4-3 みんなの子守り役
王都の東に広がる『聖なる森』は、一歩足を踏み入れた瞬間に、世界の色が変わったかのような錯覚を覚える場所だった。
木々の緑は異常なほど濃く、空気はひんやりと冷たく、そして絶えず何かが囁くような鈴の音のような音が、鼓膜ではなく脳裏に直接響いてくる。
「へぇ〜、初めてこの森に入ったけど、神秘的だねぇ」
「ああ。他の森とは雰囲気が全く違うな」
「ふふ。ようこそ、『聖なる森』へ」
フローリアは、まるでこの森の王女のように微笑み、先導して森を歩き始めた。
彼女のシルクの薄く軽い生地を何枚も重ねたドレスが歩く度にふわりと揺れている。
ヒーアリックは、周囲の樹々を見上げながら、奇妙な静寂と響き渡る音に耳を澄ました。
足元を埋め尽くす苔を踏みしめる感覚はどこか柔らかく、踏み込むたびに幻想的な音が頭に響いていくような気がする。
「……困ったわね」
フローリアは、突然足を止めてはふっと目を細めて呟いた。
「どうしたんだ?」
「……当然のことなのだけど……精霊さん達が、お2人を歓迎していないのよ」
フローリアは足を止めたまま、振り返りどこか困ったような顔を浮かべた。その視線はヒーアリックとフェリスに向けられている。
「……このまま進めば、森は私たちに本当の姿を見せてくれないわ。下手をすれば、夢見草まで辿り着けないかもしれない。あれはかなりこの森の奥地にあるのよ」
『聖なる森』は、古代から生きる精霊達も棲んでいるといわれている、言わば神聖な森。故にこの森は、他の森や山とは異なり、基本的に立ち入りが禁止されている。
立ち入りを許されるのは、精霊達が心を通わした者のみ――上位の精霊使いだけなのである。
「……お2人が立ち入ることが出来たのも、言ってしまえば私の信頼故だと思いますわ」
「その通りだね。僕たちは、精霊達から見れば『ただの不法侵入者』に過ぎないだろうから」
「……だが、歓迎されていないのならここから先はどうするんだ?」
ヒーアリックが問えば、フローリアは重ねたドレスの裾をそっと整えて思考するように首を傾げる。
周囲の空気が冷え込み、緑の濃い樹々がざわめき始まる中、フェリスはどこか嬉しそうに声をあげた。
「そういうことなら僕に任せてよ。きっと、エドくんもこれを見込んで僕も巻き込んでるはずだからね」
「歌か。精霊は音楽が好きなのか?」
ヒーアリックが半信半疑でフローリアに尋ねれば、彼女はフェリスの提案をあっさり受け入れているのか嬉しそうに微笑んでいた。
「試したことがないからわからないわ。けれど、上手くいくんじゃないかしら?フェリス殿の歌なのでしょう?」
「あはは。精霊使いさんにも期待されているなんて光栄だね」
フェリスは背中に背負っていたリュートを愛おしそうに撫でながら笑った。
その使い込まれて飴色に光る、梨のように丸みを帯びた胴木の弦をそっと弾くと、澄んだ一音が森の静寂の中に溶け込んでいく。
すると、先ほどまで不機嫌そうにざわついていた樹々の葉がぴたりと揺れを止め、どこか好奇心を孕んだ柔らかな響きへと変わり始めた。
「精霊さん達も、フェリス殿の音色に耳を傾け始めたみたいよ」
フローリアが嬉しそうに微笑み、木々の間から姿を現し始めた小さな光の粒を見守った。
フェリスの手指が軽やかに弦を滑り、紡ぎ出されていくのは、光のように美しく繊細な旋律。
その音がたちまち森の中に広がっていくと、まるで冷たい霧が晴れていくかのように、空気がすっと和らいでいく。
「……流石だな、フェリス」
ヒーアリックが感心したように呟くと、フェリスは弦を弾く手を止めずに、得意げに片目をウィンクしてみせた。
「これで僕の歌と演奏は、人間だけじゃなくて精霊の心だって射止められることが証明されたね」
すると、2人を拒絶するように閉ざされていた枝葉の隙間から、温かな木漏れ日が差し込み始めた。
それと同時に、脳裏に響いていた冷ややかな音は、心地よい鈴の音へと変わっていく。
さらには光の粒が沢山現れ、嬉しそうにフェリスの周りをくるくると舞い踊り始めた。
