思わぬ尋問
第三章
その日を境に、ハイネはおかしくなった。
毎日、朝早くから靴屋を訪れ、作業場に入り浸り、夜遅くまで宿屋に帰らない。
それだけならいい。一日中、カルガモの親子よろしく人の後をひょこひょこ付いて回るのも、かろうじて良しとしよう。
だが、一日中おかしな眼差しを送られるのは勘弁して欲しかった。
まるで、母猫が子猫を慈しむような目でこちらを見てくるのだ。
いくら指摘しても止めてくれず、というより、人が何を話しても、そよ風に吹かれいるような顔で微笑むばかりだった。
きわめつけは、彼女の靴のデザインについて相談したとき、
「なんとっ…そ、そなたが、わしに靴を作ってくれるのか?」
と、感極まった声で、訳の分からないことを言い出す。
さすがに心配になり、熱を測ってみれば、かざした手にほおずりされ、こっちの顔を赤くさせられた。
彼女のいちじるしい変化に、もしかして俺について何か分かったのではないかと思ったが、どう話しかけても上の空では、とても聞ける状態にはなかった。
幸い、靴が出来上がるまで時間はある。
作業の邪魔をするわけではないし、靴を製作する合間を縫ってハイネの様子を見守ることにした。が、そんな安易な気遣いは、見事に打ち砕かれる。
それは、ハイネがおかしくなって二日目のこと。店長が用事で出かけた時だった。
けして作業の邪魔をすることの無かったハイネが、わざわざ部屋を迂回して作業台の向かい側に座り込む。その顔には、やけに神妙な面持ちが刻まれていた。
「…折り入って、おぬしに聞きたいことがある。これは重要なことなのだ。だから嘘いつわりなく答えて欲しい」
改まった言いように、まさかっ、と作業中の手が止まった。
彼女の言葉をしかと聞こうと、こちらも自然と身構えていた。
「おぬしの女関係について聞きたい」
「……――――」
「おなごと付き合ったことはあるのか?ある場合、どういう付き合いを行ったか詳細を包み隠さず赤裸々に述べてみよ」
びきり、と、自分の脳みそが凍る音がした。
真剣な顔して何を言うのか。堂々と恥ずかし気もなく、正面切って何を言い出すのか。
これも経験の差なのか。確かに、あらゆる意味でハイネの経験値には適うはずもない。仮に生きた年数を経験値とするなら、こっちの経験値は十七で、あっちは優に千を越えるはずだった。これでは古語と現代語ほどにジェネレーションギャップがあってしかりだろう。そういえば、前世での恋の遍歴を自慢げに話していたし、きっと彼女にとってはちょっとした世間話に違いない―――脳へのダメージが、思考を横ずれさせてゆくが、だが、それもハイネはがっちり正しにやってくる。
「さあ、付き合ったことがあるのか無いのか、はっきりせよっ」
べしべしと、作業台を叩いて催促される。
「……………………………な…無い、です」
「そうかっ!――いや、そうだと信じておったぞ。うん」
ハイネは渾身の笑みを咲かせたかと思えば、感慨深げに何度も頷く。そして俺は言われるまま答えてしまった自分を何度も呪う。
「いやな、わしも幾度となく男としての人生を生きておるだろう。だから男の身体にはちゃんと理解を持っておる。色々仕方ないこともあるとわしは思うのだ。もし、その辺にも悩みがあるなら、わしは心置きなく相談に乗ってやるからな、安心せい」
いったいこれは、何の拷問なのか。穴があったら入りたい。でなければ、今すぐ目の前の人の口を封じたい。続けざまに繰り出される尋常じゃない精神的苦痛に、どんどん疲弊していく中、店長が思いのほか用件を早く済ませ、帰宅した。さすがのハイネも店長の前では話を慎んでくれる。
帰宅するなり放たれる店長のくだらない軽口も、ハイネと比べればどれほど可愛いものか。今日ほど心に染みたことはない。
ただ、この一件で良かったことが一つだけある。ようやくハイネにいつも調子が戻り、それからはカルガモになることも、母猫になることもなかった。
作業場に入り浸ることは変わらず、朝食や昼食を一緒にするのはもう日常だったが、どうしてか、あんなに気に入っていたのに、オリビアさんの食堂には行こうとせず、もっぱら店のキッチンで、人の作った料理ばかり食べたがった。
そうして、ハイネの靴が完成する日は、驚くほど早く近づいた。
近づく度、彼女は靴の製作がどの段階かを聞くようになり、聞いては元気をなくした。
靴を作っている前で、落ち込まれてしまうと少し複雑だったが、別れを寂しいと思ってくれるなら、それはそれで嬉しかった。
残す作業が、底つけと、汚れを落しや靴紐を通す仕上げだけになると、ハイネはひどく思い詰めた顔になる。しきりにこちらの顔をうかがっては、何かを言うか言うまいか悩んでいるようで、だから、ここは潔く自分から切り出した。
「……あの、もしかして、俺のこと何か分かりましたか?」
目を丸くしハイネは見上げる。
わずかに逡巡し、目蓋を伏せるが、しかし、再び見上げた顔には、子供にはない眼光の据わり方があった。
「おぬしに、話しておきたいことがある」