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七章 先駆者の境地

 

 運動会が終わって特殊空間から戻ったあとも、普段クールな夜月や最初運動会を嫌がっていた磋欄まで笑っていた。みんなの高揚感に満ちた温かな居間が家族団欒を一層和ませた。大立ち回りが腰に来たのか座り込んだ父は微動だにしなかったが、そんな父もどこか愉しげで、満足げで──。

 佐崎文也の精神力回復をあの空間でできなかったか。

 みんなの前でそう質問することを音羅は控えた。

 父独自の特殊な空間で、その性質や往来は他言無用ということもあって切り出しにくかったのはある。みんなの空気を壊しても彼が戻ってくるわけではないので、音羅は時を待った。順次お風呂に入って、夕食を終えて、就寝時刻が迫った。一人、また一人、自室に戻って、居間で父と二人きりになると、音羅は口を切った。

「今日、すごく愉しかったね」

「単刀直入にどうぞ」

 何を訊かれるか父は判っているふうだ。

 納月や子欄が当時いろいろと調べてくれていた先天性エーテルリカバリ不良。その難病を患っていた文也を助けたかった音羅は、彼の命が落ちるさまを目の当りにして、絶望感に打ち拉がれた。当時、意図して悪態をついていた父に失望し、怒りをいだき、それでも縋って、父が姿を消してからしばらく立ち上がることもできず、後に父の意図を聞き、さらに時が経って真意を知るに至った。心底音羅達を愛しているから憎まれることを父は選んだのだ。苦しかっただろうその選択に音羅は納得している。真意を疑うつもりもない。が、こうは尋ねなければならなかった。

「やっぱり、パパは救いの手立てを持っていたのかな。って……思ってしまったんだ」

 質問というよりは独白だった。

 あの空間では魔法が使い放題だった。使った精神力が還流されていたからだと説明された。それなら、尽きそうな精神力も還流させることができたのではないか。つまり、父なら彼を救えた。音羅はそう思ったのである。

 生まれつき精神力の回復能力が低く、首を絞められるようなひどい息切れや倦怠感、疲労感などが日常的に襲ってくる難病。寛解方法がないわけではなかったが途方もない財力が必要だった。父の特殊空間ならお金が掛からない。苦しんでいた文也を救うことは本当にできなかったのか──。父の話を信じたから、また、責めたいわけではないから、言い方が回り諄くなってしまった。

「ごめんね」

 と、父が一言。燃えた木炭が零れて積もった灰は、一日を掛けて美しい灰模様を埋もれさせている。埋もれた灰模様と積もった灰を灰ならしで平たくした父が、次にぽつりと応えた。

「俺はあの子を救えんかった。それが全てやよ」

「救わなかった、じゃ、ないんだね」

「ん」

「……」

 結論が出たこと。変えられない過去だとも音羅は理解している。意図を話し、真意も悟られたから、父としてはそれ以上の話をするつもりがなかったのかも知れない。が、音羅達は父の意図や真意に納得しながらも、父の言訳を聞いていない。

 ……悔しくなかったのかな。パパは。

 音羅は、周囲のひとから感じた疎外感や嫌悪感に反論や言訳をしたい気持が少なからず湧いた。あなた達の意見が間違っている、と、あなた達は何も解っていない、と、否定的な言葉を放つことだって考えた。でも、自分らしくないと吞み込んだ。そんな自分では認めてもらえないと思ったからだ。だから自分らしい自分を磨くことで受け入れてもらおうと考えることができたし、挫けそうでもなんとか踏ん張って苦しい現実に立ち向かうことができた。そうして全員とはゆかないまでも認めてくれるひとがたくさんでき、対立していたひと達とも笑い合えるまでになった。知人との対立ですら歯を食いしばらなければ堪えられないほどつらかった。血の繫がったひと、娘からの本気の憎悪に、父はどんな気持で向き合っていたのか。意図の通りになってよかった、と、思っていたのだろうか。愛しているひとに罵倒されることになって、憎まれて、嫌われて、本気でそう思えたのだろうか。悟られなければ真意を欠片も語ることなく過ごしていたであろう父の信念を支えた覚悟はどこにあったのか、言訳でもいいから、音羅は零してほしかった。

 言訳をしたくなったことはないのか。反論したくなったことはないのか。それをしなかったのはなぜだ。しなくても我慢できたのは、堪えられたのは、なぜだ。音羅は、それを父から聞きたい。

「言訳してほしいんだ。わたし達のことをいろいろ考えてくれていたパパが、他人とはいえ同じくらいの子を軽く観ていたとは思えない。命を軽く観ていたとは、もっと思えない。だから言訳してほしい。どうして救えなかったのか。難病だったから。治療しても耐えられなかったから。そんな簡単な経緯だったのか……いまさらだけれど、疑わせてほしい」

 父が言訳しないのは潔さとは異なるように、音羅は感じているのだ。音羅がみんなに言訳をしなかったように、言いたくても言えなかった何かを吞み込んでいたのではないか。そう思ったのだ。

「迷いながらも、」

 と、父が灰ならしを置いて、肩肘張らず、それでいて重たげに答えた。「お前さんはお前さんらしいね。立派なもんやよ」

「……答えてくれる」

「長話にはならんよ。簡単な話やから」

 ぽつりと語られたのは音羅達が全く知らない父の側面、先天性エーテルリカバリ不良で苦しんでいた文也との関係だった。原稿用紙に書き起こしても数行で事足りるほど、短くも深い関係だった。

「お前さんに促されたからでもなく、これは言訳だ。……魔法的治療はしたが、駄目やった」

「……。文也さんに、会ったことがあったの」

「ああ」

 何十年も前のことなのに、音羅はその話を聞いたことがなかった。どうして言ってくれなかったの、と、つい訊いてしまいそうになった。真意を曲げれば娘を傷つける道しかなくなってしまう。父が真相を語らなかった理由はそれのみだ。

「あの頃、パパが出ていったあとにね、クムさんから言われたことがある。わたしは少し嫌だったんだけれど、パパと似ているっていう話をね」

「それはすまんかった」

「ううん、違う、嫌だったのはいっときだよ。パパは本当にいろんなところに目を向けて、考えて、動いてくれていたんだ。わたし達に憎まれながら、罵られながら、自分の正しいと思うことを貫いてきたんだ」

 音羅も同じだった。どんなに苦しくても自分を曲げず、貫いた。度合や場所は違っても、父と同じだ。「──嬉しいよ……いまさらまた、心底、似ていて嬉しい」

「そっか……」

 交差した脹ら脛の上で両手を合わせた父が、親指同士を触れ合わせて、いつもと変わらない無表情なのに、どこか、照れたふうだった。

「パパ」

「ん」

「今日、すごく愉しかったね」

「そりゃよかった」

「また一緒に遊ぼうよ。それか、特訓をつけてほしいな」

「お前さんのペースに俺の腰はついてけん」

「プウちゃんも一緒に特訓するからアドバイスをくれないかな」

「話を聞け」

「昔と違って付き合ってくれそうな気がしているんだ。わたしはもうパパより社会人だし」

「理由になっとらん」

「パパは決して自分勝手じゃない。わたしはそう知ることができたってこと」

「ほんと、立派になったね」

 父が額を押さえた。「仕方がない。魔団のこともあるから、時間ができたら、って、ことでよろしく」

「ユキちゃんとの運動の約束も果たすときが来たね」

「それは運動会で果たしたことにしてほしい」

「それもそうか。わたしとの約束は別口だよね。破ったら毒虫決定だよ」

「夜月の真似はよしなさい」

「ふふっ、よろしくね」

「はいよ。毒虫も住処から引っ張り出されるのは嫌やろうしな」

 相変らず素直でない言葉を連ねながらも応じてくれた父に、音羅は会釈した。

「ありがとう。じゃあ、今日はおやすみなさい!」

「元気やねぇ。ゆっくりおやすみ」

「うん!」

 

 

 音羅が立ち去ると、居間はオトと蜜柑山の面子のみとなった。食堂でお茶を飲みながら話を聞いていたララナとメリアは、オトの両脇に移った。オトの左手がララナ、右手がメリアの定位置だ。

