決断
「……っ」
部屋に入ってきたイルナスを見て、ヤンはハッと息を飲んだ。金色の流れるような髪。透き通るような粉雪のような肌。
その中性的な顔立ちは、母であるヴァナルナースの面影を非常に感じさせる。聡明さを感じさせる鮮やかな青の澄んだ瞳は、皇帝レイバースと瓜二つだ。
なんて、お可愛い。
愛らしさがとんでもない。これには、ヤンが生来持っている庇護欲を大いに刺激した。元々、彼女は大の子ども好きである。
こんな、小さな子どもが、あの激ヤバさんのエヴィルダース皇太子の玩具にされ、痛ぶられていていたなんて。
なんて、お可哀想。
ヤンは、困った表情を浮かべている美童子にギュッと胸が締め付けられる。
「どうだ? お眼鏡に叶ったかな?」
「くっ……」
ヤンは悟った。ヘーゼンに自分の心をすべて見抜かれていることを。ゆっくり考えたかった。ゆっくりと目の前の可愛い子をスリスリして、ナデナデして自分の庇護欲を一通り満足させた後で決めたかった。
でも、もう時間……ない。
事態はかなり深刻である。考える時間はもうない。
「……はぁ」
ならば、自分の良心を信じようと思った。目の前の子どもが困っているとき、自分に恥じない行動をとろうと。
ヤンは、コクリと頷きヘーゼンを見返す。
「では、3分やろう」
「……固麵じゃないんですから」
「……」
「……」
・・・
黒髪少女の例え冗談が、師に全く響かなかったところで、急いで身体を翻す。イルナスが側近も護衛もつけずに来たと言うことは、状況はかなり逼迫している。
ヤンは、服棚の奥から衣類を取りだす。以前、平民街に侵入調査していた時に使ったものだ。
ところどころ、破れやほつれ、ツギハギがあるので少なくとも、貴族が変装してるとは思われないだろう。
残り2分。ヤンは大きな漆黒のマントを羽織り、銭袋に大銀貨5枚、小銀貨20枚、大胴貨30枚を詰め込みポケットに入れる。そして、大金貨と小金貨は全部ヘーゼンに手渡した。
「契約魔法を解除してもらうために、せっかく、貯めたのに」
「安心してくれ。世のため、人のために使う」
「……っ」
ガビーン。
勝手に、慈善事業。自分のために貯めたお金を、ヘーゼンの野望のために、勝手に恵まれない人たちの下へと渡ろうとしている。
だが、どうすることもできない。
逃亡したとわかれば、絶対に家宅捜査される。その時、金貨が残っていれば、必ず平民に偽装したことがバレるだろう。
それに、平民で金貨を使う訳にもいかない。
残り30秒。すべての準備を完了させたところでヤンは、半年過ごした部屋をグルリと見渡した。
テナ学院を強制卒業させられ、ここに連れてこられた時に、泣き暮れたベッド。一週間で読破しろと言われて、不眠不休で読みあさった帝国将官試験対策の本棚。
訓練で重傷を負って、血みどろになったまま倒れ込み、取れなくなった床の血痕。
……まったくと言っていいほど、いい思い出がない。思い浮かばない。
「……」
でも、不思議だ。ろくな思い出もないのに、苦しい想いしかしたことがないのに、なぜだか胸にじんわりと熱いものがこみ上げてくるなんて。
ヤンは静かに漆黒の瞳を開けた。
「時間だ」
「……はい」
「選別だ。これを持って行け」
ヘーゼンに手渡されたのは、整った細い枝のような棒だった。ひんやりとした鉱物特有の感触。ヤンがそれを掲げると、うっすらと黒く輝き、身体からじんわりと魔力が流れていく。
「牙影じゃないですか。いいんですか?」
これは、ヘーゼンが初めて製作した魔杖である。汎用性が気に入っているようで、等級は低いが、手にして使用している機会は多い。
「帝都を出るまではできる限り使うなよ」
「……それは、こちらが師にお願いしたいとこなんですが」
ヤンが笑顔で言い返す。実際、国家的犯罪者になった時点で、帝国選りすぐりの精鋭たちに追われることは間違いない。
帝国の暗部はヘーゼンが認めるように優秀だ。
犬狢、蛇封、古虎……彼らのような冷酷無比な集団と対峙すれば、魔法をいかに駆使したとしても生き残れるかわからない。
なので、魔法を使わないようにするには、ヘーゼンが天空宮殿でどれだけの策を巡らせるかにかかっている。
準備ができた時、ふとイルナスの視線に気づく。その不安そうな表情は、ヤンの胸をギュッと締めつける。利発そうな童子だった。顔立ちが非常に整っていて、背も思ったよりも小さい。
黒髪の少女は思わず、自分がヘーゼンの弟子になった時のことを思い出した。あの時、自分は13歳の頃だった。あの時は、みんな……約1名以外はすごく優しかった。
それでも、不安で、独りぼっちな気がして、怖くてどうにかなりそうだった。
……しかも、私と同じなんて。
ヤンは、彼の元に片膝をついて礼をした。少しでもイルナスが安心できるように。少しでも、彼の恐怖を和らげることができるように。
愛想を尽かされてしまうかもしれない。途中で、ダメ魔法使いの烙印を押されてしまうかもしれない。
ただ、今だけは、自分だけが頼りなイルナスのためだけに、ヤンは満面の笑顔と自信を持って、有能な臣下の儀礼をとった。
「イルナス皇太子殿下。安心してください、私が必ずあなたをお守りいたします」




