前世の記憶
赤い色が嫌いだった。
見るだけで意味もなく嫌悪した。
他にも、些細なことに違和感を感じることは少なくなかった。
でも、そんな得体の知れない感情が、どこから来るものなのか、ずっと分からなかった。
それが……それこそが、魂の記憶だと、ずっと分からなかった。
分かろうとしていなかった。
分かりたく、なかった。
誰かの話し声に目が覚めた。
しばらく見ることのなかった天井を目の前にして、あれから気を失ったんだと自覚する。
ベットから身を起こし、辺りを見渡すが、誰もいなかった。
もう一つあるベットに横たわっていたはずのハイネすら姿が見えなかった。
彼女の気配を探して、聞こえてくるカーテン越しの話し声に耳を澄ます。
店長の声と療医の声。そして、ハイネの声。
その声に、心が乱される。
心より、もっと深いところで入り乱れる記憶の残像に、頭痛がする気がして、顔を覆い―――眼鏡がないことに気付いた。
視線を巡らせれば、ベットの脇にグラスチェーンの付いた眼鏡を見付け、考えるよりも先に手が出ていた。耳と鼻に眼鏡の重みを感じると、なぜか不思議と落ち着いた。
髪どめも側にあったが、髪にさわる気力はなかった。
夜は明けたのだろう、窓からぼんやりとした光が差し込み、早朝の気配を纏っている。
どうするべきか、少しのあいだ考え―――意を決すると、ベットから抜け出した。
カーテンの前に立ち、会話の間を見計らってカーテンを開く。
驚いたように見返す顔と顔。店長や療医がそれぞれに言葉をかけてくれるが、何を置いても、この目が最初に見付けるのは、ハイネ。
頭の包帯の下に当惑気味の顔色を浮かべ、紺色の布にしっかりくるまれた戒杖を、後生大事そうに抱いている。
ハイネは何か言いたそうにしたが、彼女の視線から逃げるように目をそらした。
腕に抱かれたモノを見たくなかったせいもあるが、ハイネ自身を見たくなかった。
それでも、
「…頭の怪我とか、具合はどうですか」
「あ、ああ。大事ない。わしのことより、おぬしはどうなのだ?痛いところはないか?腕を怪我したのだろう?そんな無茶を」
「俺は何ですか?」
口が勝手に動いていた。事前に考えていた手順を、いきなりすっ飛ばしてしまった。
自分の問題発言に、当惑顔も三つに増えしまい、もうそのまま押し通すことにした。
「こちらはハイネ……あの聖人ハイネ・ガラドリエルの現世です」
突然の紹介に、店長と療医がぐっと喉を詰まらせる。
「そして、俺は――…俺の前世は、人間じゃなかったみたいです。そうですよね?」
言って、視線をハイネに投げかける。
自分でも嫌になった。きっと、いまの俺はハイネを責めるような目で見ている。
「お、思い出したのか?」
「…少し、だけ」
そして、視線をそらした。ここまですれば、ハイネも気付くだろう。俺が、この記憶の回帰を好ましく思っていないことを。
「わ、わしの戒杖トルトゥーガは、ただ一人の友であった」
何を思ったか、ハイネは口早に言い募った。
「トルトゥーガは人と変わらぬ魂を有しておったのだ。何世代も人生を共にして、世界の隅々を旅して回った。わしにとってトルトゥーガは心の拠り所だった。もはやトルトゥーガ無しでは旅など出来ぬ。それなのに、トルトゥーガの魂は今この戒杖にはない。わしを残して逝ってしまった。わしが、どれほどの悲しみに打ちひしがれたか、おぬしなら分かるであろう?」
それは、もっとちゃんと思い出してくれと言わんばかりだった。
人の気も知らないで、こっちは心の中にじりじりと焼け付くシミを抑えるのに必死だというのに、ハイネの言い様は身勝手にしか聞こえなかった。
「だが、おぬしは死するとき人になると言い残した。だから、わしはそれだけにすがって歩いてきた。ここまで歩いて来たのだ。だから……だからどうか、わしを見てくれ」
「…………」
「…ハイネの戒杖が人間になった?それが―――」
独り言のように呟く療医の視線をひりひりと感じた。
「本当にすまなんだ。わしを許してほしい。このように目覚めさせるつもりはなかったのだ。辛かったであろう。そなたにとっては亡骸だ。ショックで記憶を揺さぶってしまったのだろう。おぬしの魂が人の体に馴染みきっていないのは分かっておった。おそらく、人への転生に無理があったのだと思う。そのせいで、前世の記憶もすぐには戻らなかった。そのせいで、わしとの記憶も」
「違います」
声を上げていた。ハイネの弁解に耐えかねた。
「それは、違います。俺が貴方のことを思い出さなかったのは、貴方のことを思い出したくなかったからです」
心はじりじりと焼き付くように熱いのに、口から出た言葉は淡々と冷たかった。
「俺は……前世で、貴方を恨んでいた」
言った意味がわからないのか、ハイネはただ見返してくる。
自分とあまりにそぐわない言葉だったのだろう、曖昧な笑顔でその場を取り繕った。
「そ、そんなはずはない。トルトゥーガがわしを恨んでいたなど」
「そもそも、戒杖から人間になったのだって、貴方から逃れたかったからだとは思わないんですか」
ハイネの笑顔が凍り付く。そして、腕の中の物と俺の顔を見比べだした。
「そんな…そんなはずはない……そんな、そんな………」
その声は、奇妙な息継ぎのように震えていた。
「……わ、分かった。怒っておるのだろ。わしがそなたの諌言にいつも耳を貸さぬから…だから、そんな嘘を」
「違います」
その程度で収まる感情じゃない。
「なら……なら、何かの冗談か?だとしたら、少しばかり度が過ぎぬか?」
「違います。冗談でも、嘘でもありません」
ハイネは反論しようと、何度も口を開くが、そこから言葉が漏れることなく、その代わりのように、瞳からこぼれんばかりに涙があふれた。
数秒も保たず、崩れた表情からぼろぼろと流れ落ち、子供のように泣き出した。
「どうしてっ、どうしてそんな嘘を言うのだっ」
「…嘘じゃありません」
「嘘だっ、嘘だっ、うそだっっ!!」
「いい加減にして下さいっ」
要領を得ない態度に腹が立ち、だが、療医がすかさず間に立った。
「やめろ。まだ子供だ」
「彼女は――」
「前世が何だろうと体がガキなら、精神もガキなんだ。感情にブレーキがきかなくなってる。お前もだっ」
療医の一喝は、たちまち効いた。
もっともだった。ハイネも、自分も、こんな状態で、まともな話が出来るはずがない。
「ひとまずお前らは靴屋に帰れ。こっちの患者はまだ要安静だ。しばらく診療所に泊まってもらう」
療医の有無を言わせぬ指示に、店長と二人、診療所を追い出されるように外へ出た。
その間、ハイネは駄々をこねるように暴れ、戒杖の名を呼び続けた。だから、振り向きなどしなかった。