「先のお話、私も初めて伺いました」

「佐崎文也さん。顛末は羅欄納さんから聞いていますが……」

「その話はもうお終いね」

 と、オトが締め括って、お茶を一口。

 オトが佐崎文也の死の事実を利用して音羅達の憎悪を煽ったことは事実だ。オトはそれを隠さなかった。これからも隠すつもりがなく、噓とも言わないだろう。ただ、音羅が感じ取ったように、オトに吞み込んだ感情があったことも確かだ。今でこそ素直に伝えられる感情でも、当時の罪を思うと容易に口に出せないこともあるだろう。

「では、話を換えましょう。運動会、特にチャンバラでの立ち回りを観察したところ、オト様には攻撃部隊として実力が十二分にあると判断致しました」

「たまには試験される側というのもいいね。気が引き締まったよ。葛神思さんとの戦いで実戦の感を少し取り戻した感はあったが、その感覚をさらに落とし込めた。ありがとさん」

 今回の運動会は、家族内陣容における攻撃部隊と防衛部隊のほとんどが混ぜこぜになって戦った恰好だ。そこには、全体の動きの試しや調整、意志疎通を円滑に行うためのまさしく訓練の側面があり、実戦から離れていたオトが経験を落とし込む目的があったようだ。

「訓練なんて二の次なんやけどね」

 とは、オトがはっきり言った。「単純に、俺がみんなと遊びたかっただけやし」

「そうなのですか」

 と、メリアが首を傾げた。「納雪さんの恐怖心を拭う目的ですよね」

「そうやよ。メリアは。愉しめた」

「あそこはなんとなく心地よくて、少し気が緩んで……、競技に集中しきれていたとはいえませんが」

 特殊空間。あれは、恐らくオトの魔力で満たされた〈星の海(ほし  うみ)〉だ。最初に訪れたとき、ララナもメリアと同じような心地がした。実戦経験の少ない娘はそうとは限らないが、オトとの戦いは安全そのもので緊迫感がなく、ララナもメリアと同じようにリラックスしていた。

「魔団対策の戦闘としては、いささか気が抜けておりました」

「羅欄納には物足りんもんになってまったかな」

「子達の前で本気で戦うことは避けたく存じます」

「メリアは」

「ほかの魔力まで感覚的に混ぜて操ってしまうことが多くて、双剣萼ほど大きなものを星の魔力のみで扱えるかは怪しいです。その点では物足りないので、もっと練習したいです」

 本気で傷つけるなら、ララナは〈融断光(ゆうだんこう)〉を使う。当たったもの全てを魔力に還元する魔法の光で障壁も無意味だ。メリアなら〈双剣萼(そうけんがく)〉を使うだろう。こちらは最悪の場合、星をも滅ぼす。ララナとメリアが運動会で本気を出すことはあり得なかった。

 しかし、驕ったふうもなくオトが言うのである。

「見縊られとるのかも知れんな」

「お気に障りましたか」

「いや。融断光に関しては娘や分祀精霊の障壁も融解させてまうことを懸念したんやろうと思うが、双剣萼に関してはなんでもかんでも破壊できるわけじゃないから、使うことを躊躇った理由を聞きたいね」

 オトの催促にメリアが答えた。

「星を滅ぼすような危険な魔法を子ども達に見せるべきではないように思えて……」

「配慮か」

「はい。間違っていましたか」

「それが正しいと思ったなら自信を持ちぃ。使わんで済むならそのほうがいい魔法やしな」

 ちなみに、融断光や双剣萼などは一般的な戦闘訓練で使うような魔法でもない。理由は単純明快、死人が出るからである。仮に魔団が巨大な要塞を構えていていかに強力な傀儡を用いようと、魔力に還元できるものか星より小さなものであれば、融断光と双剣萼を使って打ち崩せないものではない。

「邪心とともに魔力が飛躍的に高まる負媒(ふばい)。これを使わんならメリアが昔みたいに星ひとつをまるまる滅ぼすことなんてできんとは思うけどね」

「お蔭さまで呪いは解けましたが、わたしが悪神であることや緋色童子(ひしょくどうじ)であることは変わりません」

 悪神が持つ能力向上の術たる負媒は変らず機能する。緋色童子の能力で暴走することもあり得る。双剣萼によって破滅を引き起こすポテンシャルがメリアには依然としてあるのだ。

「狂気改め、そう、表では〈欲求〉とでも言おうか、理性を取っ払った行動はメリアらしさとして残っとるね」

「恥ずかしいのであまり突っ込まないでくださいね」

「羅欄納にまで迫ってくのは観とって愉しいけどね」

「音さんはもう少し羅欄納さんを独占する気持を持ったほうがいいです、それではいつか誰かに盗られちゃいますよ」

「羅欄納がそれでいいならいいよ。二人が仲良さそうにしとるのも好きやから、独占するのはもったいない気もする」

「ああんっ!どうしてそう寛容なのですっ」

「ほらまた暴走しそう」

「っと、ごめんなさい、つい……」

「まあでも、していいよ、俺や羅欄納でよければ受け止めるし」

「あ、あとで是非お願いします」

 曰く欲求充足。照れ笑いで治まったそれは〈狂気〉と称せられていたとは思えないほど可愛いものになっている。

「とはいえ、欲求は自分でも煽れます。暴走状態に陥ったら連鎖的に負媒も発動して魔力と身体能力が高まります」

「星の魔力による魔力探知で異常な精神力消耗を強いられる。それがメリアに掛けられた呪いの正体。それと一緒くたにして欲求が治まると考えたのは楽観的やったね」

 欲求と狂気は紙一重。いっそ何も変らず、メリアの中にそれはある。

 端的にいえば、ここのところのメリアの暴走はオトやララナを()()として求めることで治まっている。理性を取っ払って大胆になることで欲求を満たすのである。が、別の状況、例えば戦闘で欲求充足を求めた場合、メリアはまさしく〈狂気〉を振り翳すだろう。

「欲求に忠実なメリアの強大な魔力で星の魔力以外を混ぜた双剣萼を放とうものならあっという間に精神力が枯渇する」

 星の魔力のみを用いた純粋な星の魔法なら、原始魔法となり精神力消耗が発生しない。対してわずかでも二〇属性に分類される知得性魔力を用いると摂理によって精神力消耗が発生してしまう。

「メリアは紙耐久。精神力が枯渇したら肉体の基盤になっとる依代が耐えられず魂がすぐに羅欄納の体に強制送還される。とは、最初に伝えた通りやね」

「もしもですが、そうなった場合、欲求や負媒の影響が羅欄納さんにも及ぶのでしょうか」

 負の感情が高まった状態でララナの体に収まったメリアの魂が、ララナの精神状態に悪影響を及ぼし、いつかのように暴走へ導いてしまうのではないか。メリアの懸念はそこである。

「安心していいよ。強制送還時に状態がリセットされるよう仕込んである。そもそも、メリアが欲求暴走で魔法を放とうとしても精神力が枯渇して魔法が不発する可能性が高い」

「要するに、訓練のように魔法を使うのは難しいのですね」

「星の魔法の純度が上がるまでは守られとりなさい」

 と、オトが湯吞を仰いだ。「安心しぃ。俺と羅欄納が万一にもお前さんが戦う状況を回避するからね」

「音さん……」

 戦神であれば、戦闘に重きを置き、それを愉しむことができる。メリアはそうではない。狂気にも傾く欲求によって戦闘の中で充足感を覚えることがあっても、戦闘が目的ではなくそれを愉しむわけでもない。

 元来穏やかな性格のメリアが望んでいるのはララナやオトと同じ。守りたいものも同じだ。平穏な日常。これを、オト率いる攻撃部隊とララナが要の防衛部隊で守る。

「防衛にも関わることでオト様にお伺いしたかったのですが、」

「結師の力のことかな」

 そう。リラックスしていたとはいっても真剣に取り組んでいたのでチャンバラの最中に説明を求めることはしなかった。

「イノチが手を滑り落ちるようになったのは、結師さんが仕掛けた原始魔法でしょうか」

 フラフダンスに紛れてほとんどの娘がイノチを落とした原因でもあるだろう。動きの素早い結師なら綿毛に紛れて移動し、何かしらの原始魔法を仕掛けることも容易だったはずだ。

