禁断の恋
淡いピンクの花びらが風に舞う。
その無数の花びらが、静香の小さな体に降り注いでいる。
花びらをまとった静香は、満開になった桜の木を見上げた。
「もうお別れだね……」
静香の問いかけに、ぼくも桜の木も返事をしない。
その代わり、一枚の花びらがゆらゆらと静香の肩に落ちた。静香は肩にとまる花びらを摘むと両手で包み、いとおしそうに胸に押し当てた。
小学校の校庭に、一本だけ大きな桜の木が立っている。
卒業式の日から十日後、ぼくは桜の木の下に静香を呼び出した。
ただ別れを告げるだけのために……。
ぼくはどうかしていたんだ。教え子に手を出すなんて。
妻が死んで寂しさを紛らわすために、犯してはならない過ちを犯してしまった。それも、自分の息子と歳が大してかわらない子と関係をもってしまった。
後悔と罪悪感、別れるには十分な理由だった。
静香は明日、遠い町に引越してしまう。娘が小学校を卒業するのを、家族は待っていた。ぼくにとっては好都合なことだった。
静香の小さな肩が震えている。先ほどより風が強くなった。春の冷たい風で震えているのか、それとも、二人の関係が終わるのを薄々感じているからなのか、ぼくには分からない。
ぼくは静香の肩を見つめたまま、なにも言えなかった。
「先生、引越ししても会えるよね?」
静香は無邪気な顔で振り向いた。だが、大きな瞳が期待と不安で揺れ動く。
ぼくは思わず静香から顔を背け、目を伏せた。
「ごめん……」
ザワッ 桜の枝が風に揺れた。
桜の花びらがぼくの足下で舞い踊る。その中を静香の細い足が近付いてくる。
「やっぱりわたしじゃダメなの? 年が離れているから? どうして、ねえ先生。じゃあなんで、あの日……」
そこまで言いかけたが、静香は唇をきつく結んだ。ぼくを恨めしそうに見つめると、瞳に涙をためて爪を噛んだ。
静香の言いたいことは分かっている。あの日の過ちは、ぼくにとっても静香にとっても一生消えない傷なのだ。だが、静香は傷だと認めたくないのだろう。それを言うまいとこらえている。
ぼくにはこの言葉しか言えなかった。
「ごめんね」
「なんで!」
静香は叫んだ。涙で顔を濡らし、ぼくの胸に飛び込んだ。
「なんで先生はわたしを抱いたのよ!」
ぼくの心臓が大きく跳ね上がる。
静香の肩に触れることも、ましてや抱きしめることなど出来ない。ただ、静香に抱きしめられたまま、その場に立ち尽くした。
静香はぼくの胸に顔を埋めながら呟く。
「小四の時に先生が担任なったときから、好きだったんだ。先生の子供になりたかった……。先生の生まれたばかりの息子さんが羨ましかったよ。だからあの日……去年のクリスマスイブは嬉しかった。だって子供よりも、先生の女になれたんだもん」
静香の栗毛色の髪に、いくつものピンクの花びらが舞い落ちる。桜の香りと、髪の甘い匂いが心を惑わす。ぼくは静香の髪をそっと撫でた。
「先生はわたしをかわいいって言ったよ。生理がなくても女だよって言ったよ。でもダメなんだね。生理がないから……生理がないと、やっぱり女じゃないんだね……」
「そんなことじゃないんだ。そんなことで判断したんじゃない」
「じゃあ、好き?」
顔を上げた静香の目が、怪しく光る。
「わたしのこと、好き?」
静香の濡れた唇からも甘い匂いがする。ぼくは吸い込まれるように唇を重ねた。
桜の花びらが舞う中、ぼくは静香を強く抱きしめた。どう繕っても、もう過去の過ちは消せない。それなら、残り少ない人生をこの子と一緒にいよう。
しばらく抱き合ったあと、ぼくは笑顔で言った。
「行こうか」
「うん」
ぼくは静香の肩に手を回す。小柄な静香はぼくの腕の中に小さく収まった。
「へへへ、先生は温かいね」
静香は照れくさそうに笑った。
これで良かったのだ。
歩き出した二人を、桜の木が祝福してくれる。
花びらが優しく包み込むように舞っていた。
小学校の校門を出ると、息子の隼人がこちらに向かって歩いてくる。
ぼくと静香は急いで離れると、隼人が気づいて駆けて来た。
「親父、どうしたこんなとこで?」
「いや、まあ……」
「どうしたんだ赤い顔して、へんなの」
隼人は静香を見て陽気に笑った。
「よう、静香ちゃん。元教師と教え子で仲良くお散歩かな。いいね~春だから陽気がいいし、散歩にはもってこいだ」
隼人は気持ちよさそうにあたりを見渡す。
「小学校の桜も満開だ。そうか、親父と静香ちゃんは昔を偲んで、母校で花見をしてたんだ」
「うん……」
「そう言えば、静香ちゃんの孫もこの小学校だろ。女の子だったかな?」
「うん……十日前に卒業したのよ」
「じゃ中学校も学区内かな?」
「ううん、わたしの息子が転勤するから、家族も一緒に引越すの。だから中学校はこの町じゃないの」
「静香ちゃんも?」
「うん。わたしも旦那が死んで、息子夫婦に面倒みてもらっている身だからね」
「なんだよ、親父の茶飲み友達がいなくなっちゃうのかよ。去年お袋が死んで落ち込んでいたけど、昔の教え子の静香ちゃんに会ってから、せっかく元気になったのにな。まあ、引越してもたまには親父と会ってあげてよ。じゃあね、俺行くわ」
隼人は手を振って行きかけたが、下品な顔で振り返った。
「ぐふふっ、今なら教師と教え子の禁断の恋はオッケーだな。親父は八十七で、静香ちゃんは七十二なんだから、誰も文句はいいませんよ。じゃあね」
六十二歳の隼人が、がに股で去ってゆく。
ぼくの目の前に、淡いピンクの花びらが舞っている。
校庭の桜の木から、風に乗ってここまで飛んできたのだ。
フワフワとただよっていた花びらが一枚、静香の髪の毛に落ちた。
栗毛色に染められた髪の毛が、日の光で赤く見える。生え際は白髪のせいで、銀色に怪しく輝いている。
ぼくが髪についた花びらを摘むと、静香は嬉しそうに笑った。
摘んだ花びらを目の前にかかげると、ぼくと静香は同時に吹き飛ばす。
ピンクの花びらは、素敵なダンスを披露した。
桜はやっぱりぼくらを祝福している。