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三軸思考 ものはどう決めればよいのか



物事を決めるのに会議で右往左往してしまうことはないでしょうか




 三枝剛志は、金曜日の夕方、役員フロアの片隅にある応接スペースで、冷めかけたコーヒーに目をやっていた。オフィスビルの窓越しに見える都心の街並みは、夕焼けに染まりはじめていたが、彼の目にはもう何度目かの同じ風景にしか映らない。



 日々、経営会議、戦略会議、部門長ミーティング、そして社長からの個別打診――それらの渦中で、判断と調整の連続にさらされる生活は、まるで「思考の筋トレ」だと誰かが言っていた。その通りだ、と三枝は思う。だが、もはや限界に近い筋肉のように、判断力そのものが軋みを上げはじめていた。



 社長の今井からは、月曜の会議で重大案件の判断を求められている。内容はまだ伏せられているが、「少なくとも一つは買収関係だ」とだけ告げられた。それだけで胃のあたりに、かすかな鈍痛が走る。



 「あのときは、迷いがなかったのに……」



 独り言のように、三枝はかつての出来事を思い出した。



 それは数年前、まだ彼が製造部長だった頃だ。



 当時、社内の会議が冗長で生産性が低いという声が現場から相次いで上がっていた。全社的な改革ムードも高まっており、「ファシリテーション力の底上げ」が必要だという話になった。何社か外部講師の候補が挙がった中で、三枝が即断したのは、元社員の大林が講師を務めている研修会社だった。



 大林は在籍時代、組織開発の専門家として社内でも一目置かれていた人物だ。現在はグループ企業や外部の研修講師として実績を積んでいた。



 三枝はそのとき、直感的に考えた。



 リスクはゼロに等しい――相手は社内を知り尽くした元社員であり、外部との摩擦もない。小規模な彼の会社にとって内は大手の重要顧客。こちらに不利益なことをすると自分の首がしまる。何かあっても全面的に協力してくれるはず。


 メリットは明白――大林が講師なら、内容も期待でき、参加者への浸透も早い。何より「誰もが知っている顔」が信頼感を生む。社員全員参加も可能だから、新しいやり方がいきわたるのも早い。


 コストも低い――他の研修会社が一回60万円前後だったのに対し、大林の会社は30万円で対応可能だという。



 ――即決だった。結果は上々。導入後の会議は引き締まり、現場の声も目に見えて好転した。



 また別の案件では、国内大手のコンサル会社から「社内構造改革のための現状分析」提案があった。丁寧な提案書に加えて、過去実績も申し分ない。ただ、三枝はその場で却下した。



 リスク: 社内の細かなことまで開示する必要があり、情報流出や誤解の恐れがあった。さらに提案の中心は「分析」であり、それ自体が成果ではない。結局、それをもとに動かすのは社内の人間。だから分析を受け取った側の問題でうまくいかないリスクがある。


 メリット: 経験豊富な大手で安心というのはある。他社並みになれる言う点はメリット。


 コスト: 数百万単位の見積。内部施策に切り替えたほうがコストパフォーマンスは高い。



 冷静に、数分で結論を出した。当時はそれが「当たり前」だった。むしろ誇らしさすらあった。



 だが今は――



 最近の三枝には、その瞬発力が鈍っている気がしてならない。案件の数も内容も重くなり、組織の中の力学も変わった。政治的な配慮、社内の人間関係、利害のバランス。すべてを考慮すると、判断はどこかで濁り、重くなる。



 「判断する、ということ自体が重荷になってるな……」



 溜息と共に椅子の背にもたれたところで、携帯が震えた。表示には「村上」という名前があった。



 「……おお、久しぶりだな。どうした?」



 電話の向こうの村上は、少し照れくさそうに笑っていた。元々は三枝の部下で、今は独立してグループ企業を中心に研修講師をしている人物だ。



 「今日、近くで講演あったんですよ。良ければ一杯どうです? なんか、顔が浮かんで……って、変ですかね」



 三枝はふと笑った。



 「いや、ちょうどいい。飲むか。付き合ってくれ」



 長い一週間の終わりに、彼の中で何かが静かに揺れ動き始めていた。



----------



 金曜の夜、新橋の裏通りにある小料理屋の暖簾をくぐると、少し遅れてやってきた村上が満面の笑みを浮かべて現れた。以前と変わらぬ、人懐っこい笑い方だった。



 「いやあ、お久しぶりです、三枝さん。変わってないですね」



 三枝は軽く会釈しながら奥のテーブル席へ向かった。



 「お前こそ、相変わらずだな。グループ内で人気だって聞いたぞ。講師業、順調らしいな」



 「まあ、おかげさまで。こっちはしゃべるだけで金もらえるんで、肩も凝りませんよ。経営陣は大変でしょうに」



 軽口を交わしながら、焼き魚とおでんをつつき、日本酒を二合ほど空けた頃、ようやく場がゆるんできた。三枝は、酒の温度がちょうど良くなった瞬間を見計らうように、ぽつりと呟いた。



