白ひげの療医
足が上手く動いてくれなかった。
急いでいるのに、早く行かなくてはいけないのに、上手く走れなかった。
ハイネは診療所にいると、宿屋の店主は告げた。
自分の宿で、それも、宿で売っていた靴を履いた客が階段から転倒したことに、騒がれたくなかったから、すぐには言い出せなかったのだという。
―――そんなの知るかっ
店を飛び出し、脇目もふらず走った。
押し寄せる不安は、この暗い夜道にも似て、焦れば焦るほど長くのびていく気がした。
やっと診療所に見えた小さな灯りは、周囲の闇に今にも呑み込まれそうだった。
診療所に駆け込むと同時に、出くわした白ひげの療医に飛びついた。
「ハイネはっ――十歳くらいのっ、階段から落ちたってっ」
目尻の皺が消えるくらい丸まった目が、不機嫌そうにすがめられ、それでも、白いひげを蓄えたその顎で、カーテンで閉じられた奥の部屋を示してくれる。
彼に礼を言うのも忘れて、カーテンを押し開いた。
二つあるベットの一つに彼女はいた。
ぐったりと、その小さな体を力なくベットに横たえていた。
昼間見た姿とあまりに食い違う姿に一瞬別人かとも思われた。しかし、ふらつく足で一歩一歩近づけば、それは確かにハイネだった。
体のあっちこちに擦り傷やあざがあった。酷いところに宛てられたのだろう薬布の白がやたらと目について、とりわけ頭に巻かれた包帯が痛ましさをひときわにする。
そして、消毒液の匂いに混じって漂う、血のにおい。
「ザウリの話じゃ、宿の階段から落ちたそうだ。何でも、誰かと揉み合ってみたいだってよ。その後に落ちる音がして、様子を見に行ったら彼女が倒れていたそうだ」
宿の店主から聞けなかった事の詳細を、白ひげの療医が話してくれる。
「ここに運ばれたはいいけど、処置の最中に目を覚ましてな。聞けば、何か大事な物を奪われたみたいで、取り返しに行くって暴れてよ。頭を打ってるし、様子を見たかったから少しだけ鎮静剤を使わせてもらった……まあ、言っても慰めにならんが、頭はともかく、体の怪我はそんなに心配することはない。まだ若いしな疵も残らんだろうよ」
話半分に聞いていた。まるで死人のように閉じた目蓋を開けて欲しくて、彼女の額におそるおそる手を伸ばす。指先が包帯よりも先に、いやにざらつく髪に触れ、そこに生々しい血の跡があるのに気付いた。
その瞬間、彼女の痛みは感染して体中を這い回る。
痛みに鈍いこの体に、初めて刺した痛みは、血ではなく、もっとどろりとした黒い脈を腹の中に注いでいく。
―――大事な物を奪われた?誰に?そんなこと、考えるまでもない。
彼女の側にいない時点で、あの男がハイネの友であるはずがない。
ハイネの大事な物。怪我を押してまで取り返そうとしたもの―――戒杖か。
ハイネの友であり、彼女が聖人ハイネの証と出来るもの。
あの男がハイネの戒杖《友》を騙ったからには、その価値を知っていたのかもしれない。
ベットのシーツを握りしめていた。自分を殴り飛ばしたかった。
ハイネが男に警戒していると気付いていたのに、どうして放っておいたのか。
自分への憤りと、ハイネを襲撃した男への憤りが腹の中で気持ち悪いほど煮たっていた。
「……ハイネを、お願いします」
絞り出した言葉は、白ひげの療医に向けて、
「…おい、何考えてる」
不穏な空気を読み取ったか、止める気配を見せた療医の横を足早に横切った。
止める隙など与えず、診療所を抜け出し、夜の町へ駆けだした。
診療所を出てすぐ、店長と宿の店主に出くわしたが、店長の呼びかけにも応じず、それどころか二人に目もくれずに走り抜ける。
誰の顔も見たくなかった。この吐き気でしかない溜飲を、下せる顔は一つしかなかった。
男の顔ははっきりと覚えている。その背格好、衣服の組み合わせも。そして―――
一つの確信を持ってある場所へ向かった。
行き着いた先は、ハイネの泊まっていた宿屋の軒先。
迷わず軒先に広がる地面へ膝を折り、見渡せる限りの地表に目を懲らす。
そこにはありありと残されていた。一対の靴底が刻んでいった、男の足跡。
この月明かりの下ならば、夜道だろうと何の苦にもならなかった。