「あとでみんなに共有してくれていいが、種明しやな。結師」

「はい、は〜い」

 蜜柑山からオトの右肩に跳び載った結師が櫛を構えて、「正しき髪結、正しき業、あなたの結師、惹かれてただいま訪れ──」

「もうおったやん」

「せめて最後までいわせてくれてもっ」

「はよ説明せぇ」

「ノリが悪いわねぇ」

 オトの髪に櫛を当てるも腰を抓まれて梳くことが今日もできなかった結師である。諦めてオトの掌からララナとメリアに説明する。

「あれは風を使ったのよぉ。イノチを両手で持っていられたりすると割り込ませるのが難しいんだけど、掌とイノチにある程度隙間がある相手なら風を流し込んで落下させられるわけ」

「ですが、風の魔力は感じませんでしたよ」

 と、メリアが振り返った。「見えない洗剤でも塗られたかのように滑りましたから、少し納得がいきません」

「神は神でもわたし達とあなた達とでは少し違う。原始魔法の概念を知ってても知得性魔法に寄ってるあなた達は悪い癖が抜けないわねぇ」

「と、いうことは風は原始魔法ですか」

「もう少し細かくいうと髪結いとしての能力の一端、自然との一体化よ」

「自然との一体化……」

「毛量の多い羅欄納やオシャレなくせにずぼらな納月なんかには毎日のようにやってることだけど判るかしらね」

 結師に目を向けられたが羅欄納は思い当たらない。

「毎日されていることで、戦闘に応用できるようなことがございましたか」

「薄情ねぇ」

「申し訳ございません」

 小さな体で研鑽した技術を駆使し、無駄に多い髪を毎日結い上げてくれる結師には感謝している。が、それゆえに結師の技術が戦闘に応用できることなどララナは想像もつかなかった。

「ほら、直毛にするにもふんわりさせるのにも必要なのよぉ」

 と、ヒントらしき言葉をくれる結師にも答えられず、ララナはメリアと目を交わして首を傾げた。

「この子達、女子力高そうな外見のくせしててんで駄目ね、そうか女子力高めな見た目はわたしのお蔭ね、はあ。音は解ってるわね」

「クチクラ、そう、キューティクルやっけ」

 結師が盛大に溜息をついた。

「答なら先出ししてあげたじゃない、風よ、風、あえて言い方を換えるならエアよ」

「そうそれね。思い出した、えあよね」

「横文字弱すぎでしょ……」

 癖毛組のララナ、最近そこに仲間入りした磋欄、それから寝癖のひどい納月は特に毎朝結師のお世話になっている。その際も髪梳きには風を使っているということのようだ。

「直毛にするにも風を使うのですか」

「櫛で風を梳いて髪に当てているの。そうすることで一日じゅうスタイルをキープできる」

「梳いた風を髪に当てる、とは……」

 聞いただけではいまいち理解できない話だ。

「観れば早いな」

「任せなさい」

 オトが灰ならしで掬った少量の灰を結師の前に降らせた。降り注ぐ灰を切るように結師が空中で櫛を振ると、それが起きた。

「いくつも線が……これは灰ですか」

「それぞれが流れていますね」

 ララナは灰の動きをしばし観察した。櫛の歯と同じ間隔、歯と同じ数の隙間を空けて、囲炉裏の木枠に沿って灰が円を描いている。灰の流れを観るからに風の流れは安定している。それを結師がやったことは明らかである。

 ……風を梳くというのは、こういうことですか。

 ララナは自分の髪を触れた。こうしてみても風を感じないがひどい癖毛が寝るときまでしっかり直毛を保っているのは、今まさに目にしている風の流れが型のようになって髪にぴったりくっついるのだ。

「改めて思いますが、魔力を感ぜさせない現象……信じがたい技術ですね」

「結師たる由縁よ。わたし以外にこんな器用な真似はできない。ついでに、もう解ったと思うけど、この風は特別なの。星の魔法だろうがなんだろうが躱せるわよ」

 メリアが高速で発生させたあの鋭い石柱を容易く躱していたのは、櫛で梳いた風で身を守っていたからということだ。ルールでイノチを持っている必要があったから勝敗がつきやすかったが、仮に結師が全身に風を纏っていたのだとしたら、攻撃を一つ当てるのも難しく、倒すことなど不可能に近いということだ。

「思えば、ドッジボールのときオト様の物理的カーブボールとは異なり左右に揺れるボールが飛んできたことが何度もございました。あれも結師さんが風を梳いていたからですか」

「解ってきたじゃない。さすが羅欄納ね」

「子達が何人も惑わされて印象に残ったものですから」

 結師が梳いた風は物の動きを自在に変える。防衛戦で魔団を翻弄できそうな力だから頭に入れておいて損はない。

「織師さんの布も有用でしたね。音の遮断・反射、防音・撥水に加えて背景に同化させて姿を消すことにまで利用できるとは考えておりませんでした」

「あれは見事でしたね」

 と、メリアも嘆息を漏らした。「実戦で足手纏いなわたしや力の弱い納雪さんなどが狙われたとき姿を隠したり、──」

 などと作戦会議が捗って、すっかり深夜に突入したところで、オトが立ち上がった。

「あ、オト様、そろそろお休みになりますか」

「いや、あと一つ、俺から伝えたいことがあってね」

 オトが向かったのは居間の南側に位置する三和土。そこには、いつの間にか設置されていた掲示板がある。

 これはオトの魔法で構築されたものでタブレット型端末のように機能し、指で触れると思い通りの字や絵を映し出す優れもの。映し出したものを細かく修正することもでき、一部を保護したり、保存したり、消したあとも再度映し出せる。外部通信できない仕組によりハッキングが不可能なので、竹神邸内でのみ安心・安全に情報を共有できる、だそうだ。

「玄関回りは村のひとも出入りするから飽くまで試験的な設置なんやけどね」

「夕食のあと、謐納ちゃんとこちらにいらっしゃりましたが──」

 ララナの察しに応じてオトが掲示板に指を置いた。説明の通りぱっと浮かび上がった絵や文字が示したのは、今朝納雪を連れ去ろうとした和装の女性の情報だ。

桜神(おうみ)(いたし)

 身長175cm前後──〕

 葛神思と同じように傀儡化の魔法が掛けられているが死者ではないようだ。

「謐納の見立てでは体温があった。ダゼダダの女性としては背が高いね」

「竹神家で一番高い音さんよりこの女性は高そうですね」

「ええ、こちらの女性はオト様より七センチメートル前後高いようです」

 文字の情報より目立つのは全身を描いた絵だ。その袖がララナは目に留まったが、表面的なことから話を進める。

「先程のオト様のお言葉が確かならダゼダダの出身者。サクラジュ柄の着物を着こなす高貴な女性ですね」

「傀儡化させられて、ひとを傷つけさせられるだなんて、かわいそうですね……」

「なんとしても解放せんとね」

 メリアとオトの意見にララナは同意である。居場所は不明であるから、攻め入ってくるときが解放のチャンスということになる。

「こちらは、女性の仮称ですか」

 ララナは掲示板の左上辺りを指差した。絵による外見的情報や文字による細かな分析が埋め尽くしているので、掲示板で最初に目にすべき部分が目立っていない。

 オトが首を横に振った。

「実際に彼女が名乗っとる名前やよ」

「と、いうことは、オト様の──」

「そう、顔見知り。葛神思さんと同じく八百万神社の巫女の家系。ちなみに甚は名跡やから、もとの名前があるな」

 オトが名前の横に括弧打ちをして、襲名前の名前を書き込む──。

 

 

「──桜神(おうみ)(ささぐ)というのかい」

 八重咲きの大きなサクラジュの下、桜神譱は魔法を操る手を止めた。足下から伸びていた魔法の草花の生長が止まって、次第に消えた。

「おおみわ様……。わらわに何かご用ですか」

「おめでとう、と、伝えたくてね」

 八百万神社の全てを束ねる存在、大神(おおみわ)凰慈(おうじ)が気さくに隣り合った。代代病弱に生まれやすいという大神凰慈。当代も同じだそうで、桜神譱が訪ねた本日も病床についていた。

