記憶の底
食堂を出て、誰が言うでもなく二人の足はそこへ向いた。
実りの大樹がある公園。
公園の主である、くぬぎの巨木をハイネが間近にしたいとのことで、保護のため区切られた柵の前まで足を運ぶ。
その雄大な姿を見上げれば、そよぐ風にさわさわと緑の空は揺れ、葉と葉の合間から、ちらちらとした光が、金色の粒となって降り注ぎ、ふわふわと鼻をくすぐった。
しかし、見たいと言った張本人は、くぬぎの豊かな精彩など見向きもせず、柵から身を乗り出して何かを地面に探していた。
「どんぐり、落ちてないかの」
「どんぐりって……あのどんぐりですか」
このくぬぎの木の実は、普通より大きなどんぐりが生る。その珍しさからか、いつしかそれを拾うと願いが叶うという謂われが付き、そのため『実りの大樹』と銘された。
「無理ですよ。まだそんな季節じゃないですから……欲しいんですか?」
「欲しい」
「…聖人でも願掛けするんですね」
「変かの」
「笑えます」
むっと頬を膨らませ、聖人とはかけ離れた顔で怒るので本当に笑ってしまった。
ムキになったか、ハイネは柵の回りを巡っては、見つかる確率の低いどんぐりを探し続ける。よほど叶えたい願いがあるのだろう、思い当たる節は一つだけ。
きっと、捜していると言っていた友人のためだろう。
でも確か、その友は自らの戒杖だとも言っていた。そして、死んでしまったとも……
一概には信じがたいが、けれど、人々の前世を目覚めさせた聖人ハイネの戒杖ならば、魂が宿っていたとしてもおかしくないのかもしれない。ハイネの戒杖なら―――人と同じように転生を繰り返してもおかしくないのかもしれない。
いつまでも柵の周辺をうろつくハイネの姿に、そんな考えを傾けていたが、どんぐり探しを諦めたのか、彼女がふてくされた顔で戻ってくる。
あえて何も触れず、この三日間続けて座っているベンチで、一休みすることにした。
ハイネの隣に腰掛ければ、彼女が前触れもなく腕にしがみついてくる。あれだけデートを否定した後で、こんな状態を誰かに見られては、もはや言い訳が立たない。丁重に腕から引き離そうと身動ぐが、ハイネはそれを許さず、余計に力を込めてくる。
「オギよ。最近、何か気になったことはないか?」
「……?」
「おぬしがこれまで抱えてきた過去については色々と聞いたが、では、最近になって何か変化を感じたことはないか?何でも良いぞ。身体的なことでも…感情的なことでも」
その声は真剣で、この状況から動けなくするための口実ではないようだった。
言われるまま、この何日かを振り返ってみると、以外にも、それはあっさり見つかった。
「あ。ありました。一昨日のことなんですが、何か変な風に気を失ったみたいなんです」
「…みたい、とは?」
「自分では良く分からなくて、十五分くらい反応がなかったと店長が。それに意識が戻っても、記憶が混乱してたみたいで、店長のことも、自分が居る場所も分からなかったんです。まあ幸い、その辺の記憶はすぐに思い出せたんですけど」
「……一昨日といえば…わしがこの町に着いた日だな」
「そういえば…ええ、そうです。貴方が店にいらっしゃるほとんど直前の事です」
ハイネが、服の袖を強く握りしめた。
「他には?」
「え?ええと…そうですね、ここ数日、起きる度にけだるかったのが、その気絶の後に消えてたりもして――けだるいのも変だとは思ってたんです。俺、怪我とかはしても病気の類は今まで一度もなかったものですから」
そこで区切ると、ハイネもまた、それっきり黙り込んでしまった。
それでも、彼女の手はずっと袖を握りしめたまま、爪が手のひらに食い込んでしまわないかと心配になるほどだった。
「感情的なことで言うなら……貴方に出会えたことは、俺にとってよほどの変化でした」
