幸せ
ヘレナは、しばらく、泣いて泣いて泣き尽くそうとしたが、『それ以上うるさくすれば喉を潰す』と異常発言を吐かれ、強引かつ強制的に涙を引っ込めた。
感情がもはやグチャグチャだが、唯一恐怖だけはこれ以上ないくらい感じていた。
そんな中。ヤンという少女が、神妙な面持ちでヘーゼンを見つめる。それは、怒りの表情ではなかった。純粋な疑問。まるで、無垢な赤ん坊のような瞳だった。
「師はなんでそうなんですか?」
「ん?」
「あなたはやろうと思えばなんでもできるし、なんでも手に入る。なのに、なぜそんなに必死なんですか?」
「必死……必死か……いい表現だ」
ヘーゼンは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「人を陥れずに済む方法があれば、その方がいい。なんで、そう思えないんですか? 師だったら、いくらでもできるじゃないですか。他人を不幸にしながら突き進むような生き方は、私は間違っていると思います」
その瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。そして、ヘーゼンもまた、その瞳を逸らさずに見つめる。
「……ヤン。幸福と不幸は天秤のようなものだ。誰かが不幸になることで、誰かが幸福になる。それならば、どうしようもない悪人が不幸になった方がいい」
「……」
「現に、この二人を調教することで、奴隷の被害に遭う者は確実に減っただろう。そうすることで、救われる者がいるという未来を、君は否定するのか?」
その問いに。
黒髪の少女は躊躇わずに首を振る。
「……そうすることで、師は幸せなんですか? 私は自分が幸せになるために、他人にも幸せでいてもらいたいです」
「……」
「私は、幸福と不幸の秤を傾けることじゃなく、幸福の秤を大きくするような生き方がしたいです」
「……ヤン」
「……はい」
グリグリグリ。
!?
「いだ、いだだだだだっ!?」
「僕に説教するとは、君は本当にいい度胸をしている」
「だ、だったらなんでグリグリするんですか!? 痛い、やめてください」
「褒めてないからだよ。実際に、君がどう思おうと、僕の行動を止めることはできない。力なき者が語る理想ほど、無力なものはないと学びなさい」
「ぐ、ぐぐぐぐぐっ……」
ひとしきり頭をグリグリとした後。
ヘーゼンは、先ほどとは違った、毒気の抜けた笑顔をヘレナに向ける。
「さて、義母さん。僕の判断が変わらないのはわかるね?」
「……はい」
「本当に罪を償いたいと願うならば、いつでも帝国に出頭すればいい。僕はそれを止めはしない」
「……」
「できないだろう? そうすれば、打ち首は確定だからね」
「……」
「罪を償うとはそういうことだ。僕は犯した罪を償おうとすることもなく、幸福になろうとする君たちを許さない。そして、ヤン。僕の判断が君の言葉で変わることは絶対にない」
ヘーゼンは真っ直ぐにヤンという少女の瞳を見すえる。
「人の行動を変えることができるのは、行動だけだ。口先で高尚なことなどはいくらでも言える。まずは、強くなりなさい」
「……ふんぬー! わかりましたよ、この分からず屋!」
ヤンがその場でジタバタしながら叫ぶ。
そんな様子を見て、ヘーゼンはフッ笑みを浮かべて再びヘレナの方を見る。
「さて、義母さん。あなたの役目は貴族の後妻だ。もちろん、先方に話は付いているから安心して嫁いでいい」
「……」
むしろ、不安でしかない。絶望でしかない。しかし、受け入れないという選択肢はないのだと身をもって知っている。どんなに辛くとも、受け入れるしかない。
「……ところで、あの、私は平民なんですけど」
「今回、中尉に昇進したので下級貴族を拝命した。小さいが、土地も譲り受けた」
「……っ」
ヘレナは唖然とした。将官試験を受けて合格した時にも驚愕したが、まさか3ヶ月間足らずで身分すらも超えてしまうとは。
なんという有能な悪魔だろうか。
「マスレーヌ=ギスカ。身分は『序子』。最下級から2番目の爵位だ。年は69歳」
!?
「どうした?」
「……ちょ、ちょっと歳を取ってるんじゃないかな……なんて」
じじいじゃねえか、とヘレナは思う。ヨボヨボのじじい。しかし、ヘーゼンとヘレナは完全なる従属関係である。異論や反論などもってのほか。そう、調教されている。
「そうだな……ちょっとだけ、歳上かな」
「……っ」
圧倒的じじいじゃねえか、とヘレナは思った。
「与えられた僕の領地と隣接していてな。低爵位にしては資産を溜め込んでいる。長男は戦死。他に子どももいない。そして、僕の見立てだとあの老人は長くない。もってあと半年というところだろう」
「そ、それはギスカ家の資産を乗っ取れと言うんですか?」
「奴隷落ちしたくなければ、精一杯看病しろ」
「……っ」
条件最悪。なんだって、わざわざじじいの元に嫁がねばならないのか。
「……どんな人なんですか?」
「温厚な方だよ。挨拶をしたが、義母さんと違って、善人だった。まあ、乱暴などの心配はないさ」
「後妻までさせて領地を奪おうなんて邪道ですよ」
ヤンが、またしても、噛みつく。
「手段を選んでいる余裕はないんだ。どんな手でも使うさ」
「だから、なんでそんなに焦ってるんですか!?」
「君に答える必要はない」
「……っ」
ヤンがガビーンという表情を浮かべる。
「貴族と言うのは、自身の領地を上手く治めなくてはいけない。しかし、僕は同時に将官でもある。領地運営に大きく時間を割くことはできない。隣接している他領とは良好な関係を保っておきたいんだ。しっかり頼むぞ、義母さん」
「……はい」
そう答えるしかない。
「……ああ、これは独り言だが。僕は君たちの行動に関して細かくは指定しない。あくまで、僕の命令に従順であり続ければという条件付きだが」
「そ、それじゃサンドバルと会っても……」
「関知しない。だが、任務が疎かになるようだったら、干渉せざるを得ないがね。せいぜい、僕を煩わせないように身を粉にして働くのだね」
「はい……はい……ううっ……うううううっ……」
ヘレナはその場で泣き崩れる。
その姿を。
ヘーゼンは興味なさげに一瞥し、次の瞬間、すぐさま視線を外し別の行動を開始した。




