神父
突然の宣告に、ヘレナは混乱した。この男は、いったい、何を言っているのだろうか。
言っている意味がわからない。
まったく、とめどなく、とんでもなく。
「あの……今、なんて?」
「何度も言わせないでくれ。離婚しろ。書類は作成済みだから、あとはサインだけだ」
「……っ」
「別の貴族と結婚してもらうから。平民のサンドバルとは別れてもらう」
「……っっ」
ヘレナは思わず数歩後ずさるが、なんだか書類を凄く、グイグイと押し付けてくる。もちろん、離婚届。
信じられない。なぜ、人の身でこんな所業ができるのか。いや、こいつは、人間じゃない。人の皮を被った悪魔だ。
しかし。
精神的関係性として。ヘーゼンは主人でヘレナは奴隷。その絶対的な主従関係は崩すことなどできない。だが、これだけは譲れない。
いや、そもそも、この男は夫と自分が愛し合っているという事実を知らない。初めから愛のない結婚だと言う認識だからこそ、このような非道が言えるのだ。
いくらなんでも、愛し合っている二人を引き離そうとなんてしないだろう。なんとか、この想いを伝えればわかってくれるはずだ。
この世に悪魔などいない。悪魔など。ヘレナは何度も自身に言い聞かせる。
「あの……せっかくのお話なんですけど、私はサンドバルのことを愛してるんです」
「義母さんの意見は聞いてないよ。これは、報告だから」
「……っ」
ニッコリ。
ヘレナは思った。
絶対に、こいつは人間じゃない。悪魔だ。いや、悪魔の中でも上位の悪魔に違いない。そんな中、黒髪の少女がヘレナと同じような驚愕の表情を浮かべている。
「し、信じられない」
「仕方ないね」
「仕方なくないですよ! なんか、他の手はないんですか?」
「知らない。と言うか、義母さんに思考を費やす時間は1秒たりともないんだ」
「……っ」
ヤンという少女がガビーンとした表情を浮かべる。どうやら、この子も無理やり連れてこられたようだ。恐らく、自分みたいに拉致監禁されて、無理やりここに連れてこられたのだろう。ヘレナは、これ以上ないくらいに同情した。
そんな中、サンドバルがこちらへとやって来る。
「どうした、ヘレーー、はぐっ……へ、ヘーゼン」
「久しぶりだな。サンドバル」
「お、おお。我が息子よ。本当に久しぶりだ」
「もう息子じゃない。他人だ。義母さんに離婚届を渡したから、早くサインをしろ」
「……っ」
数歩、サンドバルが後ずさる。
「あ、あの、考え直すことはできないか? いや、できないでしょうか? 俺は、ヘレナのことを愛しているんです」
「これは、決定事項であり、報告だ。お前の意見は聞いてない。そして、今後一切お前の意見を通すつもりはない」
「……はっ……くっ」
彼もまた、数歩、後ずさる。
「サンドバル。お前にはこれからやってもらうことがある」
「えっ?」
「ベスカエ領での裏情報が知りたい。しばらく、本業の奴隷ギルドに潜り込め」
「そ、そんな……俺はもう更生して」
「潜入捜査だよ。結果的に壊滅するから問題ない」
「……」
しばらく沈黙が続き。やがて、サンドバルは土下座して、涙ながらに訴えかける。
「……お願いします! 勘弁してください!」
サンドバルは、何度も何度も地面に頭を擦り付けた。
「俺はもう真面目に生きていきたいんです! 愛するヘレナと一緒に……真っ当な道に……どうか……どうか……」
「……サンドバル」
ヘレナは胸が熱くなった。自分だって、同じだ。やっと、たどり着いたこの幸せを、決して離したくはない。
そして、気づけば彼の隣で土下座していた。
「お願いします! 今後一切悪事には手を染めません! 真っ当に生きて、人に迷惑をかけないよう正しい道を歩んでいきます」
「……ふー」
数秒ほどの沈黙が続き。
ヘーゼンはやれやれと言う表情で、ため息をついた。
「昔、とある神父が言っていたな。どのような罪を犯した者でも、その罪を認め、反省すれば、許されると。神は許しを乞う者について、すべての罪を許す……と」
「それじゃ……」
サンドバルが顔面を上げた瞬間、ヘーゼンの足裏が容赦なく襲いかかった。
「がっ」
「お前ら……僕が教会の神父に見えるか?」
「ひっ」
そう言って。怯えた2人に対して爽やかな笑みを浮かべる。
「サンドバル=ジッダ。奴隷ギルド『グンガル』の元幹部。奴隷として誘拐した子どもの人数は実に100を超える。誘拐された無垢な者たちは、こうやってお前に許しを請わなかったか?」
「う……ううっ」
「そして、ヘレナ=ダリ。お前はギルド本部に従事しながら選考に漏れた者を騙し斡旋を実施。なんの罪もないギルド志望者は、こうやって許しを懇願しなかったか?」
「ひぐっ……」
瞬間、今日みた悪夢がフラッシュバックした。自分がヘーゼン側で、懇願する男がヘレナ側。そう思った時。彼女の瞳から止めどない涙が流れた。
「勘違いするな。僕は別にお前らの更生を求めているんじゃないんだ」
「そ、そんな……」
サンドバルが絶望した表情を浮かべるが、ヘーゼンはそんな彼の瞳を覗き込み、深淵へと叩き込む。
「僕は、お前らの幸せを徹底的に搾取する。奪われた者たちの分まで、お前たちには徹底的に苦しんでもらう。それが、君たちの罪だ」
「……」
ああ、もう手遅れなのだとヘレナは思った。今更ながらに後悔したところで、過去にやり直しなどできない。永遠にこの男に従って生きるしか。
「だからさ。もう、あきらめろ。真っ当に生きて、人並みの幸せを得る資格など、お前たちにはないのだから」
ヘーゼンは彼女の肩を優しく叩き、満面の笑顔を浮かべる。
「……えぐっ……えぐっ……えっ、ひっ」
「そんなに悲観することはないよ。僕も悪魔ではない。君たちに利用価値があるうちは生かしておいてやる。そこで、どう愛を育んで、人生を謳歌しようと好きにするがいい。ただ、永遠を望むのは贅沢だ。お前たちのような罪人には、そんな価値はない」
「どうして……どうして私たちばかり」
「どうして? そうだな」
ヘーゼンは珍しく考え込み、やがて、思い出したように答える。
「運が悪かった、そう思えばいい」
「……っ」
「神はどんな善人でも、どんな悪人にも平等に愛情を注ぐらしいのでね。君たちは、たまたま、運が悪く僕という存在に捕まった。そういう事じゃないかな?」
そう言って。
黒髪の青年は笑った。
そして、その笑顔は。
あまりにも綺麗すぎて、どこかいびつに見えた。