彼女の気を引きたかったのか、思いつくまま口を出していた。
「こうして相談に乗ってもらっている事もそうですが、その前に、貴方から旅が目的の旅人だと教えられたおかげで、どれほど心を軽くすることが出来たか……本当に、俺は俺自身の得体が知れなくて、あの時、気絶したことも何かの兆しだとしたら、取り返しの付かない事を起す前に、貴方のように旅に出てみようかと思ったんです」
彼女の力が緩んだ。こちらを見上げ、黙って耳を傾けた。
「ここの人たち迷惑をかけずに済むのなら、旅人としてこの町を出て行くという岐路は、俺にとって初めて見付けられた道で……とても嬉しかった」
ハイネの手が、腕からずり落ちた。
目をやれば、その顔はうつむいていて、口元にはかすかな笑みが飾られていた。
「おぬしは、本当に真面目だな」
「……馬鹿にしてます?」
「しておらぬ。真面目な良い子だ」
ますます馬鹿にされている気がしたが、ここで反論するのも子供じみていた。
「心配せずとも、おぬしなら、町の人々を傷つけるようなことはせぬよ」
「って、何の根拠もないですね」
「そうか?ならば聖人の御墨付きをやろう」
「……余計に胡散臭くなりました」
罰当たりめっ、とハイネが体当りをかますので、罰はどんっと肩に当たった。
負けじと彼女の身体を押し返すが、ハイネはそのまま肩に寄りかかっきた。そして、しばらく二人の間には沈黙が落ちた。すると、何とはなしに笑えてくる。
驚くことに、もう自分について話すことがないのだ。もうハイネに全てを語ってしまった。後はハイネがどう判断を下すか待つばかり。いや、ハイネにも判断は付かないかもしれない。そして、遠からず彼女はこの町を旅立つのだろう。
それでも良かった。自分について答えが欲しかったわけではない。
欲しかったのは―――思わず感じてしまうのは、隣にある柔らかな体温。
相手に寄りかかっているのは、ハイネなのか自分なのか、次第に分からなくなりながら、時間は静かにゆっくり過ぎていく。
降り注ぐ暖かな日差しは、昼食を取ったばかりの頭に、眠気まで注ぎ込んできた。
「良い天気だの」
「…そうですね」
眠気のせいか、味気のない答えを返す。
「のうオギ。あの空をおぬしはどう思う?」
「……どうって…キレイ、ですね」
「そうだ。ただ綺麗だと思うだけでいい至上の青だ」
味気のない返事が、なんとも味のある世界に変わった。
彼女の言葉が、声が、耳に触れるたび、波紋となって何かが深く沈んでいく。
「のう、オギ。こうしておると、万事が平らかに思えてこぬか?」
質問に応えたかどうかも分からなかった。ここ(・・)にいることが心地よくて、耳は聞いているのに意識は波にまどろむ海の底だった。
「――のう、トルトゥーガ。おぬしにこの世界はどう映る?」
ああ、またかと思う。その質問には飽き飽きしていた。
―――貴方は、私にそればかり聞く……
「……は?あれ、俺いま何か言いました?」
意識が一気に浮上した。何かを聞かれ、それに応えたはずなのに、そのどちらも思い出せず、ハイネを振り返った。ところが、彼女は顔を覆うようにしてうずくまっていた。
「ちょっ…どうしたんですかっ」
「…大事ない……目に、少しばかり…ごみが入ったのだ」
そう言っても、必死に音を殺すせいで声は震えていた。
「あの…何か、酷いこと言いました?」
彼女は何度も首を横に振った。
振って、少しだけ身を起こすと、ころりと寝返るようにして俺の膝を枕にする。
「嬉しいのだ。おぬしがとても良い子で、とても優しい…立派な人間だから」
ハイネの言葉も行動もどう対処すればいいか、ほとほと困り果てた。でも、せめて、彼女が泣きやむまではと待つことにした。