 「判断ばかりの毎日だ。しかも、どれも正解がない。いや、正解なんて最初からないんだが……なにがマシか、どこまでが致命傷か、そんなもんを毎週、何件も見極めるなんてな。まったく……」



 村上は箸を止めたまま、静かに笑った。



 「三枝さんがそんなこと言うなんて、珍しいですね。でも……それ、僕、聞いたことありますよ」



 三枝が眉をひそめると、村上は続けた。



 「ファシリテーションのセミナー、ありましたよね? 社内導入を決めたときのこと。僕、当時まだ課長代理でしたけど、あれ、即決だったって有名でしたよ」



 三枝は少しだけ目を細めた。「……ああ。あれか。大林のやつだな」



 「そうそう、元社員の大林さん。外部講師なのに“内部の人よりわかってる”って評判でしたよ。あれって、どういう基準で即決したんですか?」



 三枝は少し考えてから、ゆっくりと答えた。



 「簡単だ。リスクはほぼゼロだった。あいつは社内を熟知してたし、変な提案もしない。メリットは明白だ。会議の質が上がれば、全体が変わる。で、コストも常識的な範囲内だった。……三つの軸で、見た。それだけの話だ」



 「それです、それ」



 村上が身を乗り出すようにして言った。



 「三枝さん、あのときからですよ。**“三軸思考”**って、僕、勝手にそう呼んでたんです。リスク、メリット、コスト。これで見れば、大抵の判断は整理できる。僕、今の講義でもたまに言ってますよ。『昔の上司がな、これだけで決めてたんだ』って」



 三枝は肩を揺らして笑った。「そんな大げさなもんじゃない」



 「いえいえ、すごくシンプルで強い考え方です。今の経営層って、データも情報も溢れてるけど、判断は迷う一方です。僕はそこにこの三軸を渡すと、ふっと目が澄む瞬間があるんです」



 その言葉に、三枝の中で何かが静かに蘇った。忘れていた感覚。余計な枝葉をそぎ落とし、本質を見つめる“構え”が、少しずつ身体の芯に戻ってくる。



 「……思い出したよ。最近は、つい構造で考えすぎてた。説明責任、調整、関係者配慮。どれも大事だが、判断が濁る」



 村上は笑いながら盃を空けた。



 「現場では“濁ってる判断”って、見抜かれますからね。三枝さんの判断は、いつも“澄んでた”んですよ。そういうのって、案外、みんな覚えてるもんです」



 三枝は、盃に残った酒を静かに飲み干した。骨まで沁みるような、久々の納得感だった。



 店を出る頃には、夜風が少し肌寒かったが、心には温かさが残っていた。



 「助かったよ。村上」



 「また、飲みましょう。三枝さん。今度は僕の奢りで」



 三枝は笑って手を振った。


 その歩みの先には、月曜から始まる次の一週間が待っていた。


 今度は、その一件一件を、あの三軸で切り分けてやる――そう心に決めながら。



----------



 月曜の朝、役員会議室には張り詰めた空気が流れていた。



 会議の冒頭、社長の今井が資料を机に置きながら口を開いた。



 「三枝、この三つ。今週中に判断してくれ。初動は早ければ早いほどいい。詳しくはあとで」



 資料には、簡潔にタイトルが記されていた。



 - 【案件①】総務・経理部門の予算削減とDX部門への増額移行案


 - 【案件②】次期グロース事業部 部門長人事案


 - 【案件③】地方ベンチャー買収提案



 三枝はリストに目を落としながら、ゆっくりと息を吐いた。脳裏には、金曜の夜に村上から聞いた「三軸」の言葉が浮かんでいた。



案件①:総務・経理部門の予算削減とDX部門への増額移行案



 「さて……まずはこいつか」



 三枝はオフィスに戻ると、届いた各部門の年間予算表と実績資料を一つひとつ精査した。削減対象とされているのは、保守的なバックオフィス部門だ。人員も多く、影響範囲は大きい。一方、増額先のDX推進部門は、ここ一年で急成長しており、明らかに人も金も足りていない。



 彼は手元のタブレットに表を作った。上から「リスク」「メリット」「コスト」。



 リスク:


 - 総務・経理の業務停滞


 - 保守派の幹部たちの反発


 - 組織内の不満増幅


 -予算増減に伴う人員減、人員増がスムーズにいくか



 メリット:


 - 成長部門への投資による中長期的収益性の強化


 - 生産性の可視化、結果による説得力


 - 社内再編の実行による経営姿勢の浸透



 コスト:


 - 移行に伴う再教育・調整作業:約300万円


 - 部門間調整会議とフォローアップに要する工数



 三枝は結論をメモに書き込んだ。


 「事前の十分な説明+段階的移行+個別カウンセリングによるケア強化を条件に承認」。


 対立を避けるために「削減」ではなく「戦略的再配分」と表現する文言まで用意した。



案件②:次期グロース事業部 部門長人事案



 二日後の火曜。人事部長が同席する形で、今井から候補者の名前が提示された。



 「この若手、正直、異例だとは思うが……どう見る?」



 候補者は32歳の課長職。実績は申し分ないが、部門内には年上のベテランが多数おり、人間関係の摩擦が懸念される。



 三枝は再び、三軸で見た。



 リスク:


 - 年長者からの反発、指揮系統の混乱


 - 社内の“抜擢基準”に対する不信感



 メリット:


 - 圧倒的な実績、特に新規開拓力


 - 組織の若返りとスピードアップ


 - 社外顧客からの評価も高い



 コスト:


 - 引継ぎ期間における人事支援:約150万円


 - メンタリング担当配置の必要性



 三枝は資料の角を指で弾き、口を開いた。



 「支援体制をつければ、成立します。明文化しましょう。“抜擢には支援をセットにする”と」



 今井はニヤリと笑った。



 「お前らしいな」



 三枝は黙って資料を閉じた。



案件③:地方ベンチャー買収提案



 金曜の朝、最後の案件が届いた。新潟の地方都市に拠点を持つ、製造系のベンチャー企業。特許技術を複数保有しており、最近では環境分野でも注目を集めている。



 だが、直近3年は赤字。経営者も高齢で、次の世代への承継問題を抱えていた。



 リスク:


- 継続赤字の財務状況


- 企業文化の違いによるPMI(買収後統合作業)の難航


- 地方人材の確保・流出リスク



 メリット:


- 独自技術の特許取得による競争優位


- 新規市場への足がかり(特に欧州環境規制に適応)


- 中長期の収益貢献+CSR的効果



 コスト:


- 買収額:1.5億円


- PMI支援チーム(年額2000万円規模)


- 移行後3年は黒字化困難と予測



 三枝は少し長く、黙考した。



 この案件は、明らかに「投資」だ。リターンを求めるには、先を見通す目と、根気強い実行力がいる。



 だが三枝は、技術部門の副本部長を呼び、専門的な意見を聞いた。その結果、ある特許技術が次年度の主力製品開発に不可欠であると判明した。



 三枝は社長に返答を返す。



 「条件付きで承認します。特許技術に関する移行優先、3年計画で黒字転換。その間の業績管理は我が部で監督します」



 今井は少し驚いた顔を見せたが、やがて静かに頷いた。



 「責任取るって顔してるな」



 「判断とは、そういうものでしょう」



 会話のあと、三枝は席を立ち、自席へと戻っていった。


 資料の山は相変わらず高く積まれていたが、もうそれに怯える気持ちはなかった。



 すべては、三軸で切り分ければ見えてくる。


 何が真に会社の未来につながるか。


 何が“今だけの答え”で、何が“先を照らす決断”なのか。



 その週の終わり、三つの案件はすべて可決された。


 部署内でも「最近の三枝は冴えてる」と囁かれるようになったが、本人はその声に頓着しなかった。ただ一つだけ、自分の中で確信があった。



 あの夜、村上と交わした言葉。


 「判断には、軸がいる」――その原点を取り戻したのだ。



----------



週末の夜、新橋の小料理屋。再び暖簾をくぐると、村上が先に来ていた。


 「本当に来ましたね、三枝さん」


 三枝はコートを脱ぎ、笑ってうなずく。



 「今週は、お前の“三軸”にずいぶん助けられたよ」



 焼き魚と日本酒が並び、会話は自然と仕事の話になった。三枝は、予算移行、人事抜擢、買収――すべてがスムーズに決着したことを簡潔に話した。



 「すごいじゃないですか。それ、もう講演できますよ」


 村上が冗談めかして言う。


 「タイトルは『三分で決める経営判断』……とか?」



 三枝は苦笑しつつ、酒をひと口。



 「そのタイトル、意外と使えるかもな」


 「講師料、請求しますよ?」



 二人は笑い合った。


 外は冷たい風が吹いていたが、心には穏やかな温かさが残っていた。



 店を出て別れ際、三枝がふと振り返った。



 「……思い出させてくれて、ありがとう」



 村上は驚いたように笑い、軽く手を振った。



 ひとり夜道を歩きながら、三枝はスマホを取り出す。社長秘書からの通知が一件。



 「月曜、急ぎの判断案件あり」



 三枝は静かに画面を閉じ、胸ポケットの手帳を開いた。


 ページの端に、自分で書いた三つの言葉が見える。



 リスク/メリット/コスト



 「よし。次も切るか」



 そうつぶやき、三枝は歩を進めた。


 夜の街の光の中へ、静かに消えていった。




実際の意思決定はもっと直感的なものかもしれません


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