「ふふ。どうやら精霊さん達は、フェリス殿の音楽をすっかり気に入ったようですね」
フローリアは嬉しそうに目を細めた。彼女の極限まで淡いピンクの髪が風にたなびく。
「これで大丈夫ね。こっちよ。まずは目的である夢見草を取りにいきましょう」
普通なら絶対に迷うような、道すらない場所をフローリアは迷いなく進んでいく。
その迷いのなさは、彼女が何度もこの場所に通い、どれほど森の奥深くまで知り尽くしているかを物語っていた。
「ところでひーくん、ランチはすでに食べたかい?」
「ランチ……?」
演奏を終え、ヒーアリックと肩を並べたフェリスの突然な食べ物の話題に、彼は呆気にとられたような声を返した。
「あ、ああ。……会議が終わってから少し余裕があったからな。……それがどうかしたのか?」
「あちゃー、食べちゃったかぁ〜。僕はまだなんだ、ちなみにふーちゃんも」
フェリスは琥珀色の猫目で先頭を歩くフローリアを指した。ヒーアリックは、フェリスのその様子であることを察し、眉間にしわを寄せる。
「……エドガーに遊びにいくような真似はするな、と釘を刺されていなかったか?」
「エドくんは『だけ』がダメって言ったんだ。僕はもう一仕事したからね、残りはピクニックでもいいと思うんだ」
「……相変わらずの屁理屈だな……」
ヒーアリックは、深くため息をつきながら呆れたように首を振った。
「……エドガーが聞いたら、間違いなく頭を抱えるな」
「あはは!それはそうかもね。でも考えてみて、ひーくん」
フェリスは口を尖らせながら、持っていたリュートをくるりと背中に回した。
「……君がここにいるのは紛れもなく、エドくんがふーちゃんと僕のことを、こういうことやらせるには向いてないってわかってるってことだよ。
……つまり、ひーくんが僕たち2人をちゃんと先導してくれないと困るってわけだね」
「……俺はいつ2人の子守り役に昇格したんだ……?」
「あはは!2人じゃなくて、みんなね」
フェリスはいたずらっぽく笑いながら空色のウルフ髪をよけた。
「ひーくんは、至高の星階みんなの子守り役」
「……至高の星階の、子守り役……」
フェリスの言葉を聞いたヒーアリックは完全に硬直した。そんな彼の姿を見たフェリスは楽しそうに忍び笑いを漏らす。
「あはは!まあまあ♪そんな悲しんだ顔をしないで。信頼されてるってことだね。似合ってるよ、すごく」
「……似合ってるなどという問題ではない……」
フェリスの背中に背負っていたリュートの丸い木胴がケラケラと笑う彼の動作に合わせて揺れ、かすかに弦が共鳴して可愛らしくい音を立てている。
「そういうわけだから、ひーくん。このあとの僕たちの遅めのピクニックランチは、温かい目で見守ってね」
フェリスは、ずっと手に持っていたバスケットをヒーアリックに見せびらかせながら片目でウィンクをする。
「……お前が本当にピクニックをしに来ただけに見えてきた、勘弁してくれ……」
ヒーアリックは深い深いため息を吐きながら額を抑えた。
ヒーアリックが至高の星階についてから早3年。
彼がついた当初は、これほど手のかかる者たちだとは思いもしなかった。
最初はただの能力も技術も圧倒的な怪物集団だと思っていたが、蓋を開けてみればこの通り、自我が強く人使いが荒い、ある意味怪物の集まりである。
(……思い返せば、最近はずっと振り回されているおかげで賑やかな毎日だな)
心の中でそう呟くヒーアリックの唇に、自然と微かな苦笑が浮かんだ。
どれほど呆れてため息をつこうとも、この呆れ返るほど自由で騒がしい仲間たちのことを、決して嫌いとも嫌ともなれない。
しいていうのであれば、自分の胃が悲鳴を上げるようなことはしないでほしいというのが愚痴といったところだろうか。
「ヒーアリック殿、早くしないと置いて行きますよ」
後ろを振り返ったフローリアが声をかけた。
気付けば、フェリスもフローリアも、ヒーアリックから少し遠く離れたところを歩いていたらしい。
ヒーアリックは、これからも痛むであろう胃を案じ、もう一度大きな溜め息を吐き出して、先を達む2人の背中を追いかけた。




