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HEINE  作者: ふみづくえ
第一章
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ヒゲ店長

第一章



 その明かり取りの窓は、蝶番が固定され、いわゆる嵌め殺しにされていた。

 それでもこの作業場に充満する甘い匂いに耐えかね、開かずの窓を全開にした。

 「あんのヒゲ店長っ」

 匂いの発生源に悪態をつきながら、窓から軽く身を乗り出す。

 すぐ目前は狭い路地裏だった。路地奥にある井戸場のおかげか、人ひとりが通れるほどには広い路地には、風が良く通った。

 気まぐれに流れ込んでくる風を頬に受け、ぞんぶんに空気の有り難みを思い知る。

 どうにか取りとめた命を実感するように、屋根と屋根に挟まれた細い空を見上げれば、白い雲が青い空を絶え間なく押しやるだけで、音もなく流れていた。

 もう、固く埃っぽいこの窓枠が、この世に並ぶもののない最高級の寝具一式に思えて、抱きかかえるようにしてすがりつく。筋肉の見えない腕も今だけは良しとして、枕の役割を勤めてもらった。

 瞼を撫でるそよ風に、落ち着きを取り戻せば、路地裏のすぐ右手にある、表通りの喧噪を耳が拾った。聞き慣れた人と人のざわめきは、耳に心地よいささめきだった。

 不意に割り込む子供の声。やけに興奮めいたそれに、瞼を持ち上げる。

 表通りから逆の路地奥に目を向ければ、駄菓子屋の兄妹が三毛猫と睨み合っていた。

 猫を捕まえようというのか、七、八歳の程の兄妹は二人とも期待に目を輝かせていた。

 ただ、すぐ側には井戸があり、注意するよう声をかけようかとも思ったが、しかし、その必要はあっという間になくなった。三毛猫は、その身体能力でテラスへと逃げおおし、小さな兄妹のなす術を、完全に封じてしまった。

 妹に叱られる兄を苦笑しつつながら眺めていたが、何故か唐突に、表通りをのぞく右手の路地が気になった。


 闇を瞬いた。


 「――…おいっ、おいっオギっ!」

 「――え?」

 何が何だか解らない。

 いま自分がいる場所も、目の前にいる男の顔も。

 「どうしたんだオギっ!」

 頬を軽く叩くその手を払いのけながら、男から距離を取った。

 押し寄せ動悸の波。

 冷静な警戒心は、状況を認識しようと、手当たり次第に目の前の物事を捉えた。

 お世辞にも広いとはいえない空間は、染みつき天井から始まって、吊される火のないランプ。多くの収納棚は四方の壁に隙間なく配置され、どの棚も整頓知らずに物が詰められている。窓際には何かの作業台だろうか、同じ形の机が前後に二つ、互いに数々の工具や部品などを一面に広げており、手前の机には中底が丸見えの片靴が転がっていた。

 この室内にある皮革の束や、棚に並ぶ履き靴の密度からして、革靴屋のたぐいだろか。

 ―――……靴屋?

 いやに聞き覚えのある響きだった。

 室内に充満する、喉を掻くような独特の匂いは、なめした皮革のもの。

 棚へ置かれた革靴はデザインの見本でしかないことを自分は知っている。

 それだけに限らず、机のに広がる真鍮製のはと目やラスト、金ベラ、フマズ錐、面やすり、目打ち、スプリングコンパスなど工具の名前も全て知っている。

 そう、目の前にいる三十後半の黒髪、長身で筋肉質の男が、最近伸ばし始めた顎ヒゲと、エプロン姿がお気に入りな独身店主なのも知っていた。

 「――なんでしたっけ店長…」

 自分自身に問いかけるように、ずっと怪訝顔だった店長に向き直る。

 心臓はまだ不快なリズムを続けているが、何のことはない。俺はこの靴屋で働くただの従業員だった。

 「…なんでしたっけって、お前……」

 意志のある反応に、安堵したやら呆れたやらで、店長は深くため息をついた。

 「オレはまた、匂いのことでお前がぎゃあぎゃあ言うだろうと思ったのに、やけに静かだから様子を見に来たんだよ。そしたら、お前が窓に寄りかかったまま動かなくて、呼んでも応えないし、意識がないみたいでエライ焦ったぞオレは……」