「お体に障られましょう。床にお戻りください。わらわのことなど気に留めず」

「卑下するものじゃないよ」

「……左様なつもりはありません」

「それは失敬。何をしていたのか訊いても」

 気さくだ。母とともに訪ねたときは上体を起こすのもつらそうだった。あれは大神凰慈の仮病だったのだと桜神譱は判断して応じた。

「頂点にお立ちのあなた様が偽言を弄したこと感心しません。与太郎は与太郎、気高き桜神の血を持つわらわに気安く寄るは不遜なり」

 現在桜神甚を名乗っている桜神譱の母もそれ以外の者も大神凰慈に説教を垂れない。長い歴史と重い責任を背負った敬うべき相手だからだ。また、下の者の生き死にを一言で決することが可能であるから、皆、畏怖もしている。桜神譱は、死を恐れてはいたが巫女の一末裔としては大神凰慈に恐れを持っておらず、じつは、敬ってもいなかった。敬っていない相手になぜ首を垂れなければならないのか、と、本気で思うから、こうして一対一で話す機会が訪れたからには不敬や不遜を恐れず、罰せられることを覚悟して口を開いたのである。

 ところが、大神凰慈の反応は、

「はははっ」

 と、にこやかで穏当であった。「今のわたしはオシエドリだ」

「オシエドリ……」

「そう。解りやすくいえば大川(おおかわ)教子(きょうこ)だ。噓をついても構わない一般人だよ」

「詭弁を」

 桜神譱は大神凰慈を見つめて言い放つ。「噓を重ねる醜態に堪えかねます」

「まあ待ってくれ、次代桜神甚の話を聞きたい」

「……」

 下の者の人生を一言で決められる大神凰慈。近くその口から発せられるであろう一つの言葉を、桜神譱は、絶対に拒絶したい。だから、罰せられることを覚悟した態度を執ったというのに一般人たる大川教子を騙る大神凰慈には無意味だった。不敬を重ねて歩き去ればさすがに罰せられるだろうと考えた桜神譱の脚を、大川教子は肩を摑むでもなく止める。

「桜神の者は代代短命だ。その責務から逃れようと人生を謳歌することはできない」

「……」

 桜神譱は大神凰慈から目を背け、凝視すれば凹凸ばかりが目につく地面を見つめて、やがて瞼を落とした。

 サクラジュの寿命のように四〇年も生きれば長命。桜神の血の者は誰もが短命だった。桜神譱はその三分の一を過ごした。余命二五年もあれば長く、短くなる可能性のほうが高い。

 だからなんだ。自由を求めて何が悪い。生まれで責務を背負わされ、終焉まで決せられて、納得する者がおかしい。桜神譱はそう考えているから、責務だとか、責任だとか、襲名などというものは一切受け入れたくない。鶴の一声があろうと、

 ……わらわは、何からも逃げ遂せよう。

「どうせなら、責務を全うしたほうがいいとは思わないか」

「巫女の血の重みを知らない只人に説教される筋合はなし」

「与太郎同士、仲良くしようじゃないか」

「……決めつけです」

「だったら眼を視て言ってくれないか」

「……」

「本音なら、自由を求めて叫んだときのように眼を視て言えたはずだ」

 大川教子がサクラジュを見上げて笑った。「ひとを気にせず、もっと叫べばいいんだよ」

「──」

「自由を求めることは悪いことじゃない。誰だって最初から前向きに責務を受け入れてきたわけじゃない。わたしがそうだったし、みんなもそう。自由を求めている」

 それは、大神凰慈としての言葉なら意外なものだ。大川教子。一般人を騙ったから開き直って噓をつき続けているのだろうか。

 戯言に付き合うつもりはない。けれども、そこに確かに存るのに花弁が撫でるたび消え入りそうな背中を、桜神譱は見つめてしまった。虚像かも知れない。なのに、目を引かれた。

「あなたには才能がある。それ以上に、ひととして迷う心がある。心のないひとにひとを守ることはできないし、わたしは心のないひとと心満つる木を見上げたくはない」

 満開のサクラジュは細かな影を散らせて陽光に舞う。瞬きするたび心が晴れる。息をするたび春が薫る。

「責務は二の次でいい。どうか、この時をともにしたわたしを忘れないでいてほしい。それでどうか、わたしの子孫まであなたが見守ってほしい」

「……」

 短命。その事実と責務を突きつけてきた与太郎の言葉に絆されてなるものか。自由を謳歌するのだ。血の重みから逃れるのだ。桜神譱は、体に纏わりつく春を振り払って駆け出した。

 

 それから間もなくして、桜神譱は思わぬ事実を知らされることとなった。母の私室に呼ばれて、静寂の中で告げられたのである。

「先頃、文が届いた。おおみわ様が、お亡くなりになった、と。──」

 その事実は、火山が爆発したかのように桜神譱の胸を貫き熱し、焦がした。母が何か続きを話していたが耳に入ってこなかった。

 ……馬鹿な。あれほど、与太を吐いておったではないか。

 仮病だったはずだ。仮病でなければ、サクラジュの下で会話などできるはずが──。

「──。ささぐ。ささぐ、聞いておるか」

「っ……、は、はい」

「そちは、どうだ」

「な、何がでしょう。申し訳ありません、話が、全く、耳に入らず……」

「急なことゆえ致し方あるまい……。では今一度。そちは、おおみわ様がサクラジュへ行かれるのを見なんだか」

「っ、何故、斯様な問を」

「おおみわ様が、サクラジュの下で伏せておられたというのだ」

「──」

「侍従方がお支えしたときには既に……。ゆえにお亡くなりになった時刻も定かでなく──」

 ……──。

 再び、桜神譱は母の言葉が耳に入らなくなってしまった。

 ……ああ、まさかあのとき、わらわと話したあとには──。

「ささぐ。ささぐ、どうしたのだ、ささぐ!」

「っ……あっ……」

 突然に息ができなくなって、桜神譱は母の前で倒れてしまった。首を絞められたかのようだった。苦しかった。それなのに、最後に聞いた一般人を騙る言葉が木霊して、血の中を巡って体じゅうに行き渡るような感がした。

 ……ああ、わらわなどに、選りに選って、わらわなどに──。

 短い命を燃やし尽くした先祖を全否定するように責務からも血の重みからも逃げたがっていた桜神譱に、大神凰慈は、死力を尽くして言葉を発したのだ。

 そうと理解した瞬間、桜神譱はこれまでで最も逃げ出したくなった。体が重くて、心が痛くて、心底、恐ろしかった。無責任な自分が担えるはずがない期待を懸けられたのだ。亡くなる間際のひとから心を向けられることがこれほど圧力のあることだとは、思いもしなかった。

 ……命を、削ってまで、わらわなどに──。

 そんなことをする価値があるわけがないのに。「桜神甚」を襲名することが決まっていただけの無責任な人間一人に、この国の頂点に立っていた人間がすべきことではなかったはずなのに。

 ……それが〈大神凰慈〉の責務か──。

 責務を知りもしない大衆のため、国を支えるため、命を賭して責務を全うしたというのか。

 ……無駄死にではないか!

