森の中
町の外に出てた。男の足あとを追って、人気のない街道を走っていたが、足跡が途中で森の中へとそれていた。かろうじて人と分かるの足跡を見付け、見失わないよう慎重をきし、追跡を徒歩に切り替える。
月光に照らされたはずの森は、うっそうと茂った木立に月の光りは阻まれ、数センチ先すら危うい状態だった。
変だった。自分の体が異変に気が付いた。
夜目が利くことは知っている。でも、月明かりすらほとんど届かないのに、この目はまるで昼間のように世界を映していた。
それだけではない。足を繰り出す度に神経が冴え渡っていくようで、高まりすぎて流れる空気すら肌を刺していくようだった。
人の往来のない獣道を、足は怯みもせずに突き進む。
しだいに耳も異常になった。そこかしこで身を潜める獣の息遣いすら聞き分けられた。
そして、獣ではないものもまた、この耳は聞き取った。
獣ではない乱暴な息遣い。衣擦れの音。二足で歩行する、人間の足取り。
歩くことを止めていた。遠くに聞こえる人の気配がどんどんこちらに近づいてることを聞き取って、気取られぬよう待ち構える。
やがて、闇の中からぼんやりと光が生まれた。ランプの灯だった。鉄製のランプを手に掲げ、フードを被った人間が足下を注視しながら歩いてくる。フードを深く被り、顔が見えないはずなのに自分にはそれが例の男だと認識できた。
ランプを持った手が、びくりと震えた。
フードに隠された両目が用心深くこちらを見ているのを感じた。赤い髪を見ている。見覚えがあるのだろう、昼間に会った相手だと。しばらく無言のまま見合っていた。
男は戒杖らしき物を持ってはいなかった。
「ハイネの戒杖をどこへやった」
自分で思った以上に淡々とした声が出た。
男がかすかに嘲笑う気配がし、無関係を装うつもりなのか、男は何も言わず立ち去ろうとする。ほとんど条件反射で、腕を掴んだ。
腕を掴んだだけのつもりが、固いモノがねじれ、折れる音がした。
森を悲鳴がつんざいた。
折れた腕をかばおうと男は体を丸めるが、掴んだ腕を放してやらなかった。過度な暴力だと分かっていても何とも思わなかった。
神経が鋭敏になっている分、心がどこか遠くて、ただ煩わしいとしか思えなかった。
「ハイネの戒杖をどこへやった」
「――し、知るかっ」
一瞬の隙を突かれた。
気付いたときには、男がもう一方の手に持った短剣を振りかざしていた。
短剣が深々と腕に突き刺さる。
しかし、恐怖に顔を引きつらせたのは、男の方だった。
確かに短剣は腕に刺さり、肌の下に食い込んでいる感覚もあるうえ、見る間にも血があふれ出ている。だが、その事態に眉一つ動かさず、男の折れた腕を掴み上げた力も全く揺るがなかった。
短剣と男の手がぶら下がったままの腕を振り払った。
男はボールのように投げ出され、近くの木に激突した。
起き上がらない男を胸ぐらを掴んで起こせば、落ちたフードから見苦しい金茶の髪がこぼれ出た。
「小屋だっ、この奥に猟師の小屋があるっ、今は使われてないっ」
懇願するように男は言ったが、信用できなかった。
だから、男も連れて行くことにした。
襟首を乱暴に引きずり、男が苦痛に喚こうがどうでもよかった。
休むことなく森の奥へと踏み入っていく。重いものを引きずる音と、間が空くようになった男のうめきを、絶え間なく闇の中に響かせながら、ひたすら歩く。
やがて、回りの風景と同化するように苔むした小屋を視界が捉えた。
歩く速度を変えず、入り口を申し訳ていどに塞ぐ戸を目前にした時だった。
ぞっと悪寒が走った。
その得体の知れない直感は、この戸を開けてはならないと告げていた。
動けなかった。全身が麻痺したように固まって、指一本動かせなくなり、あろうことか男の襟首を掴んでいた手まで握力を失った。
するりと、手から重さが抜けとたん、男は地を這うように駆けだした。追うどころか、声を上げることすら出来ず、男の姿はあっという間に見えなくなった。
だが、この際、男のことはどうでもいい。
この小屋の中にあるモノを確かめねばならなかった。この中には、確実に何か(・・)があった。
どうにか気力を振り絞り、こわばった手足をぎこちなく動かす。
手先がどうしようもなく震えた。上手くいかなくて、結局小屋の戸を壊してしまった。
一歩踏み出すにも相当な時間がかかった。けれど、目的のものを部屋に捜す必要はなかった。より嫌な方へ近づけばよかった。
あたかも臭気のように流れ出る何かの気配をたどって部屋の片隅へと行き着く。だが、そこには何も無く、あるのは口を覆いたくなるような気配だけだった。
床下―――はっと気付いて、ぼろぼろの床板に手を伸ばせば、それは簡単に外れた。
禁忌に閉ざされた箱を開けるように、いやに重たい蓋をどかす。
中から現れたのは、細長い物だった。
苔むした猟師の小屋には不自然な、質の良い布にくるまれた細長い物。
突如、記憶が弾けた。
見覚えがあった。おかしな事に眼下の物には見覚えがあった。
記憶の中で、それはハイネの肩に担がれていた。
ハイネに担がれた姿を見たはずがない。でも、覚えていた。彼女はあのとき表通りを歩いていて、そして―――そして、それを見たせいで、俺はあのとき意識を失ったのだ。
「――っ」
一歩退いていた。近づきたくなかった。触りたくなかった。
触りたくなかった。触りたくなかった。
触りたくない、触りたくない触りたくない触りたくない―――
―――なら、他の誰かに。
すがるように見付けた方法に、しかし、取り逃がした男の顔がちらついた。町に戻って他の誰かを連れてくる間に、男が戻ってきてもおかしくはなかった。
何より脳裏を占めるは、ベットに横たわるハイネの姿。
ハイネの姿だった。