アウラ秘書官
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部屋の中を眺める否や、アウラはトントンと指で額を叩き、大きくため息をついた。
頭が……痛い。
ボコボコに殴られ、気絶しているブギョーナ。顔面が蒼白……いや、真っ青になっているエヴィルダース皇太子。そして、ニコニコと邪悪な笑顔を浮かべているヘーゼン=ハイム。
事態が超混迷最悪であることは、わかった。
「あ、あああああアウラ秘書官んー!? なんとかせよぉ!」
「……」
取り乱しながら、こちらの胸ぐらを掴み、必死な眼光で迫ってくるエヴィルダース皇太子。副官のレイラクから事態を聞いて、大まかには把握していた。
数日前に、ブギョーナが義母の誘拐をしていたことを知った。だが、ヘーゼンがそれに対し交渉をしない姿勢を見せていたことは報告が来ていたし、そもそも脅しに屈するようなタマとは到底思えなかった。
問題は……いや、超絶大問題は、エヴィルダース皇太子に喧嘩を売ったことだ。
「下手を打ちましたな。ヘーゼン=ハイムは、グライド大将軍を単騎で討つほどの胆力の持ち主ですよ? やるのならば、こちらも命を賭けるつもりで臨まねばなりませんでした」
「う、ううううるさい! 早く、早く、なんとかせよ!」
「……はぁ」
苦言くらい言わせてくれよ、とアウラは再びため息をつく。ここでのバランス調整は、非常に難しい。
「さて……どうしてくれますかね?」
「……」
いけしゃあしゃあと、ヘーゼンが首を傾げて問いかけてくる。好き放題、勝手放題、やりたい放題の末、後処理をこちらに全て放り投げる気でいるのだ。
ここで、重要なのは、ヘーゼン=ハイムもエヴィルダース皇太子と表立って敵対する気はなかったと言うことだ。
アウラ秘書官は、取り乱しているエヴィルダース皇太子に耳打ちする。
「これまでのヘーゼン=ハイムの一切の言動には、目をお瞑りください」
「ふ、ふざけるな! あんな、平民風情に我が、どれだけの屈辱を……」
「それでしたら、もう私にできることはありません」
「くっ……だが、我がどれだけの無礼を……」
予想通り、ブツブツと渋ってきた。この皇太子は自尊心が高く、忍耐力が不足しているに加え、なんでも周囲が執りなしてくれると思っている節がある。
圧倒的窮地に立たされているにも関わらず、部下の助けがあるとわかった途端、要求は高い。だが、時に折れてもらうことも必要だ。
自身の失態ならば、特に。
「家族を人質にして脅したそうですね?」
「わ、我、は知らん。あの豚が勝手にやったことだ」
「そんな理屈が、あの男に通りましたか?」
「う、うるさい!」
「自身に置き換え、ご想像ください。皇太子殿下も皇后様が人質にされれば、そのお怒りは天にも昇るでしょう」
「……」
エヴィルダース皇太子が皇后セナプスを溺愛しているのは、公然とした事実だ。こうして指摘しなければ、他者に共感性を向けられないのは、嘆かわしい限りだが。
だが、目論見通り、幾分かは冷静になった。
「どうしろと言うのだ?」
「相当な爵位と階級の引き上げ、財と宝物の授与を容認なさいませ」
「……それで片がつくのか?」
「エヴィルダース皇太子が今後、彼に遺恨を残さないようであれば」
「……」
何を考えているのか、詮索する気にもなれないが、とにかく、何かを考えている。それが、くだらないことでなければいいな、と願いながらアウラはヘーゼンの方を見据える。
「お話はまとまりましたかね?」
「……」
想像以上に危険な野獣だ。クレバーに立ち回るタイプだと思っていたが、完全に見誤っていた。瞬時の思考速度が桁違いで、即断で最適化した行動を実行する。
改めて、軍人としても内政官としても敵に回したくない。
アウラがエヴィルダース皇太子の表情を見ると、すでに落ち着きは取り戻していた。熱するのも早いが、落ち着くのも早い。
感情の起伏が激しい主君は部下からは信頼されない。今後、年を経るにつれて改善されていけばいいが。
「ここからは、ヘーゼン=ハイムと2人にさせてください」
「……わかった。頼む」
エヴィルダース皇太子は、筆頭執事のグラッセと部屋を去る。アウラは、ズリズリと引きずられるブギョーナを見送りながら、三度ため息をつく。
あの瓢箪顔の老人の末路を想像すると、目を背けたくなる想いだが、このような騒動を起こしてしまったのだから同情の余地はない。
「……疲れた」
アウラは最寄りのソファにもたれかかる。あまり、こう言った弱音を吐く性分ではないが、ここ数日間はとにかく忙しかった。
「心中お察ししますよ」
「誰のせいだ、まったく」
思いっきり張本人の、この男にだけは言われたくない。
「しかし、ちょうどいいタイミングで来てくれて助かりました。それとも、図っていただいたのか」
「……お互い様だろう」
ヘーゼンはヘーゼンで、振り上げた刀を納める鞘を探していた……いや、待っていたのだろう。エヴィルダース皇太子に頭まで下げさせてしまっては、修復が不可能。
だが、ギリギリの線であれば、まだ引き返せる。
一方、アウラの方も同じだ。到着した時点では、エヴィルダース皇太子の胆力が崩されてなかった。この時点で入れば、皇太子側につかざるを得ず、ヘーゼン=ハイムは徹底抗戦しただろう。
「なにが望みだ?」
「爵位と階級は、これ以上望みません。せっかく根回しをしていただいたのに、他派閥からの横槍が入るのも本意ではないでしょう」
「……それだけの気が回せるのなら、最初からやらないでくれ」
「仕方ありません。やられたら、徹底的にやり返すが主義なもので。まあ、やられる前にやり返すが理想ではありますがね」
「……」
それは、ただ一方的に殴り続けるだけでは、と思わなくもなかったが、もはや反論する気もなかった。
「であれば、金か?」
「土地です。肥沃で広大な土地が欲しい。できれば、平地の草原がいいですな」
「……なにを企んでいる?」
「帝国の発展ですよ」
「……」
こちらが提示し得る選択肢などない。議論の余地もないことに時間を費やすことは無駄だ。アウラは素直に首を縦に振った。
「まさか、『一国分くれ』とは言わんだろうな?」
「常識的な範囲で構いませんよ。ただ、皇太子殿下は相当によい土地を所有していると思いますので」
「……」
最初から狙い通りと言う訳か。皇太子としての自尊心の価値。ヘーゼンには、毛ほどの価値もないそれが、ここまで大きな代償を支払うことになるとは。
「すぐレイラクに資料をまとめさせて、皇太子の了解を得るようにしよう」
「もし、渋りましたら、『皇帝の謁見を楽しみにしてます』とお伝えください」
「……心の底から、本当に嫌なヤツだな」
アウラはジト目で、笑顔のヘーゼンを睨んだ。