 桜神譱は一層逃げ出したくなっているのだ。責務から一刻も早く逃げ出したくなったのだ。そんなふうに思ったのは、死の間際に期待を懸けるようなひとと面してしまっていたからだ。あんなことさえなければ遁走の選択を強固にしなかった。

 だというに。

 ……ああ──。

 ──責務は二の次でいい。

 ……──苦しいのに、あの景色が瞼の裏を離れない。

 本音をまっすぐに聞き入れてくれた穏当な瞳を、彼女の頰を撫でていた花弁を、ともに見上げた春の景色を、振り返ってしまう。そして、それらの時の流れを経て胸を押さえた自らに、桜神譱は情けなさと哀れみを覚えた。

 ……所詮短命と諦めておった。不憫で哀れなわらわをわらわが守らねば、と、心を閉じた。

 大神凰慈はそんな桜神譱の迷いを否定しなかった。それでいて、責務を全うする道を指し示していた。

 ……できない。できるはずがない。それなのに、おおみわ様は、わらわを否定しなかった(せなんだ)

 巫女としての生しかなく、桜神譱は世情を知らない。友人どころか知人もいない。責務を投げ出すために、巫女としての関係も築かないようにしてきた。桜神甚の後継として育てられてきたが、母からは自由を求める意思をことごとく否定されてきた。

 桜神譱は、孤独だった。

 ……わらわには、何もなかったというのに。

 大神凰慈が期待をくれた瞬間から、桜神譱は一つだけ手に入れていた。

 ……あなた様は、わらわに胤裔(いんえい)との時を遺してくださった。

 与太郎は与太郎だ。言葉の全てが真実ではなかった。が、背けた瞳にもまっすぐに向き合ってくれた言葉だから、今になっても胸を締めつけてきた。

 ……責務は二の次。しかし、死してなおわらわに与えてくださったあなた様には応えたい。

 彼女の子孫を見守りたい。そのためには、短命であるわけにはゆかない。短命を覆せば、彼女が否定しなかった自由を叶えられる日も来るだろう。

 

 

「──。そうして、桜神譱、現在の桜神甚さんは生命力を奪う魔法を編み出した」

 自分以外のモノから魔力や生命力を奪う魔法は負魔法といわれ、惑星アースにおける法のもとに犯罪である。なぜ罪に問われるかといえば多くが他者・他物から略奪する行為だからに相違ない。が、何事も例外はあるものだ。

「甚さんの負魔法の使い道は恩人の願いを叶えるため。生命力を奪う相手は重犯罪者。謂わば余剰の寿命をもらう形だ」

 嫌がる相手から奪うことはしておらず、死刑執行に負魔法を用いた。すなわち適法の裁き。

 

 

 魔法は実験を重ねて完成した。完成までに踠き苦しんだ受刑者が一〇を下らなかったことを元桜神譱こと現桜神甚は重く観ていたものの、負魔法が完成して執行時の苦痛を調整することができるようになってからは被験者をむやみに苦しめることはしなかった。ひとを殺めたような凶悪な罪人でも人間は人間。大きな苦痛を等しく与えるか、苦痛もなく命を奪い去るか、考えた桜神甚は後者を選び取った。最期は皆、あのサクラジュを仰ぐように穏やかに──、かつての自分が大神凰慈に救われたときのような心持で旅立ってほしいと願ってのことだった。

 桜神甚は命を落としたことがない。散り際に罪人がどんな気持をいだいていたかは知りようもない。痛みはなくても、迫る死に恐怖を覚えた者もいただろう。苦しみに満ちた生から解放されることの悦びを得た者もいただろう。故人の顔に同じ表情を観たことはない。

 罪人の命で繫いだ命でどこまで何ができようか。桜神甚は、常にそれを考えてきた。大神凰慈がくれたものを握り締めて、当代大神凰慈を見守ることは当然の責務とした上で、ほかに、自分にできることはないだろうか──。

 死刑に処せられる罪人がいなくなった場合、法に抵触することなく生を繫ぐ手段が失われるため、桜神甚には焦りもあった。進むグローバル化の潮流、あるいは、肉体損失強制の蛮行と見做して、死刑を廃止すべきとの考えも増えた昨今、死刑制度廃止の可能性は皆無ではない。同調圧力的及び人道的または感情的論理で対するなら被害者や被害者遺族の意見こそが優先されるべきであり蛮行に及んだ犯人を野放しにする理屈には成り得ないのだが、もし死刑制度が廃止されれば命を手放す道しかなくなることが桜神甚の大きな課題になっていた。願いは欲望に似ている。永遠にも叶えたく、果てなく求めてしまう。求めてしまっている。

 後進を繫ぐにも、短命を見越して生を繫ぐ魔法を継承することと同時に、「余剰の寿命」の奪い合いを避ける必要に迫られた。桜神甚は潔癖で、多くの子を作らず、幸いにも奪い合いを避けることができた。自身の命を繫ぐことよりも後進の命を繫ぐことに桜神甚自身が気持の変遷を感じていたことも大きかった。子が、その精神を受け継いでくれたことも大きな幸いだ。その精神は孫にも観られた。幸いが、幸いを呼び込んでいた。きっと、これからもずっと、桜神家はひとの命を奪い合うことをせず、適宜の寿命延長を成しつつ責務を全うしてゆける。桜神甚ができないことを、後進が繫いでゆいてくれる。

 ……オシエドリは、わらわの気質が受け継がれゆくことを察しておったのだろう。

 そんなことを思って、桜神甚は筆を擱いた(お  )。日記は、後進に伝えることもない心持だ。が、自分達が受け継いできた大切なことを後世に遺してくれるなら、読んでくれても構わないと思っている。そのくらいには、桜神甚も後進を想っている。

 ……今ならば、オシエドリの気も真に理解できよう。

 大切にしてきたものが守られてゆくことを確信しているから、たとい、この場で命が尽き果てても後進のために言葉を尽くすことができる。

 ……わらわも、もうじき、あの春を迎えよう。

 瞼を閉づ。感ずるはオシエドリに背を向けた春。

 ……あの頃に戻れるなら、顔を合わせ、同じように仰ぎたい。

 オシエドリはとうに亡くとも子孫が生きている。果たせない願いも流れた時の果てで叶う。ただただ、未来を想う自分であれば。

 

 

 そう思っていた桜神甚が唐突に意思と真逆に動いたのは数日後、三〇七五年七月一〇日のことだ、と、オトが語った。その出来事への理解を深めるには神界フリアーテノアでのその前に起きた出来事を添える必要がある、とも。

 それが何かオトに問われて、ララナは察しがついた。

「桜神甚さんが魔団から傀儡化の魔法を受けたことは明白です。ならば、きっかけとなる出来事は、葛神思さんの撃退、ですね」

「その通り」

 六月二七日に葛神思が撃退された。その約半月後、オトと関わりのある者の一人として白羽の矢が立ったのが、葛神思と同じく古くから巫女の家系としてダゼダダを裏で支えていた桜神家当主桜神甚であった。

「七月一〇日……、つまり昨日操られた桜神甚さんはその足で今朝、納雪ちゃんを襲ったということになりますね」

 そこで疑問符が浮かぶのは当然のことだろう。メリアがオトに問いかける。

「音さんはなぜそれをご存じなのですか。惑星アースでの出来事を調べる時間はなかったように思うのですが」

「調査方法なんて情報が集まりさえすればどうでもいいと思うけどね」

 と、オトがはぐらかしたふうで、きちんと答え始めた。「傀儡化しとっても甚さんが魔法を使ってくれたからね。その魔力から経緯を分析した」

「魔力から、経緯を分析ですか。そんなことが──」

 できるわけがない。そう言いかけて、メリアがはっとしたのは、オトが、カナメダマとの情報のやり取りに魔力を用いていると聞いていたからである。

 ララナはその点を拾ってメリアの話を継ぐ。

「オト様はカナメダマさんの魔力のみならず、ほかのひとびとの魔力からも情報を摑むことができるということですね」

「カナメダマと違って互いに見知った間柄じゃないから、()で情報を補完しとるけど」

 あらゆるモノの過去や知識を有する記憶の砂漠を探ることで、桜神甚の人知れぬ過去を探り当て、感情や状況を察せられる程度の魔力的情報をオトは収集していた。桜神甚が使った魔法に使われた個体魔力と収集した過去の桜神甚の魔力的情報を擦り合わせることで傀儡化前後の状況を察することができたのである。

「一〇〇%正しいとは言わんが概ね間違いないよ」

「では、意思に反した行動も、実際にさせられたのですね」

 ララナがそれを確信したのは、謐納が観察してオトが絵に反映したという桜神甚の袖、そこに淡い桜色を潰す血痕があった──。

 葛神思が撃退された約半月後に桜神甚が操られた理由。それは、そのタイミングが最も残酷だった。三〇七五年七月一〇日に、桜神甚は大神凰慈と会う予定があったのである。して、予定通り、桜神甚は大神凰慈と再会した。

 古くから国を守ってきた誇りと仲間意識のみならず、二者には家族にも似た信頼関係があった。

 

 

 五〇年ほど前の竹神音の処遇に関して反りが合わない部分があったことも否めない。が、それ一つで崩れ去るほど浅い親交ではない。先走ったことを最終的に不問とした大神凰慈を孫のように幼く思うが、オシエドリのような先見を有していることでもって敬う気持が優り膝をつくことに桜神甚は躊躇いがなかった。

「花の季節は去りましたが、緑深まるサクラジュもいいものですね。一緒に仰ぎましょう」

 と、手招きしてくれた大神凰慈の笑顔にオシエドリのような優しさを覚えて、桜神甚は、

「悦んで」

 と、応じた。心から、この日を待ち望んでいた。当代の大神凰慈とは勿論、先代の大神凰慈や先先代の大神凰慈とも、何度も、何度も、この日を迎えてきた。そのたびにあの日の春を取り戻せたような気がして、悦びに打ち震えた。オシエドリと仰げなかった春を子孫と仰ぐことができた、と。そして今日もそれができることに心から悦べる。

 そう思っていた──。

「っ──、甚さん……」

 ……体が、勝手に──!

