姫君(2)
〈輝きよ、闇を照らせ…クラルス〉
フェリクスが静かに呪文を唱えると、彼の手のひらに光の玉のようなものが浮かび上がる。それは炎のように静かに部屋を照らした。
「子供…?」
ルカが背後から呟く。灯りに照らされ顔がはっきりと見える。背丈と同じく年相応な幼い顔をしていた。十二歳くらいの少年だろうか。ひどく美しい少年だった。肩で切りそろえた髪は黒曜石のような艶めく黒髪で、瞳はフェリクスと同じく青だった。しかしフェリクスの瞳が空の青なら少年の瞳は深海のような青だ。服装はグレインヴァルが連れてきた使用人と同じものを着ていた。
当のフィーナは何ごともなかったかのようにぐっすり眠っていた。
「君はグレインヴァル氏の使用人か…?」
ルカが不審な声で尋ねるが、それをフェリクスが打ち消す。
「いや…お前、ただの子供じゃねぇな。『暁月』の者か」
二人を警戒させたのはその少年の佇まいだった。屋敷の緊急事態に一人娘の部屋に忍び込んでいたというどう咎められても言い逃れのできないような状況にも関わらず、彼は全く慌てる様子もなければ逃げも隠れもしないという態度だった。それどころか口元は薄く笑っていた。
「いかにも私は暁月だが…ん…?ああ…なんだ。君たちは…よく見れば蕾の者か……さっさと逃げれば良かったのものを」
少年はフェリクスとルカをじっと見たのちに面倒そうに呟いた。声変わりをしていないようで少女のような可憐な声だった。しかしその声音とは裏腹に随分と不遜な物言いだった。
「まあいい。こちらの令嬢は君らに預ける。子供を巻き込むわけにはいかないから私が保護してやろうと思ったが、その手間が省けた。彼女は魔力で強制的に眠らせているが、じきに目を覚ますだろう。さっさと外へ運んでやれ。では後は任せたぞ」
と言って、彼は二人のそばを通り過ぎて部屋から出て行こうとした。その堂々たる口調と振る舞いにフェリクスとルカはあっけに取られ、一瞬固まってしまう。
「ま、待て!!逃がすか!!」
「落ち着け!ルカ!!」
〈炎よ!障壁を薙ぎ払え!イグニス〉
フェリクスの制止の声も聞かずルカは、呪文を唱えた。ルカの得意とする爆炎の魔法だ。学園でも魔力の濫用は禁止されているので、見たことはなかったが凄まじい威力だった。フェリクスの視界が一瞬炎で埋まると彼は瞬時にフィーナの身をかばうように覆いかぶさった。
〈ヴァクムス〉
凛とした声で短い呪文が聞こえた気がした。
小さなフィーナを体の下に抱えながら熱風や爆音を覚悟していたのだが、いつまでも来ない。シン…とした静寂に包まれて、フェリクスは顔を上げた。
視線の先にはルカと少年が対峙していた。ルカが呆気にとられたような顔をしている。
「おい、人様の家を破壊する気か?」
先に沈黙を破ったのは少年の方だった。彼は涼しい顔で佇んでいた。先ほどルカが起こした爆炎の形跡は何もなかった。熱も残っていなければ、何かが破壊されてもいない。無論、ルカはこの少年を焼き殺そうなどと考えていなかった。退路を塞ごうとしたのだ。しかし、壁も床も何一つ傷一つついていない。先ほどフェリクスが見た炎は幻影だったのではないかというほどに。
「な、何を…」
「真空状態にする魔術さ」
「しんくう…?」
科学が発展していないこの国では真空という概念を持っている者は少ない。また、炎が酸素で燃えることも。
「いや、そんなことよりなぜ魔力を…」
魔力を持つ貴族を襲う『暁月』は魔力を持たない『無魔』の暴徒。というのは誰もが知っている事実だ。暁月に魔力を持つ者がいるなどと、そんな話は聞いたことがなかった。
「暁月は魔力が使えないと思い込んでいたようだな」
くるりとルカ達に背を向けると少年は今度こそ部屋を出ていこうとした。
「待て!逃げる気か」
「我々暁月は決して暴力を行使しない。ゆえに君らとは戦わない」
少年は首を少し曲げて目線をルカに向けて言い放った。まるでルカ達の方を見逃してくれたように。