが死んだのであれば、その死は、この世界にとって多大な損失だと。魂が見えると言うことが、この生まれ変わりの世界においてどれほどの価値を持つか、よくよく考えてごらんなさい」
尊大に言い捨てたかと思えば、外套をひるがえし、すぐさま店の扉を押し開いた。
涼やかな鐘の音を残して、その黒い後ろ姿は、瞬く間に街路へと消えいった。
訪れも突然だったが、去り方も突然だった。
そして、店内に残された三人は、互いに黙り込んでいた。
ハイネと店長の胸中はうかがい知れない。たが、自分自身の胸中が、誰よりも穏やかじゃないことは確かだった。
話してしまったのだ、ハイネに。この肉眼で見えるモノのことを。目が悪いわけではないのに、眼鏡が手放せないのは、人の姿に重なって変なモノが見えるからだと。
それがエマソンの言う、魂の実像だと思いもしなかった。
魂の識別――そんなことすら忘れていた。
「……あやつのことだ。これで済むはずがない」
ぽつりと言ったハイネに、どきりとする。
ハイネは振り向きざま、決然とした瞳で貫いた。
「良いか。そなたは何も語ってはならぬ。何もしてはならぬ。案ずるな、必ずわしが収めてみせよう。しかし、警戒だけは怠るな」
後を追う気なのか、言って扉を見向いた。
「ま、待って下さい。今の人は…?」
「――エマソンを、覚えていないのか?」
足を止めたハイネに眉をひそめられ、思わず絶句した。
「……エマソンは、ヘルゲンバーカーの腹心だ。そして、ヘルゲンバーカーはわしの戒杖を欲しておった。分かるな?くれぐれも用心せよ」
記憶の欠陥を、ハイネは言及しなかった。
その代わり、端的な説明だけを残して、走るように出て行ってしまった。
このまま行かせるのは危険だった。エマソンは、ハイネの戒杖を奪うためとして、彼女を階段から突き落すような男を使う奴なのだ。一人で行かせていいはずがない。
けれど、この足は動かなかった。
ハイネを追いかけられるほど、心の整理がついていなかった。