 これまでのように春を仰げる。同じような悦びを共有できる。信頼の背は、無防備だった。桜神甚がその手に握った刃物が、容易く突き刺さって、抜き取られ、着物の隙間から噴き出すほどの鮮血が流れた。

 ……わらわは、何をしておる。これは、なんだ、いったい、何が起きて──!

 目の前で倒れた大神凰慈の自分を仰ぐ瞳に、桜神甚は、あの日の春の、裏側を覗いた気がした。

 ……ああ──!おおみわ様……おおみわ様は……わらわを、わらわのことを──!

 

 

 サクラジュのもとで亡くなっていたかつての大神凰慈を彷彿とする当代の瞳を視て、

「甚さんは呪われた」

「呪われた、とは」

「責務から逃げた自分を大神凰慈は呪って死んでいった。甚さんはそう思ってまったんよ」

 オトの表現にメリアがぽつりと添える。

「自縄自縛の呪い。わたしのように」

 倒れた当代の大神凰慈。その身を傷つけたことを認識して、桜神甚は自分を変えてくれたオシエドリたる大神凰慈への申し訳なさを歪んだ形で想起し、それが意識から離れなくなってしまったということだ。

「メリアも言うように、飽くまで甚さんの見方による思い込み、自己暗示ともいえるね。そう思われていなければおかしい。そう思い込まなければオシエドリを名乗った恩人から逃げた自分を許せんから、実際はそうじゃないと理解しとっても自己暗示を解くわけにはいかん」

 自己暗示はつい先日発生したのではないだろう。桜神甚は、桜神甚となることを決めたその日からずっと暗示を掛けてきたのだ。弱さを受け入れ子孫との時間を望んでくれた大神凰慈から逃げ出した愚かな自分を罰する気持が強くあったから、余剰の寿命による延命を果たしてまで大神凰慈の子孫を見守り、また、自身の家系が継承してきた責務も全うすることができたのだ。して、傀儡化の魔法による凶行をより強い自己暗示のトリガとしてしまった。実際には視ることがなかったオシエドリの死を彷彿とする現実に直面し、自己暗示に拍車を掛けなければ自分の悪行を吞み込めなかったからだ。そんな桜神甚の気持や意思は、傀儡化の魔法を解かなければ無残に踏み躙られ続ける。

「傀儡化の魔法を解けたとしても、桜神甚さんの場合は心の問題が残りますね」

「そちらも攻撃部隊の俺ができる限り解消するつもりやから羅欄納達は防衛と迎撃に集中してくれればいいよ」

 過去を知るオトなら桜神甚の心を癒やせるだろう。

「しかし魔団の謎が増すばかりですね……」

 と、メリアが顎に手を当て考えた。「音さんのように記憶の砂漠もないのに桜神甚さんと昔の大神凰慈さんとの出来事を知っている……」

 そうでなければ大神凰慈と会う日に桜神甚を操り、大神凰慈を傷つけさせて過去をなぞらせるようなことはしなかっただろう。

 ララナは魔団の思考が気になった。

「オト様と関わりのあるひとびとを徹底的に傷つけ誘き出すか隙を作ることが目的とは考えますが、桜神甚さんに対する行為としても残酷が過ぎます。魔団は桜神甚さん個人にも思うところがあるのでしょうか」

「個人というより、ダゼダダを守る人間に対して思うことがあるのかもね」

「オト様に対してもその点は同じということですね」

 魔団の中に、ダゼダダと深いゆかりがある人物がいる。情報が全く足りないので、人物を特定する段階にはない。

「一ついいですか」

 と、メリアがオトに質問する。「魔力からひとの辿った道を振り返ることができる音さんなら、傀儡化の魔法から、傀儡化を施した術者の意図を探れませんか」

「ちょっと遅かったがいい質問やよ」

 オトが話したのは、隠すような事実がなかったからだった。「傀儡化の魔法に関しては葛神思さんに続いて二回目だ。俺としては、一度感じ取れば十分に術者の意図や意識、あるいはその人生や価値観すら見通せるが、傀儡化の魔法の術者については全く見通せん」

 カナメダマのように気心を知れた間柄でなくても記憶の砂漠を用いれば情報を読み取れることは葛神思や桜神甚の件で判明している。傀儡化の魔法からのみ術者の情報を読み取れないのは不自然といえなくはないが、そこにはオトにも予期せぬ事態が潜んでいたのである。

「魔団の傀儡化の魔法は不知得性魔力の仮称ヨコシマを用いとることを含めて未知のものといえるが、情報を読み取られんように魔力を加工しとるとすれば俺の手のうちを知っとることが読み取れる。早い話、俺を超える技術を有する術者なのかも知れんということだ」

「左様なことが、──」

 あり得るのですか、と、ララナは訊けなかった。先のメリアと同じように察せられることがあって、次の言葉を発する意味がなかった。オトの魔法技術を超える者は確実に存在していたのだ。姿を現していないのでララナは固有名詞を知らないが、その人物がオトを結界に閉じ込めたことは記憶に鮮明だ。

「まさか、あの結界を張った犯人が魔団にいるのでしょうか」

「それも判らん。術者特定には至ってないもののあの結界からは感情を感じたし、微弱ながら炎、氷、雷の属性魔力を探知できた。それら属性魔力を持ち一貫して結界を鍛えたもんがおるならあのレベルに達したと考えられんくもない。傀儡化させるヨコシマを用いる術者が俺以外のもんに悟られる危険性を高めてまで襲ってくるとは一貫性のなさから考えにくく、少なくとも傀儡を寄越すようなある種の慎重さを持ち得た人格と結界術者が同一とも考えにくい。で、ヨコシマの術者とともに魔団に所属しとるかどうかがまず不明だ。接触できれば何か摑めることがあるかも知れんが難しいやろう」

 傀儡化魔法の術者と結界魔法の術者が別別に存在しているとしたら厄介だ。二人の術者が連携した場合、攻撃部隊のオトが一時的にでもその役割を果たせず防衛部隊に敵性分子が到達する危険性が生じ得る。無論、襲撃には徹底抗戦する考えでいるララナであるが、戦闘慣れしていない娘もいる中で隙がないとは決して言えない。まずは攻撃部隊のオトが敵性分子を撃退できる状態を堅持すべきなのである。

「そこでこれだ」

 と、オトがどこからか取り出した試験管立てを、ララナとメリアは受け取った。そこに並んでいるのは、試験管が閉じたような容器だ。聖水を入れるためにオトが作っている小瓶とよく似た感触であることが、触れると判った。二つの試験管立てに合計一二本、人数分ある。容器の中には虹色の何かが入っていて見映えがいいので、