 そうだ。あの匂いから逃げようと、作業台の窓を開けたのだ。

 なめし革の匂いと、甘い匂いは相性がとことん最悪で、特に今日はバニラという凶悪犯に、たまらず窓へ飛びついた。だが、おかしな事に、もう甘い匂いはほとんどしない。

 開けっ放しの窓へ誘われるように身を乗り出すと、子供の声が聞こえてきた。

 目をやれば、あの三毛猫が駄菓子屋の兄妹に強引な愛撫を受けている。近くにはニボシの袋が落ちていた。

 自分の時間感覚に疑問が生まれる。

 「…店長。どのくらい経ちました?」

 「……そうだな。俺が来てから、十五分近くは過ぎてるか」

 「十五分?」

 意識が戻るまでに、そんな時間差があった感覚は全くない。

 そもそもあの時は、表通りへ続く右の路地を見ようとしただけだ。それで店長に―――いや、表通りは見た気がする。その途端に店長から呼びかけられたんだ。

 「あ、待てよ。そういやお前ここ最近熱っぽいんだったな」

 「え…はぁ」

 突然浮上した質問に、曖昧な返事が出た。

 確かにこの三、四日微熱があるようで、起床の度に怠さが増している気がしていた。

 でも―――

 「どこかで聞いたことがある。普通、前世の記憶は十歳前後で戻り始めるものだけど、時々、物心つく頃にフラッシュバックが起こって意識を飛ばされることもあるって。そのとき熱も出るらしい。まさかそれじゃあ―――」

