記憶の欠陥
点々と、店ごとに視線が集まってくる気がした。
昨夜の一件が広まったのかももしれない。自分では覚えていないが、確か腕に血の跡を残しながら帰ってきたはずだった。その時の状態を見られたかと思うと、怖くて視線の先を見返せなかった。靴屋までの道のりが、いつもより遠く感じた。
ようやく店の扉をくぐって安堵する。
だが、店に戻ったら戻ったで、また別の問題に直面した。
気まずいことに、店長と二人っきりになっていた。店長は、店に戻るまで一言も発さずにいたが、二人っきりになることを待っていたように口を開いた。
「お前、彼女を本当に恨んでいたのか」
「…………」
「オレには、そうは思えない」
「店長に何が分かるって言うんですか」
部外者である店長に、これ以上ない正論をぶつけるが、店長は全く動じていなかった。
「…なら、もっと、それらしい顔をしたらどうだ。お前はたった今、前世から恨んできた相手をこてんぱんに叩きのめしたんぞ……なのに、何でそんなに―――」
苦しんでいるのかと、店長が言葉にする必要はなかった。
そんなことは、自分が一番分かっていた。
「まだ、思い出せてないんだな。全部は」
「――っ」
思い出せていない。あの赤い宝珠から見た世界は、色褪せた絵のようだった。
雑多に切り取られた場面は動くことなく、遠い足下を乱雑に散らかすだけで、それは、前世がハイネの戒杖だったことしか教えてくれない。
それなのに、ハイネを見ると、ハイネを想うと、どうしても止められない感情があふれてくる。知ってしまった魂の所在から流れ込んでくるのは感情ばかりで―――でも、
「店長は、人を恨んでいた記憶なんて、思い出したいですか」
思い出して何になる。
恨んできた記憶など、思い出したところで恨みがましさが増すだけではないか。これ以上、心に焼き付くシミを広げなければならないのなら、何も思い出したくなかった。
「――…そう、だな」
それだけ言うと、店長は引き下がった。
重たい沈黙が店内に落ちた。
外に聞こえる、人が通りを行き交う声や音。
急に不安になった。店長の沈黙は、俺を思いやってくれたからではなく、恩知らずな言動に呆れてはて、見放したからかもしれない。
「店長こそ……」
「…なんだ?」
聞き流せばいいのに、ぽつりとこぼした呟きを、店長はすかさず拾い上げた。
言わずにはいられなくなり、手近にあった工具の一つを引っ掴むと、店長の目の前でこれ見よがしに折り曲げた。
合金で出来ているはずのそれは、水飴のごとく形を変え、テーブルに投げ出した時には、工具はずいぶんと小柄になっていた。
「店長の方こそ、こんな得体の知れないモノとよく暮らしてきましたね。気付いていたのに……どうしてですか?」
何でこんな言い方をしているのか、自分でも分からなかった。
知っていながら、黙っていたことが腹立たしかったのか。それとも、未練が残らないよう、いっそこっちから壊してしまいたいのか。
「……お前は、どう思うんだ?自分の、人間じゃなかった前世を知って」
投げかけた質問など、どこか無関心に、店長はテーブルの工具を手に取った。
眺め回して、無駄なのに、工具を直そうと力を入れている。
「…別に、どうとも思いません。むしろ腑に落ちた感じです。ああ、なるほどって」
「じゃあ、オレもそういうカンジにしといてくれ」
「店長」
「あのな、怯えてるだけのヤツを叩くなんて出来ないだろ。それが怪物でも」
「――――」
「これ、給料から天引きな」
言って、使い物にならなくなった工具を差し出す。
冗談めかしたつもりだろうが、冗談で済まされるほど店長の言葉は安くなかった。
不甲斐いないことに言葉に詰まってしまい、そのせいで、店長はきまり悪そうに笑う。
「…とにかく、お前は風呂にでも入っとけ。朝飯作ってやるから」
返事をしようとしたけれど、まともな言葉は喉から出てこなかった。
店長は俺の手を取り、歪んだ工具をしっかり受け取らせてから二階に上がっていく。
店長に言われたとおり、水でも浴びて頭をさまそうと、風呂場に向かって歩き出した。
そういえば、力の加減がきちんと出来るようになっている。手の中の工具を見て、その事に気付いた。見込みは少ないが直してみようかと壊した工具を作業場に連れて行った。
しかし、不用意に作業場へ入ってしまったことで、必然とあるものと遭遇する。
未完成の靴。
せっかく凪いだ気持ちが、瞬く間にして高く波を打つ。
彼女の欠片に触れるだけで、感じたくない感情が心を支配する。
目をそらしても、見なかったことには、知らなかった頃には戻れない。
疑いようもないのだ。俺は、前世で、確かにハイネを恨んでいた。