「オブジェクトですか」

 と、メリアがつい尋ねてしまうのも理解できる。「あ、魔団か結界の術者の対策に使えるものなのですよね」

「傀儡化の魔法を解くための魔法薬やから、主に魔団対策やな」

「左様な魔法薬をいつお作りになったのですか」

 とは、ララナが尋ねた。「本日は運動会もあって大変でしたでしょう」

「葛神思さんの様子を観察して構想しとったもんを甚さんの襲来でより具体化して、運動会の最中に作っといた」

 その運動会で大変だったろうに、と、訊いたのだが、オトの魔法技術がこの家の誰よりも優れていることは特殊空間での数数の魔法でも証明されている。

「あえて『いつ』に答えるなら、お前さん達が俺達の次の動きを読んどるあいだとか俺が姿を見せてなかった時間は全てといえる。暇さえあれば手数を増やすよ」

 家族の警戒心や戦闘慣れを促すことが防衛のために必要と考えて動くと同時に、オトはより確実性の高い対策を打っていたのである。

「まあ、葛神思さんや甚さんに使われた傀儡化の魔法は同一のもの、と、示した上で、その魔法を解除することに重きを置いた魔法薬とも示しとく。異なる傀儡化の魔法に掛けられたひとをもとに戻すことはできんと思うから油断は禁物ね」

「それでも大きな一手ですね」

 鎮静魔法を使えない娘や戦闘能力が低下しているメリアが打てる対策が増えて、ただただ迎え打つよりも確実に有利である。罪のない桜神甚を傀儡化から解放する手段が襲われる側の皆の手に渡ることも大きな進歩だ。

「どのように使うのですか」

「容器を破壊すれば中身が拡散するようにできとる。かなり広範囲に散布できるようにしてあるから、傀儡が多少離れたところにおってもとりあえず割っとけばいい。ちなみに、そんなに脆くもないが、力の弱い子らでも地面にぶつけりゃ割れるくらいには脆いよ。ちなみに容器の破片は聖水の小瓶と同じように自然と消えるから放置しても問題ない」

「それなら後処理の心配もなく使用も簡単ですね」

 防衛部隊全員のうち、誰か一人でもこれを使えば桜神甚を解放できる。ほかに傀儡が存在しても纏めて解放できる可能性もあるのだから非常に有効な対策だ。

「俺も持っとるから、甚さんがお前さん達に到達することはないやろう」

 と、オトが言ってくれたが、念のための用意であるから娘に行き渡らせることを躊躇うべきではない。眠っている娘もいたので傀儡化対策の魔法薬にメモを添えて届けた。

 

 掲示板のことも伝えて情報共有し警戒するよう促した翌日の昼、早くも桜神甚の襲撃があった。日課である小瓶作りをしていたオトが突然消えて、数秒後には掲示板に描かれた絵のままの桜神甚を抱えて玄関を開けて居間に舞い戻った。袖の血痕が観られ、傀儡化が解けて気を失った桜神甚はどこか弱弱しかった。

「ちょっくら惑星アースに届けてくる。その間、防衛よろしくね」

 と、言ったオトが姿を消したので、ララナはメリアとともに警戒した。

 ……慎重な策士が絡んでいるなら今を狙い目と見做すでしょう。

 葛神思と桜神甚、竹神家と同じ巫女家系の二者を操り直接関与する動機を与えてここモカ村の竹神邸からオトを離れさせることを意図していたのだとしたら、惑星アースに誘き出すことに成功した今、オトの最大の弱点たる家族を集中攻撃せんと動き出すはずだ。

 ……左様な企みは、私が絶対に阻止します。

 オトが大切にするものを絶対に傷つけさせない。オトがようやく手に入れた安息を決して奪わせはしない。

 

 

 大神家当主大神凰慈が重傷を負った。そんな一報を聞けば方方で遽しい動きが生ずる。

 ……そんなことを、させるわけがないでしょう。

 傷は深かったが大神凰慈はすぐに治療を受けて大事に至らなかった。だからということでもなく、治療に当たった者や周辺にいた者には箝口を促し、事を荒立てなかった。短刀で刺してきた桜神甚の様子が何者かに操られたふうだったから、桜神甚の立場にも配慮した根回しであった。八百万神宮並びに八百万神社はダゼダダ警備国家の安寧に寄与し続け、決して混乱を招く存在であってはならない。これまでもそうであったし、これからもそうだ。ダゼダダを守る責務を永遠に担い、果たしてゆく。その決意と覚悟に泥を塗るような存在に絶対に屈しない。

 もう少し横になっていれば痛みも完全になくなりいつも通り仕事に邁進できる。そう考えた大神凰慈の寝床を、縁側から覗く影があった。

「元気そうでなりよりだ」

「音さん!それに甚さんまで──」

「動かんでいいよ。まだ痛むやろ」

「恐れ入ります」

 竹神音が現れたことで、大神凰慈は状況の重さを察した。「……油断していました。尻拭いをさせて申し訳ありません」

「テロのことも含めこちらが発端のことやからそちらに責任はないよ」

 竹神音が仮称魔団とその目的云云を端的に説明してくれたので、変に自責の念を抱えずに済んだが、横たえられた桜神甚の表情が気になった。

「甚さんは、自分を責めているようですね」

「傀儡は操られとるあいだの記憶も概ね残る。自分の意思じゃないとはいえ、お前さんの先祖との約束を破るような真似をしたんやから、つらくないはずがないね」

 その約束について大神凰慈は桜神甚本人から聞いたことがある。

「オシエドリは一〇〇年以上前の大神凰慈でした。そんなに古くから甚さんは仕えている。揺るがぬ信念と覚悟を一〇〇年以上ものあいだ持ち続けている。自責の念をいだくことは、止められません。しかし、私が寄り添い、癒やすことはできます」

「お前さんならそう言ってくれると思っとった。ここに来て正解やったよ」

 彼に期待されなくても大神凰慈はそうする。期待されたなら一層頑張るのみだ。

「私達巫女の家系の名に『神』の字が用いられている理由を、音さんはご存じですか」

「家が司るものを神と崇めることを示すため、やったか」

「ええ、それもそうですが、それだと違和感が残ります。『大』とは何を示すのか。大きなものを指すのだとしたら、私の家系はあまりに抽象的です」

「答は判っとるやろ」

「サクラジュの桜神、クズの葛神、ソラの空神、ツチの地神、タケの竹神、ダゼダダを象徴する草木とそれらを支える天地を包括する広い世界、それが私の家系が司る『大』の真意です」

「傷ついたサクラジュを、広い世界はどう癒やすんかな」

「……」

 寄り添うことしかできない。けれども、それでただちに癒えるなら、桜神甚は斯様に苦しみに満ちた表情で眠らない。

「……音さんはご自分の家に戻ってください。ここは、もうあなたの戻るべき世界ではないのでしょう」

「お言葉に甘えるよ」

 虹色の何かが入った容器を置いて、竹神音が外へ向かう。「甚さんのこと、任せたよ」

 縁側から跳んだ影は地面に降りる前に消え去った。

 サクラジュの幹を望む部屋。先日はここから桜神甚とともに外へ出て、緑をともに仰ぐ前に事件が起きた。

 虹色の容器に添えられたメモに、傀儡化解除の魔法薬であると書かれている。器用な彼でも何もかもをうまくやってのけるわけではないから、大神凰慈は却って気楽だ。多少失敗しても不完全な人間の一人として懸命になれればよいと思える。

 じきに目を覚ました桜神甚の手を引いて、大神凰慈はサクラジュを仰いだ。これで何度目か知れない観賞は約束の体現であり、言葉を交わすこともなく桜神甚の罪を許す。

 強い自己暗示を掛けるほどに自分を咎めている桜神甚にはそれのみで足りないことを大神凰慈は察しているから、きちんと口も開いた。

「責務など二の次でいい。あなたは約束に生きてくれる。私は、そう信じています」

 絶対の救いなどこの世にはないだろう。自己の不出来や不甲斐なさを許せない気持は、誰もが持ち得て誰もが癒やしきれない重いものだ。それがあるから強い意志が湧き上がり、覚悟もいだき、長い歴史や重い責務も担ってゆける。それこそが人間であるのだと信じたいから、大神凰慈はもう一つ桜神甚に告げた。

「私達の見守る世界の一部でいてください。世界を司る私が、あなたを求めます」

「おおみわ様──」

 膝をついて涙する桜神甚と、大神凰慈は緑を仰いだ。一息、二息、三息──、深まる緑にも過ぎ去りし春を覚える。

「ともに仰ぎましょう。たとえ私達が絶えても、永遠に、ともに」

 

