バライロ(2)
「はっ……」
マルナールは目が覚めた。そこは、見慣れた天井だった。自分の屋敷。夢……いや、妙に生々し過ぎる悪夢だった。
痛々しい感触といい、口に広がる血の濃い味といい……だが、あんな非現実的なことは起こるはずがない。
「いっぎっ……」
そう思って起きあがろうとすると、至るところから激痛が走る。なんだこのとめどない痛みは。昨日、調子に乗って飲み過ぎたからか。
「気がついたかな?」
「ひっ……」
側にいたのは、バライロだった。いきなり恫喝マウントを取ってきて、マルナールをブン殴りまくった異常者だ。なんで、夢の中の男が現実に。マルナールは酷く混乱する。
「ごめんね、少しやり過ぎちゃって。反省反省」
「……っ」
現実だった。『そんなまさか』とは思うが、全身の痛みがそれを証明している。そして、今、この男が何を口走っているか、まったく理解ができない。
反省? いったい、どの口が言うのだ。こんなものパワハラ以外の何物でもでない。速攻で人事省に訴えてやる。
「ほら、最初が肝心だって言うだろう? だから、少しだけ厳しくしたんだ。そしたら、俺を飛び越えて上官に行っただろ? 俺さ、アレ、許せないんだ。次、やったらさ、本当に許さないから」
「……っ」
狂人。紛れもない狂人であったか。ヤバい。なんでこんな激ヤバさんが、天空宮殿の私設筆頭秘書官に。
「じゃ、そろそろ行こうか?」
「えっ、どこに……」
「ソロソロ勤務時間だから。遅刻するから早く。一緒に仕事に行こう」
「えっ!?」
「全然、気にしなくていいから。君の屋敷に連れてきたのも俺だし」
「……っ」
自宅を覚えられた。
「俺は君の先輩で教育係だから、これから、毎日迎えに来てあげるよ」
「ひっ……」
言葉も態度も優しいが、怖い。
「い、いやでもそんな。バライロ秘書官もお忙しいでしょう。わざわざ、そんなお気遣い頂かなくても」
「大丈夫だよー。可愛い後輩のためを思えば、そんなことくらいなんでもないよー」
「……っ」
嫌すぎる。なんなんだ、コイツは。
「ほら、早く。準備して」
「やっ……離しっ……な、なんだこれ」
抵抗してもがこうとしたが、両手には縄が縛られている。
「いや、魔杖とかで抵抗されると困るからさ。指導が行き届くまでは、研修期間ってやつだから、我慢してくれ」
「……っ」
抵抗する気力がなくなるまでは、こんな力づくのやり方で抑えようというのか。なんというイカれ野郎。とは言え、今は従順に従っておいて、隙を見てなんとか逃げなければ。
マルナールは起き上がって、バライロの後をついていく。
ダゴルのいる執務室に入ると、すでに全員が淡々と仕事を開始していた。バライロとマルナールが来ても、誰も気にする様子はなく、和気藹々と仕事をしている。
バライロは、周囲を満足気に見渡して、マルナールの肩を強めに叩く。
「いぎっ!?」
「ほらね。みーんな優秀だから……お前と違ってぇ!」
「ひっ……痛い痛い痛いい゛い゛い゛っ!」
「手がかかるのは、お前だけ。だから、俺はお前だけを見る。ずっと見てるから、サボるなよ!」
部屋に入った途端、急に豹変するバライロ。そんな光景をニコニコと眺めながら執政官のダゴルが頷く。
「うんうん。今日もみんな、頑張って行こう!」
「あっ……くっ……ううっ……」
ガン見。必死で、『助けて』とサインを送るが、ダゴルは気づかずにニコニコニコーっと、笑みを返す。なんなんだ、見えてないのか? この執政官には、この景色が見えていないのか?
「じゃ、仕事をしようか? ほら、座って早くやれ」
「ひっ……はひっ……」
バライロがマルナールを座らせて、後ろに立つ。マルナールはすぐさま、仕事に取り掛かる。とにかく、ジルモンドからの引き継ぎ書類を読むフリをして、どうにか逃げられないかを探る。
なんとか隙を見て、人事省に行かないと……この、明らかに狂った異常な職場から、一刻も早く抜け出さないといけない。
仕事内容はハッキリ言ってわからない。ただ、それはバライロだって同じことだ。とにかくやるフリだけ。やるフリだけ。
「っと。ジルモンド秘書官が進捗管理表を作ってくれているから、これに沿ってやれな。できなかったら、なんでできなかったのか聞くから……お前の身体で」
「……っ」
圧倒的なパワハラ。いやむしろ、パワハラ過ぎる。
なんとか仕事に取り掛かる。もう死ぬ気で取り掛かる。でなきゃ、殺されても不思議じゃない。
数時間、人生でこれ以上集中したことがないくらい集中した。マルナールはジルモンドが準備した引き継ぎ資料をすべて魂に刻み込む。
ふと。
後ろを見ると、バライロがガン見してる。1秒足りともこちらの怠慢を逃しはしまいと、ガン見。
「あ、あの。私はもう大丈夫ですので。バライロ秘書官も仕事をなさってください」
「俺? 俺は仕事のできない部下の管理業務だから」
「……っ」
他には!? 他には何もせずに、ずっとこちらだけ見張るつもりか? そんな仕事あるか。あまりにも、意味がなさすぎる。
「いや、俺は頭が悪いからなぁ……こんなことぐらいしかやる事がないんだ」
「そ、そんなことないですよー」
全然そんなことある。クソ馬鹿。異次元の馬鹿。だが、ここから逃げ出すまでは、なんとかおべっかを使って切り抜けなければ。
「……あ? お前、俺のごしゅ……上官から頂いたありがた過ぎるご指摘を否定するのか?」
「い、いえいえ! 滅相もないです」
情緒不安定。普通、するだろう。フリだと思うだろ。ネガティブなことを言う上官は否定されたがってる。鉄板だろう。
「いや、馬鹿なんだよ実際」
「そーですよね。馬鹿。ほーんとに馬鹿」
「あ?」
「……っ」
ど、どーすれば。
「でもな。ごしゅ……上官はこんな馬鹿な俺に金言を下さった。『もし、君が訴えられたとしたら、それは、君のパワーが足りないからだ』って。『君は馬鹿だから、この言葉だけ覚えておけ』って」
「ごしゅ……上官は仰った『力こそ、パワーだ』」
「……っ」




