露見と露呈
どうやって戻ったのか覚えていなかった。
時が経つほどに重くなる腕を引きずって、何も考ぬよう、何も感じぬよう、ひたすら歩き続けた。
「…オギ?」
店長の声で気が付いた。気付けば診療所の前にいた。
「オギっ、お前どうしたっ、血がっ!」
すっかり忘れていた。そういえば、腕を短剣で刺されていた。
腕を流れていた血はもう乾きかけ、肌に黒ずんだ筋を残していた。
「……俺は、平気です」
けれど見え透いていた。全身を這い回る寒気は、冷や汗となって隠しようないほど額に滲み、からからに乾いた喉からは、かすれた声しか出ていない。
「オギ――」
「それより、ハイネにこれを……」
汗ばんだ手にあったモノを、一切目に入れないようにして、店長に押しつける。
紺色の布にくるまれた人の背丈ほどのソレを、店長は押しつけられるままに受け取った。
「まさかこれ…何か盗られたって聞いたけど……何でお前が?」
「……落ちていたのを拾ったんです」
「なわけあるかっ」
「……拾ったんです」
「――お前っ」
「とにかくよ。怪我、処置すんのが先だろ」
白ひげの療医が間に立って、いきり立つ店長を諫めた。
療医の言葉に店長は引き下がり、それに安堵を覚えながら、促された部屋の一角を占める処置室へと進み出る。その途中、閉められたカーテンを見つめた。
「…ハイネは?」
「寝てる。てか、今はお前の方が相当に顔色悪いがな」
治療器具に囲まれた丸椅子に腰掛ける療医に続いて、もう一つの丸椅子に座る。
療医は手際よく血のこびりついた裾口をはさみで切るが、傷口を見付けたとたん眉をしかめた。流れた血の跡と、傷の深さが明らかに合っていなかった。
短剣に深々と突き刺されたはずが、すでに塞がりかけ、裂傷程度になっていた。
とっさのことに頭が回らず、言葉を失うが、療医は何も言わなかった。そして、淡々と脱脂綿で傷口まわりの血を拭いていく。
「お前が怪我すんのは久しぶりだな。ガキの頃は色々メンドーかけてくれたけど」
「…………」
いたたまれず、カーテンの向こう側を気にする振りして、視線を泳がした。
そういえば、宿の店主がいない。帰ってしまったのだろうかと、さらに視線を流したとき、恐ろしい光景が目に入る。
「何してるんですかっ!」
思わず怒鳴っていた。椅子を蹴飛ばし立ち上がっていた。
目の前で、あの不気味な正体を唯一隠していた布に、店長が手をかけていた。
「いや…ほどけそうだから、巻き直そうと」
「それに触らないで下さいっ」
唖然とした店長など目に入らなかった。
この世に二つとない危険な物が、店長の手にあることに気付いて、叩き落としていた。
床に叩きつけられ、それは床を滑るように転がった。
ほとんどはカーテンの向こう側に消え、けれど、ほんの少し、本当にほんの少しだけはだけた布から細く黒い柄がはみ出した。
何の変哲もないだだの柄だった。そのはずなのに、視線は釘付けになった。いまにも襲いかかってくる気がして、視線を外す事が出来なかった。
「どうしたんだ、オギ」
言葉にできない恐怖だった。
膝が抜けそうになり、とにかく寄りかかる物が欲しくて後ろ手に指先をさまよわせた。
何かを掴んだ瞬間、手の中で何かが甲高い音と共にひしゃげた。よりによって金属で出来た台の支柱だった。
その事態に自分で驚き、横へ飛び退くが、その拍子に壁面をたたき割っていた。
ぱらぱらと表層が落ち、ひび割れが八方に広がっていく。
「――っ」
血の気が引いた。また力の加減が出来なくなっている。子供の時と同様、いや、もっと酷い。いまや触れるものを手当たり次第に破壊しかねなかった。
人が見ているのに、店長が見ているのに、これではもう誤魔化しきれない。まかりまちがって、傷付けでもしたら―――
不意によみがえった。耳をつんざく男の悲鳴が。あの男に加えた仕打ちが。
自分のしでかした恐ろしい行為を、少しの呵責もなく加虐し続けた自分が。
―――駄目だ。やはり、俺はこの町に居てはいけないモノなのだ。
これまで、かろうじて立っていた足下は、ついに瓦解した。
危険なのは、カーテンの下に転がっているモノではない。
一刻も早く、一里でも遠く、この異物をこの町から追い出さなければならない。何にも触れぬよう壁に沿い、すぐそこにある診療所の出口を目指して足を―――出し損ねた。
「オギ、落ち着け。大丈夫だ、いいから」
見れば、店長に腕を掴まれていた。
動けなくなった。
掴んだ手を振り払うことなど容易い。だが、無造作に振り払っては店長がどうなるか分からない。動こうにも動きようがなかった。
白ひげの療医が盛大なため息をついた。
「…あのな。本当に何もバレてないって思ってたんなら、お前も相当におめでたいんだよ。こっちは、これでも四世代は医者やってんでね。お前の体が普通じゃないことぐらい、診てたらわかる。言わなかったのは、お前の店長に頼まれたからだ」
痺れを切らしたように療医は言った。それを肯定してか、店長の掴む腕に力が入る。
頭が真っ白になった。
足下をひっくり返された気分だった。
瓦解したはずの足下にひっくり返り、はじめてその広さを知った衝撃は膝から全ての力を奪った。立っていられず、その場に崩れた。
床を見つめ放心してしまい、しかし、それも束の間、心臓が跳ね上がった。
カーテンの下に放置されていたモノが、勝手に動き出したのだ。
起き上がるように浮き上がり、カーテンの向こう側にその身をくらます。
店長に腕を拘束され、逃げることもままならず戦慄に身が震えた。
「ごっ、ごめんなさい。私、聞くつもりじゃ……」
意表を突かれた。女性の声だった。それも聞き覚えのある声。
そっとカーテンを開き、ためらいがちに現れたのはウエイトレス姿のオリビアさん。
なぜ彼女がカーテンの向こうに居るのか、そんなことは一瞬にしてかき消えた。
オリビアが腕に抱えていたのは、紺色の布からとうとうその身を暴かれた一本の戒杖。
すらりと伸びた等身に、赤い一条の入った黒い柄。
その頂きには、冷たい光を走らせる赤い宝玉が座していた。
赤い宝玉に、見られていた。
いつも鏡の中に見る色と、寸分違わぬその色が、こちらを見返していた。
おぞましい光景だった。
自分で、自分の死体を見たのだ。