 

 妻の姿勢に報いるためであろう。大黒柱たらんとする竹神音の姿は幼少期より立派だ。幼少期の彼を端的に表現するなら、従順だった。エント゠ウヴ゠エリーから観ればそれで事足りるほどに単純な性格をしていて、言葉真音本人は無自覚のようだった。

 傀儡となったエント゠ウヴ゠エリーは、竹神音のもとにやってくるなり傀儡化の魔法を解かれ、自身の魔法で破壊してしまった車椅子を竹神音に直してもらって森の中を進んでいる。自動操縦機能搭載の車椅子を竹神音が押してくれて、景色を愉しむ余裕がある。

「うむ。深くよい森には暇あらば訪れよう」

「操られた挙句宣うんやないよ、エント゠ウヴ゠エリーさん」

「傀儡化など小童の小細工である。操られた余の罪は魔法を施した者の罪であるから世界の法が余を裁くことはない」

「さすがというかなんというか」

「褒める時があるならレフュラルの帰途を辿ってもらえるか」

 レフュラル表大国堡塁圏にある王城で傀儡化された瞬間からエント゠ウヴ゠エリーは体の自由が利かなくなり、竹神音曰く神界の一角の森であるここへいつの間にか飛ばされていた。そのとき、この世を去ったはずのゾーティカ゠イルが隣にいて、間もなく竹神音が現れたからエント゠ウヴ゠エリーは察した。死者を利用するという禁忌を犯してまで竹神音に一矢報いたい者に操られた、と。同時に、竹神音が対処することを予想し、体の自由が利かないこともあって様子を伺うことにした。予想通り、竹神音に傀儡化を解かれて今に至っている。竹神音にも問われて答えたが、傀儡化の魔法の術者については不明だ。ここまでに傀儡化を施した者の気配を察知してはいない。

「老人との哀れみも受けよう。手練れとはおまえが一番理解している」

「まあね。メンドーな相手がおるもんやよ」

「巻添えを食うた余らに報いるつもりはあるか」

「無事に帰すことで許してもらえると助かる」

「王であった頃ならば政治的に貸し一つと数えようものであるな」

「一線を退いたあとまで損得勘定で動かんといてよ」

「巻き込まれたとは感じている」

「それは本当にすまんかった。が、あえていうなら敵性分子に文句を言うのが筋だ」

「愚痴を許せ、余らの仲である」

 公に親睦を訴えたことなど一度もない。レフュラル表大国国王としては竹神音と半ば敵対していた。比類なき魔法技術と魔力を有する兵器。そのように扱って竹神音を攻めるような行動を起こしたこともある。

「夢は潰えるものであるな。テラノアの……ゾーティカ゠イルは残念だったのである」

「後進がおる。照らそうとした道も照らされるよ。不満かね」

「論ずるまでもない」

 満足している。期せずして竹神音に会えたこともそうだ。「傀儡化の術者には感謝してやるとしよう。余はおまえと話したかったことがなくもない」

「回り諄いな」

「退こうとも長年の癖は抜けぬのである。それもまた許せ、余らの仲である」

「どんな仲だか」

 面識はずっと昔からある。竹神音がそれを示せば公の対立などなくなるくらいに深い仲だった。亡きゾーティカ゠イルともそうだ。エント゠ウヴ゠エリーは、竹神音が言葉真音だった頃に対立を確定的と見据えて、それでも言葉真音とは親睦を深めたく思っていた。

「余らは歴史の一部を現代と後世に伝える遺物である。中心にはおまえがいて、横にはゾーティカ゠イルがいた。時は熟し、余は遅ればせにもゾーティカ゠イルと酒を酌み交わそう」

「肺がやられたん」

「うむ」

「そっか……」

 幼い頃から発動している制約魔法の影響だ。強大な魔力を得る替りに肉体の一部機能が低下し、脚をずっと患っていた。傀儡化した際に制約魔法の影響が拡大したようで、以前より息苦しくなっており、長生きするには不便だ。

「哀れまれる末路も一興である」

「長生きも一興やよ」

「同意である」

 わざわざ死に向かうつもりもない。これまで照らしてこなかったものにようやく光を当てる気になっただけだ。

「死も一興とは老いゆき強く思えるようになった。あるいはおまえの思うところに近づいたとゆえる」

「その昔の俺になら近くなったのかもね」

「今は変わったか」

「死にたくない、と、思うようにはなったな」

 それはよいことだ。生への執着は意志を無限のものとする。どんなに打ちのめされたとしても、どんなに希望のない状況に置かれても、意志あらば立ち向かえる。

「あ、これを渡しとこう」

「先の魔法薬か」

「同じ術式の傀儡化を解除できるよ」

「抑止力であるな。効果などなくとも威力がある」

 傀儡化の魔法を掛けている術者からすれば、竹神音の目がついている者を見分ける目印だ。持主などに魔法薬を使われると困るのは勿論、傀儡化が成功しても竹神音に無力化される可能性を見通せる。エント゠ウヴ゠エリーなど被害者側からすれば庇護を意味する魔法薬であるから携帯して損はない。

「敵はいささか考えが足りぬのである。おまえを操れば全てが意のままである」

「そう思い込んどるからこそ操らんのかも知れん」

「締めに取っているか。先手を取らぬばかりに魔法薬による対策を許してしまったのである」

 失策以外の何物でもない。

「ほかに理由があるのかもね。例えば、操れん相手が存在するとか」

「読心の魔法を有効とするには術者の魔力が被術者の魔力を上回る必要があることはよく知られている。そのようなことか」

「そうやね、後天的なものならそういうのもあり得る」

 つまり、今回の傀儡化の魔法には先天的・基底的な欠陥あるいは想定外があったということだろう。術者も把握できていないそれを竹神音は既に見抜いている様子だ。

「まあ、これまでに使われた傀儡化についてのことで、革新的なものを使われたら話は別だ。注意は必要やよ」

「うむ。レフュラルへ戻る。転移を頼もう」

「お詫びついでに送ります。自由の謳歌してください」

「おまえもな」

 空間転移の光もなくレフュラル表大国の王城に戻ってきて惑星外生物に連れ去られていたかのような気分だ。エント゠ウヴ゠エリーがいなくなっていたことを城の者も把握していないだろう、静かな私室である。ベッドに飛び乗ると、余生に水を注す世の脅威に思考を傾ける。

 ……元国王に手を伸ばす輩はまだしも、死者をいたぶる輩だ。

 意志までは復活できない不完全な形のようだが死者を復活させて操ることに躊躇いのない悪辣な輩がこの世のどこかに存在する。目的のために手段を選ばないのはエント゠ウヴ゠エリーや亡きゾーティカ゠イルも同じであったが、どう捉えても自国民のためにならない、と、いう行いをしたことはない。

 竹神音を狙う輩は、行動基準に他者への配慮がない。あえていえば、エント゠ウヴ゠エリーなどが基準とした己や国のルールとは理念が異なるのだろう。飽くまで国という容れ物の中での話にはなるが、理念が異なれば民度が変わり生活が変わる。民度の異なる者が交わると衝突することは必至だ。特にレフュラルとテラノアが衝突してきた背景に理念の違いがあったとは余談であるが、これを一個人のものにまで細分化するとより多くの衝突が起こる。

 ……国王(フェルェール)を始め各国が伏せているが、先の世界同時テロも同じ輩の仕業である。

 竹神音の関わったものに準えていることが論拠と成り得る。無論、竹神音に羨望を向け、果てに嫉妬した者は数知れない。そのうちテロを起こすほど堕ちた者はそういないと考えられるものの個人特定は難しい。結局、エント゠ウヴ゠エリーには関わりのないことだ。

 ……戦なき世の若き首長が履き違えるは致し方なきことである。

 責任はたった一点に集中している。

 ……これはおまえが成すべきことである。竹神音。

 敵性分子たる輩を自ら処理することを竹神音が自ら語り、魔法薬も明示しているのだから、旧知の仲とて手を出すのは野暮である。

 

 

 

──七章 終──

 

 

 

 

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