 「……今年で十七ですけど」

 「…だよなぁ」

 素人診断はどうかと思うが、その気持ちは受け取っておく。

 ちょうどその時、話の区切を付けるように、涼しげな金属音が響く。

 「おっ、客か?タイミング悪いな、こんな時に……」

 「別に俺のことは気にしないで行ってください。もしお客さんなら早くしないとまた(・・)宿屋の息子さんに取られてしまいますよ」

 それは最近、店長にとっての泣き所。

 「うっ…ならちょっと行ってくるけど、お前は大人しくしてろよ」

 こわばった表情と、浮き立つ足の赴くまま、紺のとばりが掛けられた正面奥の戸口を潜り、店内へと消えていく。最後まで見届けてから、表通りの問題に戻った。

 躊躇なくとは言えないが、それでもゆっくりと表通りを見向いた。

 石壁と石壁の合間に細く切り取られた、人と人の往来がそこにはあり、何の変哲もないいつもの光景を、自分の目はごく普通に(・・・・・)見て取っていた。

 気が抜ける感じがした。

 窓枠に腰掛けるようにもたれかかり、息をつく。

 それでも念のため、自分の頭と相談してみた。

 名前はオギ。年齢は十七になると店長には言ったが、その実は定かではない。

 家族はなし。生きているかすら知れない。

 赤毛の赤眼。どちらもこの地方では珍しいらしく、自分自身で好きではない。

 後ろで一つに束ねた赤毛を摘む。ほどけば肩くらいの長さだろうか。

 ふと、紺色の紐がその指にかかった。

 これは今かけている眼鏡のグラスコード。眼鏡ともに貰い物。

 それから……数年前にこの地を訪れ、この靴屋で住み込みの従業員として働いている。

 靴屋を選んだ理由は特にない。ただ、足が向いた先にこの店があっただけで、その動機の無さに店長が泣いたほどだ。

 それでも旅費が貯まるまではと置いてくれ、そのまま年月が過ぎてしまっていた。まあ、もともと旅人じゃないし、靴を診たり作ったりするのも嫌いじゃない。

 むしろ、自分に向いている仕事だと気付いて、すっかり店に居つき、町にも馴染み――おかげで、色々と知った。自分には、まわりの人と違う部分が、色々と、ある。

 「…………」

 ここまで思い出せれば、もう十分だろう。

 これまでの自意識と、今の自分にこれといった違和感は一つもない。

 いつも通り仕事を―――いや……無意識に、額に手を当てていた。

 店長にバレているとは思わなかった。

 確かにこの三、四日は微熱が続いていて、今朝にいたっては身を起こすのさえ苦労する倦怠感があった。しかし、それが今では綺麗さっぱり解消されていた。

 熱っぽさもまるでない。おかしな話、解消された後の方が微熱の理由が気になった。

 もし、微熱が何らかの兆しで、この一騒動に関連した症状だとしたら……店長に気付かれている分、やっかいだった。

 ―――そろそろ、本気で身の振り方を考えるべきかもしれない。

 胸に押し寄せる先の見えない不安。

 重たい気持ちのまま、窓を閉めようとしたのがいけなかった。

 何かが潰れる音と共に、蝶番の金具が盛大な音を立てて床に落ちた。右手には、窓枠からまるごと外された窓が握られていた。

 時間が止まったように固まった。

 いや、固まってる暇など無い。素早く蝶番を拾い上げ、ひしゃげた部分を指で(・・)引き延ばし、窓を枠に宛てながら、ぶら下がっていたボルトを蝶番の穴にひと突きで押し入れると、どうにか窓は窓枠へ収まってくれた。

 「どうしたオギっ」

 予想どおり、戻ってきた店長に、何事もなかった体を装う。

 「あ、スミマセン。これ落としてしまって」

 言って、工具の一つを差し出した。

 「……ったく。こっちはまたお前がぶっ倒れたかと思うだろうが」

 「ですからスミマセン。それで結局、来店したのはお客さんだったんですか?」

 さっさと話をすり替えれば、店長は得意げにふんぞり返った。

 「当然だろ。あんな軟弱な靴を売る店に、旅人の靴屋が務まるか」

でも、客層は旅人だけとは限らない。という禁句は飲み込み、店長の自己満足はそのまま聞き流す。

 「じゃあ、どんな依頼のお客さんですか?」

 「あーそれなんだが…お前が担当してる修繕の依頼だ。でもお前、体調はどうなんだ?」

 「いえ、大丈夫です。むしろ今朝より優れているくらいですから、やらせてください」

 言いながら、手の工具を作業台に片付けることで、それとなく視線から逃れた。

 「…何なら付き添ってやるが?」

 「俺の体調を心配してくれるなら、さっさとあの匂いの発生源を片付けて下さい」

 「……お前、いつまで経っても匂いにはウルサイな。味覚の方は砂糖と塩の区別も付かないくらいダメダメなのに」

 砂糖をすすって生きてる人に言われたくない。

 店長は週に一度、決まって必ずお菓子を作る。これでも少なくなった方だ。

 俺がこの靴屋に来るまでは日々の日課だった。ことにケーキ関係は、プロでも唸るほど、装飾まで凝ったワンホールを、一人で作って一人でたいらげる。

 「これでも配慮してるだろ。事前に報告してるし、キッチンの戸も閉めてる。調理だって午前中に終わらせてるだろ」

 「わかってます。俺だって言いたくないですよ。でも、どう考えても、なめし革とお菓子の共存は不幸を招きます。そもそも靴屋がケーキに凝ってどうするんですか。ケーキが食べたいなら買ってくればいいでしょう」

 切々と語るも、店長はこれ見よがしに、まだまだだと首を振った。

 「いいか、オギ。これも職人の技を磨くための鍛錬なんだ。靴とケーキ、一見無関係に見える二つだが、根源的な部分は繋がっている。靴にとって命である革と、ケーキの命であるスポンジは、その造形を保持するため、費やされる力量を一定に保たねばならず」

 「嘘でしょ」

 「うん」

 「…………」

 「…………」

 「じゃ、後は任せた」

 全てを済し崩し、店長は逃げるように二階のキッチンへと消えた。

 が、すぐに折り返して顔をのぞかせる。

 「くれぐれも無理はするな。それと、客は急ぎじゃないそうだ。足の測定をして、それから代用の靴を見立てやれ」

「言われなくてもわかってます」

 今度はこっちから背を向けて、紺のとばりで隔てられた靴屋の店内へ足に運んだ。


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